説    教    イザヤ書35章10節   マタイ福音書11章2〜15節

「 洗礼者ヨハネ 」

2014・02・09(説教14061523)   あるとき、洗礼者ヨハネの弟子たちが、主イエスのところにやって来て質問しました。「『きたるべき かた』は、あなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。この「きたるべきかた」 とはキリスト(救い主)のことです。旧約聖書のヘブライ語では“メシア”と申します。ヨハネの弟子 たちは、主イエスが本当に、預言者が語り人々が待ち望んでいたその“メシア”(救い主・キリスト)な のかどうか、獄に囚われていたヨハネに命じられて主イエスに訊ねに来たのでした。  そこで、この質問に対して主イエスは、今朝のマタイ伝11章4節の言葉でお答えになります。すな わち「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい」すなわち主イエスは、ヨハ ネの弟子たちが自分で「見聞きしたこと」をヨハネにそのまま報告しなさいと言われたのです。そして 続けて、いま世界に現れつつある“救いの出来事”を5節以下に語られます。「目の見えない人は見え、 足の不自由な人は歩き、重い皮膚病にかかった人はきよまり、耳の聞えない人は聞え、死人は生きかえ り、貧しい人は福音を聞かされている」。これらの出来事はみな、メシアが世に来られるときの救いの「し るし」として、旧約聖書の預言書に記されている事柄です。  特にイザヤ書35章5節以下にはこう告げられています。「その時、見えない人の目は開かれ、聞えな い人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の 舌は喜び歌う」。まさに、ここに預言されている「その時」がいまキリストによって実現している。主は このことを明確に語られ、ヨハネが自分自身の信仰で主イエスをメシア(キリスト)と信じることをお 求めになるのです。ヨハネが主イエスを「わが救い主」と告白することをお求めになるのです。だから こそ、主イエスは続けて「わたしにつまずかない者は、さいわいである」と言われました。これは言い 換えるなら「わたしをメシア(キリスト)であると信ずる人は“さいわい”である」ということです。 この「さいわい」とは「救い」と同じ意味を持っています。  ここに明らかにされている福音の真理は何でしょうか?。それは、主なる神は、御子イエスを十字架 で犠牲にしてまでも、私たちを救わんとするほど、熾烈な愛と恵みをもって私たちに相対したもうかた であるということです。主なる神は私たちと御子イエスとを天秤にかけて、私たちのほうが「重い」(あ なたのほうが重い)と宣言して下さるかたなのです。私たちはいま、ヨハネと共に「あなたはこれを信 ずるか」と問われているのです。キリスト告白へと招かれているのです。  だからこそ、主イエスのお答えを受け取ってヨハネの弟子たちが去ってゆくとき、主イエスは群衆に 向かって、ヨハネについての御言葉を語られました。「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか」と、 三度も畳みかけるように群衆に問われ、ヨハネに注意を向けさせたのです。 洗礼者ヨハネは、ユダの荒 野で「らくだの毛衣」に「革の帯」という姿で、人々に悔改めを促す説教をしました。宮廷で「やわら かい着物をまとった人々」とは対照的な姿で「荒野に叫ぶ声」として、全ての人々に悔改めを宣べ伝え たのです。この世の権力に阿る人々とは一線を画し、キリストのみを証しする預言者として、ヨハネは 「主のために道を備える人」となったのです。しかし、ここで言う「荒野」とは、単にイスラエルの砂 漠地帯のことではありません。この「荒野」とは何よりも、神に叛く「罪」によって荒廃したこの世界 の状態をさしています。その意味では現代社会こそ深刻な「荒野」なのではないでしょうか。現代にお いては人間の心そのものが砂漠化しています。そしていったん砂漠になった大地を緑化するのが難しい のと同じように、いったん罪の支配に染まった人間を神に立ち帰らせることは困難を極めます。 だから こそ、この世界はキリスト(救い主・メシア)を必要としているのではないでしょうか。心の砂漠化を 押しとどめ、全ての人の魂に潤いを(真の生命を)もたらすメシアを全ての人が必要としています。目 が見えず、歩めず、耳が聞えず、死んでいるのは、ほかならぬ私たちなのです。それを知ることが御言 葉によって自分の「罪」を知ることです。  主イエスは「荒野に叫ぶ者の声」に徹したヨハネを「預言者以上の者」(9節)と言われ、また「女の産 んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった」(11節)と言われました。ところ が主イエスは続けて「しかし天国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と宣言されるのです。この世界 にはヨハネほど偉大な人物はいない。しかし天国ではそのヨハネでさえ「最も小さな者」にも劣るのだ と言われるのです。それは、洗礼者ヨハネがついに主イエスを“キリスト”と告白することがなかった からです。どんなに素晴らしい地上での行いも、天国の栄光に較べるなら物の数ではありません。ただ 主イエスを救い主(キリスト)と信じる信仰のみが、天国の門を開く唯一の鍵なのです。天国は、主イ エスの贖いのもとに立つ者に対して、ただ神の恵みによって、神から与えられるものだからです。  だから、主イエスははっきりと時代の変化を宣言されました。すなわち、いまやヨハネによって、律 法と預言者の時代に終止符が打たれたのです。つまり、さらなる預言(旧き契約)を待つのではなく、 すでに私たちのために世に来られた主イエスをキリスト(救い主)と信じること、そして主が語られた 御言葉を信じること、それが旧約を成就する「新しい契約」なのです。すなわち、主イエスは14節に こう言われます。「もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人(ヨハネ)こそは、来たるベきエ リヤなのである」。つまり主イエスは、洗礼者ヨハネこそ、メシアが現れる前に先立って現われる「エリ ヤ」であると言われたのです。言い換えるなら、ヨハネが最後の預言者であるということ、そして主イ エスが、エリヤがさし示すメシア(キリスト)であることを明らかにしているのです。逆に言うなら、 主イエスをキリストと信ずる信仰に立ってはじめて、旧約聖書の全体を正しく理解できる。洗礼者ヨハ ネをエリヤであると理解できるのです。  主イエスは、ご自身が語られたとおり「救いの日」に起こる大いなる救いの“しるし”を私たちに実 現して下さいました。救いの出来事がキリストによって世界に現れているのです。神の愛が見えなかっ た私たちが、キリストによって神の愛を知る者とされているのです。罪の支配の中に座りこんでいた私 たちが、立ち上がって神の祝福の内を歩む者とされているのです。罪と死の支配に死んでいた私たちの “からだ”が、キリストの贖いによって生命を与えられたのです。御言葉を聴きえなかった私たちが、 御言葉を聴いて応える僕とされているのです。福音の喜びに生きる群れがここに建てられ、全ての人が 招かれているのです。だからこそ、 主イエスは最後の15節に「耳のある者は聞くがよい」と言われま す。聴覚としての「耳」のことではありません。それは「信仰」を語っておられるのです。いまあなた のために来て下さったキリストを、わが主、救い主としてお迎えすることです。そこに驚くべきことが 起ります。私たちはパウロが「義人はいない、一人もいない」と言うように、神の御前にはこの「耳」 (信仰)の無い者でした。しかし、その「耳」(信仰)を主イエスが与えて下さるのです。主が私たちに 出会って下さるとき、私たちはもはや罪の支配の下にはいないのです。天国がこの世界に突入したので す。  それならば、私たちは改めて、今朝の大切な言葉に立ち戻ります。主イエスはヨハネの弟子たちに「あ なたがたが見聞きしていること(を報告しなさい)」と語られたのです。「見聞きしていること」とは何 でしょうか?。この世界を救うキリストの御業ではありませんか。私たちの資格や能力のあるなしでは ない。それは神の側からの一方的な恵みであり、天国への招きなのです。それをこの私の「救いの音信」 (おとずれ)として、私たちは聴く「耳」を(信仰を)持つ者とされている。それは、私たちのもとに キリストが来て下さったからです。そして主は私たちのために、十字架におかかりになって、贖いとな られたからです。贖いの小羊なるキリストは、すでに私たちのために屠られた(十字架を背負われた) のです。救いの御業は成就したのです。だとすれば「耳のある者は聞くがよい」とは、全ての人に対す るキリストへの招きなのです。  私たちが、全ての人が、神の御子キリストが、いまあなたのために来られたという福音の音信を「聴 く」者とされているのです。キリストが、あなたのために十字架を担って下さった。朽ちるべき者に生 命を与えて下さった。砂漠化するこの世界に(人間の魂に)ご自身の生命を注いで、生きる者として下 さった。あなたはいま、その福音を聴く者とされているではないか。あなたはいま、キリストに出会っ ているではないか。あなたはいま、キリストの限りない愛の内に生かされているではないか。あなたこ そ、天国に国籍を持つ者とされているではないか。この恵みの事実においてこそ「天国でもっとも小さ い者も、彼(ヨハネ)よりは大きい」と言われているのです。それほど大きな救いの恵みを、いま私た ちが、ほかならぬここに集う私たちが、戴いているのです。私たち一人びとりが、いま、天に国籍を持 つ者とされているのです。