説     教    ホセア書6章4〜5節  マタイ福音書9章9〜13節

「 神の招きと救い 」

2014・02・02(説教14051522)  「マタイによる福音書」の著者とも伝えられている十二弟子のひとりマタイは、もとは「取税人」で あった人です。それは今朝のマタイ伝9章9節に、彼が「収税所」に「すわって」いたとあることから わかります。そこで、福音書の中では、この「取税人」は「取税人と罪人」または「取税人や罪人たち」 というように、かならず「罪人」という言葉とセットで出てきます。「取税人」であることは、すなわち 「罪人」であることを意味したのです。  なぜ「取税人」はすなわち「罪人」と考えられていたのでしょうか。主イエスの時代の当時のユダヤ (古代イスラエル)はローマ帝国の植民地(属国)でした。宗主国であるローマ帝国は、この植民地(属 国)であるユダヤに対して、過酷な納税の義務を背負わせました。国力を疲弊させ、ローマに反抗でき なくするのが目的でした。それは人頭税でして、全収入の5パーセントと定められていました。要する にこの“税金”とは、ユダヤ人から見れば、憎きローマに吸い上げられる上納金です。それを徴収する 役割にいた「取税人」は民衆の目から見るなら、同じユダヤ人でありながらローマの手先となって人々 から上納金を巻き上げる不届きな連中でした。  更に悪いことには「取税人」たちはみな、ローマが課したより多くの金額を民衆から徴収し、その余 剰分は自分の隠し財産にするという、あくどいことを平然と行っていたのです。いわばローマの権力を 後ろ盾に私腹を肥やしていた連中が「取税人」でした。そのような“役得”があるものですから「取税 人」になる権利は高額で売買されました。そしてその権利を買った者たちは、元を取ろうとしてますま す私腹を肥やそうとする、という悪循環を繰返していたのです。彼らが民衆から憎み蔑まれ「罪人」と 呼ばれていたのにはそうした背景があったのです。とりわけ、先祖伝来の信仰に熱心なユダヤの人々か ら見れば、彼ら「取税人」たちの行いは「同胞を裏切る背信行為」のみならず、神の“選民”(選ばれた 契約の民)とされた「民族の誇り」を踏みにじるものであり、神に対する重大な「罪」とみなされたの は当然のことでした。そうしたことから「取税人」は「罪人」の代名詞として扱われたのです。  そこで、マタイという人は、まさにそのような現役の「取税人」として「収税所」に「すわって」い たところを、主イエスによって招かれ、主イエスの弟子とされた人なのです。主イエスはマタイを慈し みのまなざしでご覧になり、彼に「わたしに従ってきなさい」と御声をかけられました。今朝の9節に は「すると彼(マタイ)は立ちあがって、イエスに従った」と記されています。聖書は淡々と記してい ますが、主イエスに招かれて、喜び勇んで立ち上がり「直ちに」従っていったマタイの息遣いが聴こえ てくるような場面です。これには同じ取税人仲間たちはもちろん、町の人々もみな非常に驚いたことで した。マタイの決断の速さと共に、このような「罪人」を弟子としてお招きになる主イエス対する驚き がそこにはあったのです。  そこで私たちは思うのです。主イエスの弟子になるとは、今までの自分を捨てて主イエスと常に行動 を共にする者になることだ。人生の180度の大転換だ。そんなに大きなことがどうしてこんなに簡単に できてしまうのか。そこで合理的な推測を試みるのです。そうだ、マタイは「取税人」であったが、自 分がしていたことにいつも罪の意識を持って悩んでいたのだ。自分の行く末を儚んでいたところに、主 イエスからの招きがあったので、直ちにそれに飛びついたのだろう。そのように私たちは解釈するので す。しかし聖書はそのような合理的な理由を全く物語っていません。今朝の御言葉はこのことについて 私たちを“納得させよう”としてはいないのです。  このマタイ伝の8章と9章には、主イエスのなさった様々な奇跡がまとめて語られています。取税人 マタイの弟子への招きもその一つであると言えましょう。しかし聖書は様々な奇跡を語るとき、それを 合理的かつ納得できるように“説明しよう”とはしていません。聖書が宣べ伝えている事柄は、読者を 納得させ「なるほどそれなら無理なく理解できる」と思わせることではなく、私たちを救う唯一の力、 神の恵みの権威そのものである主イエス・キリストを紹介することです。私たちがその主イエスを見つ め、その御業を信じ、そこに示されている主イエスの御心を知ることです。だから、今朝のこの御言葉 においても、ただ主イエスの救いの力の確かさだけが語られているのであって、マタイの決断や動機は 語られてはいないのです。私たちは、聖書が“語ってはいないこと”を詮索するよりも、むしろ聖書が 本当に“語ろうとしていること”をしっかり聴き取らねばなりません。そして主イエスの御業と権威に まなざしを向けて今朝の御言葉を読むとき、この簡単な記述の中に豊かな福音の音信が語られているこ とがわかるのです。  まず「イエスはそこから進んで行かれ」とあります。その「そこ」とはどこのことでしょうか?。そ れはその前の8節までに語られていた御業が行われた場所です。そこでは主イエスは「中風」で寝たき りだった人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦されたのだ」と告げて下さり、それが言葉だ けでなく、権威ある「救いの宣言」であることを示すために「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言 われて彼を癒されたのです。まさにこの癒しの御業、否、正確に言えば“罪の赦しの奇跡”がなされた その場が「そこ」なのです。「そこから」出発して進んでいかれる中で今日の出来事が起りました。すな わち「(主は)マタイという人が収税所にすわっているのを見て」とあります。この「見て」とは「凝視 された」ということです。主イエスが一方的にマタイに、私たちに、慈しみのまなざしを留めて下さる。 そこから救いの出来事が始まるのです。  主イエスの目にマタイは、どのような人に映ったでしょうか。「収税所にすわっているのを見て」と記 されています。主が目をお留めになったのは、収税所に座るマタイ、取税人として仕事の真最中であっ たマタイ、人々から上納金を取り立てているマタイでした。もしかしたら、その日の取立ての中から、 幾ら上前を取れるかと計算中だったかもしれません。「収税所にすわっていた」というのは、まさに彼が そういう「罪」のただ中におり、罪の中に安住していた、そういう姿を主イエスがご覧になった(凝視 された)ということです。「罪」の意識に苛まれ「自分はこれで良いのだろうか」と悩んでいるマタイで はなく、あるいは他の福音書に出てくる取税人のように、神殿から遠く離れて立ち「神よ、罪人のわた しをお赦しください」と祈っている姿でもなく、「収税所にすわっていた」マタイです。「罪」の生活の 中に全身が浸りきり、あの「中風の人」のように起き上がることもできずにいる、そういうマタイを主 イエスは凝視して下さった。そして「わたしに従ってきなさい」と御声をかけて下さったのです。  そこに驚くべきことが起こるのです。すなわち、主イエスに凝視され、御声をかけられたマタイは「(す ぐに)立ちあがって、イエスに従った」とあることです。この「立ちあがって(イエスに従う)」という 言葉は「(収税所に)すわっている」という言葉の正反対です。彼は“座った状態”から“立ち上がった” のです。「罪の中に座りんでいた生活」から「立ちあがった」のです。それはあの寝たきりだった「中風 の人」が起き上がって床を担ぎ家に帰って行ったのと同じです。そしてこの「立ち上がる」も「起き上 がる」も「死者の復活」を意味する言葉なのです。あの「中風の人」も、このマタイも、罪の中に横た わり、座りこみ、起き上がりえない、死んだも同然な状態から、主イエスによって復活の生命「身体の よみがえり」を与えられたのです。マタイが弟子になったという出来事は、まさにそのような主イエス の救いの御業なのです。  今日の御言葉にはもうひとつ、翻訳にはあらわれにくい大切なポイントがあります。「マタイという人 が収税所にすわっているのを見て」というところを直訳するとこうなるのです。「収税所に座っている人 間を見た。彼はマタイといった」。つまり主イエスが見つめられたのは「人間」だったのです。主は「人 間」が「収税所」に「座っている」のをご覧になったのです。そして最後にその名は「マタイ」である と紹介されています。主イエスはまさに『収税所に座っている人間』を凝視なさいます。つまり、罪の ただ中に座りこみ、そこから立ち上がれずにいる無力な人間を(私たちを)慈しみのまなざしで凝視さ れるのです。だから、マタイに与えられたこの「救い」は私たち一人びとりに与えられる「救い」なの です。マタイも含めて、主イエスが見つめられる人間たちの中にこの私たちがいるからです。  言い換えるなら、私たちも自分の「収税所」に座っているのです。自分の「罪」の中に浸りこんでい る者です。主イエスはそうした私たちの、ありのままの姿に慈しみのまなざしをとめて下さる。凝視し て下さる。そして私たちに「わたしに従ってきなさい」と御声をかけ、私たちら「身体のよみがえり」 を与えて下さる。立ち上がらせて下さるのです。あの寝たきりの「中風の人」を立ち上がらせたもうた 主の御力が、いまここに集う私たち一人びとりにも働いているのです。私たちもまた主イエスによって 癒され、立ち上がり、主と共に歩む者とされているのです。主の弟子とならせて戴いているのです。そ れは「あなたの罪は赦されたのだ」と宣言して下さった主イエスの救いの権威です。マタイにも、私た ちにも、同じことが起ります。「わたしに従ってきなさい」という御言葉は「あなたの罪は赦された」と いう宣言を内に含んだ、主イエスの招きの言葉なのです。  この招きを受けたのが、マタイだけではなかったことが、10節以下に語られています主イエスを囲む 喜びの食事(天国の祝宴)の席に、その他大勢の「取税人や罪人たち」が招かれたからです。それを見 たパリサイ人らが、主イエスの弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共 にするのか」と言いました。共に食事の席につくことは最も深い交わりの徴であり、自分はこの人たち と家族であると表明することでした。主イエスは「取税人や罪人たち」を御自分の家族として招き、受 け入れ、生命を与え、交わりを持って下さるのです。パリサイ人らはそのことで主イエスを非難しまし た。主イエスが理解できなかったのです。  パリサイ人というのは、決して悪人ではありません。むしろ一所懸命努力精進して、正しい良い人間 になろうとしている人々です。だからこそ、その自分の正しさにおいて他者を審きました。私たちもあ んがい、キリストではなく自分の正しさに拠り頼むとき、このパリサイ人らに似てくるのです。私たち もまた「あなたの罪は赦されたのだ」と宣言して下さる主イエスの声を他人事のようにしか聞いておら ず、罪人を招きたもう主を審いていることはないでしょうか。信仰ではなく、自分の正しさ、清さ、努 力や経験が、結局は自分を支えていることはないでしょうか。  この私たちの「罪」に対しても、主ははっきりと救いの宣言を与えて下さいます。それこそ今朝の12 節以下の御言葉です。「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。『わたしが好むのは、あわ れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を 招くためではなく、罪人を招くためである」。そうです、丈夫な人に医者は必要なく、病人こそが医者を 必要とするのです。そして、使徒パウロが語るように、私たちは神の前には誰ひとりとして「義人」で はありえません。それにもかかわらず、私たちは自分を「義人」とし、神の前に「収税所にすわってい る」者であり続けようとするのです。主イエスは言われます。「わたしがきたのは、義人を招くためでは なく、罪人を招くためである」と。マタイのことです。収税所に座っている人間のことです。ここに集 う私たちのことです。まさに主は私たちのためにこそ、人となられてこの世に来て下さいました。そし て、十字架への道を歩んで下さったのです。ご自身を全く贖いとして献げ尽くして下さったのです。  今朝の旧約・ホセア書6章4節以下は、主が「学びなさい」と命じたもうた御言葉です。「学ぶ」と は十字架の主を「信じること」です。禅語で申します「無事」です。キリストを告白し教会に連なって 礼拝者として歩む、新しい祝福の人生です。そこに私たちに対する主の「招き」があります。「わたしに 従ってきなさい」と主はいま、私たちに語りかけて下さるのです。この「招き」によって私たちは、そ れぞれの座っている収税所から立ち上がり、主イエスの弟子となることができるのです。あるがままに 立ち上がり、主の贖いの恵みに自分を投げかけるのです。主に従ってゆくのです。あなたにも、それが できる。あなたこそ、私の愛するかけがえのないその人であると、主は語っていて下さるのです。