説    教    列王記上17章17〜24節  マタイ福音書9章18〜26節

「 二つの救い 」

2014・02・16(説教14071524)  今朝のマタイによる福音書9章18節以下には2人の女性が登場して参ります。一人は女性 と申しましても少女です。会堂司ヤイロの娘で12歳であったとマルコ伝には記されています。 もう一人は12年間も「長血」という病気を患っていた女性です。そこで、主イエスがパリサ イ人らと対話をしておられる所に割りこむように、まず少女の父親・会堂司ヤイロがやって来 ました。そして主イエスの前にひれ伏して申しますには「わたしの娘がただ今死にました。し かしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」 と言うのです。  この少女の死の事実に、その場に居合わせた人々は粛然としました。弟子たちもただおろお ろするばかりです。常識的に考えるなら、少女はもう「死んでしまった」のです。なにも主イ エスに来て癒して戴く必要はないはずです。死の力は人間にとって最終的かつ決定的であり、 それを覆せる人間は存在しないからです。だからこそ私たちは「しかし、おいでになって…」 と必死に願うヤイロの言葉に心を打たれます。わが子を失った悲しみの中で、ヤイロは主イエ スの足元にひれ伏し「しかし主よ、おいでになって、あなたの御手を私の娘に置いてやって下 さい。『そうしたら、娘は生き返ります』」と言い切るのです。この「しかし」には、主イエス に対するヤイロの揺るぎなき信仰が現れています。  なによりもヤイロは主イエスを、死者をも復活させたもうかた、死の支配を打ち砕く唯一ま ことの神の御子(キリスト)と告白しているのです。わが子の死は厳然たる事実です。「しか し」その絶望の中に「主よ、あなたは来て下さいます」。生命を与えて下さいます。どうかお いでになって、わが子に手を置いてやって下さい。そうすれば「娘は生き返ります」と彼は信 じるのです。だからヤイロは主イエスを「拝した」(礼拝した)のです。この様子を見ていた パリサイ人らは、本来は自分たちの仲間であるはずの会堂司ヤイロが主イエスを「礼拝し」懇 願する姿を批判したことでしょう。その意味でヤイロは、自分の地位も名誉も全てを擲ち主イ エスに自分を明け渡しています。主イエスのみが「死」の力を打ち砕き「永遠の生命」(救い) を与えて下さる「キリスト」であるとヤイロは信じたのです。このヤイロの願いに、主イエス はすぐに応じたまい、彼と共に死んだ少女のもとに向かわれました。19節には「そこで、イエ スが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った」とあります。一行は一刻も早く 主イエスを少女のもとにお連れしようと、先を急いでいたに違いありません。  ところがそこに、思いもかけないことが起ります。12年間も「長血」と呼ばれる病気(おそ らく婦人病であったと思われますが)に苦しんできた一人の女性が、群衆に紛れこんで主イエ スに近寄って来たことです。実はこの女性の病気の苦しみは、ただ身体的なことだけではあり ませんでした。当時のユダヤ社会においては「長血」と呼ばれる病気は律法の上から“汚れ” と見なされていたのです(レビ記15章25〜27節)。そのためこの女性は、病気そのものの苦 しみに加え、宗教的、社会的、そして人間的にも疎外される三重四重の苦しみを味わっていた のです。近所づきあいも許されず、宗教的にも社会的にも抹殺されて、孤独と不安の内に病気 と向き合ってきた12年間。それは彼女にとって、どんなに辛く苦しい年月であったことでし ょう。しかも“汚れた女”というレッテルを貼られた彼女は、群衆に取り囲まれた主イエスに 近づくことさえ許されないのです。正体がわかれば、パリサイ人らによって石打ちの刑に処せ られるのです。  しかし彼女はそこで怯みませんでした。それこそ「生命がけ」で主イエスのみもとに近づく 決意を実行するのです。これは彼女が、ただ主イエスのみが「自分の病を癒して下さるキリス トである」と信じたからです。主イエスのみが「自分の全ての苦しみと悲しみを知っていて下 さる」と信じたからです。しかし主はいま、会堂司の娘を甦らせるために道を急いでおられる。 だから彼女はせめてもと、主イエスの背後からそっと近づいて、その御衣のふさに「触れる」 ことにしました。それなら迷惑はかかるまいと思ったからです。それ以上に21節にあるよう に「み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたから」です。  更に申すなら、彼女は、自分のような宗教的に“汚れた者”が主イエスに直接触れてはいけ ない。だからヤイロのように正面から主イエスに願い出ることをせず、あえて背後から、ただ 「み衣のふさにさわった」のです。この女性の苦しみの大きさを改めて思わずにおれません。 苦痛や悲しみが余りにも大きいとき、人間は正面から声を上げることができなくなります。そ して、こうした「声にならぬ声」は誰にも聞かれず、受け止められることもなく、放置されて しまうのです。その意味で、主イエスの「み衣のふさ」に背後からそっと触れた彼女の行動は、 まさに「声なき声」の必死の叫びでした。縋るような彼女の祈りと願いが、主イエスの「み衣 のふさ」に伸ばされた震える手にこめられていたのです。  さて、主イエスを取巻く人々はもちろん、彼女の存在に気付くはずもなく、先へ先へと急い でいました。何かに急いでいるとき、人は周りのことが見えなくなります。自分のことだけで 心が一杯になるのです。ところが主イエスは、かくも切迫した状況の中にあってなお、12年間 も苦しんできたこの女性の「声なき声」をしっかりと受け止めて下さいました。後ろからそっ と「み衣のふさ」にさわった彼女の震える手を、主イエスはまともに正面から受け止めて下さ いました。手ばかりでなく、この女性の思いも、辛さも、苦労も、悲しみも、その全てを主イ エスは、受け止めて下さったのです。だからこそ主イエスは、その場に立ち止りたまいます。 そして後ろを「振り向いて」この女性を探されます。マルコ伝には「わたしの衣に触ったのは 誰か?」と主は問い続けられ、女性を見いだすまで留まられたと記されています。驚いたのは 周囲の人々です。主よ急いで下さいと願ったことでした。息詰まるような数分間の後、この女 性はついに畏れ慄きつつ主の前に進み出て、ありのままを申し上げました。自分の辛さ、悲し さ、孤独と絶望のありのままを主イエスに申し上げたのです。主イエスはこの女性を優しく見 つめたまい、こう言われました。22節です「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなた を救ったのです」。  この瞬間に、この女性の長年の病は、ただ肉体的な癒しのみならず、彼女の全存在が、神の 愛と祝福のもとに回復していったのです。主イエスに受け止められ、主のまなざしの中に存在 への勇気と希望を与えられ「しっかりしなさい」と御声をかけて戴きました。この「しっかり しなさい」とは「私があなたのために十字架を担う。私はあなたと共にいる」という意味です。 この御声により、彼女は身も魂も癒され、新しい生命(永遠の生命)を与えられたのです。宗 教的、社会的に抹殺されていた彼女が、最も大きな父なる神の御手の内に生命を回復したので す。勇気と喜びをもって生きる存在へと変えられたのです。  さて、こうした一連の出来事の中で、主イエスの一行はようやく会堂司の家に到着しました。 するとそこは「やっと来たのか、もう手遅れだ」という冷たい反応でした。既に葬式の準備が されていたのです。近所の人々が集まり、「笛吹き」や「泣き女」が来て騒然としていました。 主イエスはこの人々にまず「みんな外に出るように」とお命じになります。人払いをされたの です。「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。この主 の言葉を聞いて、本当に悲しんでいない人々は主イエスを「あざ笑」いました。「なにを言っ ているんだ、もう死んでしまった少女に、いまさら何ができるのか?」と思ったのです。  しかし主イエスは、毅然として人々を家の外に出るよう命じたまい、そして両親と3人の弟 子だけを連れて少女の亡骸の横たわる部屋に入られました。そして「タリタ・クミ」と言われ て少女の手をお取りになりますと、少女は眠りから覚めたように起き上がったのです。主イエ スのお言葉どおり、死んでいた少女は甦ったのです。こうして主イエスの御手を通して、少女 に生命が与えられました。実に主イエスは、私たちに生命を(救いを)与えて下さるかたなの です。このときの「タリタ・クミ」(少女よ、さあ、起きなさい)というアラム語の御言葉を、 弟子たちは生涯忘れませんでした。この言葉はアラム語のまま初代教会に伝えられ、私たちに も伝えられているのです。  このように主イエスは、12年間も「長血」を患っていた女性と、死んだわが子を悲しむ会堂 司ヤイロの切なる願いを、受け止めて下さいました。そして12年間患っていた女性を癒し、 ヤイロの娘を甦らせて下さいました。ここには「二つの救い」があります。ひとつは「本人が 心から願っていた救い」であり、もうひとつは「本人が願うことさえできなかった救い」です。 大切なことは、そのどちらの「救い」をも、主イエスは私たちに与えて下さるかただという事 実です。そこにあるのは信仰なのでしょうか?。むしろ不信仰な人々のただ中で、主イエスは 生命を私たちに与えて下さいます。ヤイロも、長血の女性も、「まさかそこまでは」と思った かもしれません。私たちも同じなのです。自分を知れば知るほど、「主よ、私には、救いは無 いのではありませんか?」と疑うほかなき私たちなのです。しかし、その疑いのただ中で、た だ主の恵みの真実のみが私たちを救うのです。ここにあるのはヤイロや長血の女性の熱心さで さえなく、ただ主イエスの一方的な愛と憐れみ、恵みの真実のみなのです。  さらに、こういうことも言えるでしょう。今朝のこの御言葉では「二つの救い」が現されま した。しかし私たちは、本人や家族の切実な願いにもかかわらず、自分の、あるいは愛する家 族の病気が癒されず、また、死んだ人が生き返らない多くの事例を知っています。では、その 違いはどこにあるのでしょうか?。信仰の問題なのでしょうか?。信じかたが悪いのでしょう か?。あるいは普段の行いが悪いのでしょうか?。もちろん、そうではありません。そういう ことではないのです。  主イエスによって長血を癒された女性も、生き返らせて戴いた会堂司の娘も、やがては死を 迎えたことでした。そこには私たちと変りはないのです。今朝の御言葉が告げている音信は、 病気の奇跡的な治療や死からの生還が「あなたの救い」だということではありません。そうで はなく、まさに私たちのただ中に、いまここに集うている私たちに、救い主の恵みの真実が、 救いの御業が現れているのです。主はいま私たちに豊かに癒しの恵みを現していて下さるので す。それは私たちが主の教会に礼拝者として連なり、また洗礼の恵みを戴いていることです。 この「癒しの徴」は、やがて永遠に実現する復活の生命と世界における救いの完成の「今ここ における確かなあらわれ」であり保障なのです。その確かな保障は、天の国籍は、癒しは、復 活の生命は、いま私たちに与えられている。あなたこそ「その人である」と主は宣言していて 下さるのです。あのヤイロの娘と同じように、あの長血の女性と同じように、この「二つの救 い」はいま私たちに現されているのです。主は言われます。私はあなたと共にいて、あなたの 全存在を贖う。私はあなたに生命を与える。その生命は永遠の生命、限りない「救い」である と。主みずからがはっきりと宣言していて下さるのです。