説    教   ゼカリヤ書13章7〜9節   マルコ福音書14章27〜31節

「 十字架の躓き 」

2014・02・23(説教14081525)  主イエスと弟子たちがエルサレムで「最後の晩餐」の時を終え、オリブ山に向かっている時のことでし た。歩いてもそれほど遠い距離ではありませんでしたが、既に周囲は夜の闇に覆われていました。この夜 道を歩きながら、主イエスは弟子たちに「あなたがたは皆、わたしにつまずくであろう」と、はっきりと 言われたのです。弟子たちは非常に驚いたことでした。なぜなら、ここで「つまずき」と言うのは、弟子 たちがキリストを見捨てて逃げ去ることをさしていたからです。「信仰を捨てること」と言い換えても良い でしょう。   私たちは普通「つまずき」と聞まきますと、それは自分の外側の出来事だと感じます。つまり「つまず かせる」のは誰か他の人であって、自分はむしろ「つまずかされる」側だとそう思うのです。しかし今朝 の御言葉でいう「つまずき」とは、むしろパウロがガラテヤ書5章11節において語っている「十字架の つまずき」であります。「十字架のつまずき」とはとても重い言葉です。私たち自身のことなのです。十字 架で死なれた主イエスこそ「神の子・救い主」であると信じること、それは私たち人間には「容易に信じ られないこと」(つまずき)なのです。だからパウロは「十字架は、ギリシヤ人にとっては愚かであり、ユ ダヤ人にとってはつまずきである」と申しました。全能の主なる神が、十字架において苦しみを受け、血 を流して死なれたということは、人間にとって「つまずき」なのです。私たちが主イエスを「神の子・キ リスト」(救い主)と信じることは、まさにその「十字架のつまずき」を乗り越えることです。十字架で死 なれた主イエスこそ、キリスト(神の御子)であると信ずることです。それは復活の主イエスとの出会い によって起こることです。  さて、主イエスは、弟子たちがみなご自分に「つまずく」ことを予告されたのち、続けて旧約聖書ゼカ リヤ書13章7節の言葉を引用されました。それは「わたしは羊飼を打つ。そして、羊は散らされるであ ろう」という言葉です。この御言葉どおりのことが起こるのだと主イエスは語っておられるのです。主イ エスはここでご自分を「羊飼」に、そして弟子たちを「羊」に譬えておられます。今や群れの「羊飼」で ある主イエスは捕らえられ、十字架に死なれようとしています。これが「羊飼が打たれる」ことです。そ のとき「羊」である弟子たちは、羊飼い主イエスが「打たれる」のを見て、みなあえなく逃げ去り「散ら される」(信仰を棄ててしまう)と言われるのです。  大切なことは、弟子たちに対する(私たちに対する)この「つまずき」の予告はそれだけで終わらなか ったことです。主イエスは続けてこのように言われたのです。今朝の14章28節です。「しかしわたしは、 よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。普通に考えるなら「羊飼」である主イ エスを「羊」である弟子たちが「見捨てる」と予告しているのですから、たとえば「お前たちは呆れた恩 知らずだ。せっかく今まで面倒を見てやったのに…」という恨み言が続くのが普通かもしれない。あるい は、主イエスは「よみがえってから」と語っておられるのですから「私を見捨てた者は、復活の後で容赦 しないぞ」というような脅しの文句を語られても不思議ではないのです。  しかし主イエスは、弟子たちがみなご自分に「つまずき」ご自分を見捨てて逃げてしまう(信仰を棄て てしまう)ことを承知の上で、それだからこそ「あなたがたより先にガリラヤへ行く」と言われたのです。 「わたしは先にガリラヤに行って、あなたがたを待っている」と言われたのです。「たとえあなたがたが皆、 つまずいても、ガリラヤでわたしに会えるのだ」と約束して下さったのです。つまり主イエスは、ご自分 を見捨てて逃げ去って行こうとする弟子たちと「待ち合わせの約束」をなさっておられる。しかもその待 ち合わせの場所として「ガリラヤ」を指定して下さったのです。譬えて言うならば、主イエスは、ご自分 を裏切って信仰を棄ててしまう弟子たちに対して「心配することはない。私があなたがたの滅びを担って 十字架にかかる。そして、あなたがたは復活した私とガリラヤで再び会うであろう」と約束して下さった のです。  「ガリラヤ」は弟子たちにとって、主イエスと初めて出会い、主イエスの呼びかけに応えて弟子となっ た場所です。主イエスと共に宣教活動を始めた場所です。つまり弟子たちにとっては「ガリラヤ」は主イ エスの弟子となった原点そのものです。だから主イエスが「ガリラヤで会おう」と言われたことは、弟子 たちはみな、一度は主イエスを見捨てて去って行くけれども、そのことによって、言わば「弟子失格」の 事態に陥るけれども、ご自分が復活した後にもう一度、弟子としての原点である「ガリラヤ」で再会して 「やり直すことができる」のだと、はっきりと約束して下さったのです。ここに弟子たち(私たち)に対 する主イエスの限りない愛があります。弟子たちを決してお見捨てにならない主イエスの愛があります。 この愛によって、弟子たちは、ひとたびは「つまずき」ましたが、その「つまずき」を通してこそ、本物 のキリストの弟子へと強められ、新たにされていったのです。  ところが、この主イエスの恵み深い言葉に対して、なんとペテロは方向違いのことを申してしまうので す。それはペテロが「たとえ、みんなの者がつまずいても、わたしはつまずきません」と言い張ったこと です。他の弟子はどうであれ、私だけは決して、主イエスを見捨てることなど致しませんと言い張ったの です。すると主イエスは、ペテロにこう宣言されました。30節です「あなたによく言っておく。きょう、 今夜、にわとりが二度鳴く前に、そう言うあなたが、三度わたしを知らないと言うだろう」。ここで「知ら ないと言う」とは、関係を否定することです。自分と主イエスとは無関係だ、赤の他人だと言い張ること です。しかも「きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に」というのですから、朝までの数時間のあいだに、ペテ ロは、主イエスとの関係を「三度」も完全否定することになるというのです。するとペテロは、ますます 激しく反論し、誓いの言葉を言い立てました。「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなた を知らないなどとは、決して申しません」。そして「みんなの者もまた、同じようなことを言った」とあり ます。忠臣蔵の場面を見るようです。しかしその「忠臣」であるはずの弟子たちが、みな十字架の主イエ スの前に「つまずき」逃げ去っていったのでした。たった数時間のちに、弟子たちは十字架の主イエスを 見捨てたのです。中でもペテロは、最も悲惨な失敗をしました。命懸けの誓いを立てた手前、ペテロは勇 気を振り絞って大祭司カヤパの屋敷に潜入しましたが、お前はイエスの弟子ではないかと声をかけられま すと、たちまち恐怖のあまり三度も「自分はイエスとは何の関係もない」と誓い、呪いの言葉さえ口にし、 外の暗闇に逃げたのでした。    こうして、弟子たちはみな「つまずき」を経験しました。弟子たちはみな主イエスに従うことに失敗し 「つまずいた」のです。勢い込んで命懸けの誓いを立てたにもかかわらず、皆あえなく主イエスから離れ、 信仰を棄ててしまったのです。しかし弟子たちの「つまずき」は主イエスとの関係の終わりではありませ んでした。むしろ本当の主イエスとの関係が、そこから始まっていったのです。弟子たちはみな例外なく 「絶望の暗闇」を経験しました。それこそが「つまずき」の本質です。主イエスを見捨てて逃げた弟子た ちは、自分たちはこれで主イエスとの関係を永遠に失ったと思ったことでした。せっかく築き上げた主イ エスとの師弟関係を、自分たちの「つまずき」から粉々に壊してしまったと感じたのです。言わば、主イ エスの御言葉どおり「つまずいて」しまった時に、すなわち、信仰生活において大失敗をしてしまった時 に、はじめて弟子たちは、自分がいかに「罪人」であるか、神に叛いた者であるかを思い知らされたので す。いざとなると命がけの誓いさえも捨て去り、自己保身のために信仰も棄てる者であることを思い知ら されたのです。  しかし弟子たちは、まさにその「つまずき」の中でこそ、主イエスの恵みの御手に立ち帰らされたので した。主が“つまずきの予告”の中で約束して下さったことが、現実のものとなったのです。すなわち「し かしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」という約束の実現です。 主は「つまずき」に満ちた私たちを「ガリラヤ」で待っていて下さる。それは単なる地名としてのガリラ ヤではなく、私たち一人びとりの信仰の原点です。「つまずき」に満ちた私たちの人生そのものなのです。 それが私たちの「ガリラヤ」なのです。それは主が生命を献げてお建てになった教会のことです。「ガリラ ヤ」とは主の教会のことなのです。そこで、あなたがたは「再び私に会う」と約束して下さったのです。  罪の塊りのようなこの私たちのために、主イエスが十字架で死なれ、贖いとなって下さり、さらに復活 して、死に絡みつかれた私たちを、信仰の原点である「ガリラヤ」(教会)で待っていて下さる。この恵み の事実に、私たちはいま生かされ、支えられ、導かれているのです。このように見て参りますと、弟子た ちにとって、本当の主イエスの弟子たる道は、まさに主イエスに「つまずく」ことに始まった(備えられ た)と言えるでしょう。「十字架のつまずき」こそは、大いなる救いの恵みの宣言なのです。「人間の終止 符は、神にとっては始まり」なのです。私たちの「つまずき」の経験をも、神は私たちの救いのために益 となして下さる。取り返しのつかぬ失敗や挫折も「救いへの入口」として下さるのです。この神の御手に、 私たちはみずからの歩みを大胆に委ねまつり、魂を打ち砕かれ、高ぶりを取り去られ、ひたすらに御言葉 による養いを求めて参りたいと思います。主は「ガリラヤ」で(教会で)私たちを待っていて下さるから です。そこにおいて私たちは、幾度でも復活の主にお目にかかり、主に従う本当の主イエスの弟子となら せて戴けるのです。