説    教    列王記下5章14〜19節  マタイ福音書14章22〜27節

「安かれ、我なり」

2014・01・12(説教14021519)  主イエス・キリストは私たち全ての者に「安かれ、我なり」と告げて下さいます。新約聖書マタイ伝 14章27節にあるこの御言葉は、もともと旧約聖書・列王記下5章19節に記されているものです。こ の旧約の言葉を読む時、私たちの心に深く主イエスの慰めに満ちた宣言が響くのです。  そもそも私たちの日常の生活は、いつも数多くの「不安」や「恐れ」に囲まれているのではないでし ょうか。現代は「不安」という「病」に取り憑かれた時代です。この「不安の時代」にありまして、私 たちはどんなに人の言葉で「安心しなさい」と言われても安心はできません。見えない「不安」におの のく私たちの現実、正体不明の「恐れ」を、自分の力ではどうすることもできないのです。  キェルケゴールという思想家は、私たち人間の「不安」の原因は「人間の根源的な自由が体験する眩 暈」にあると申しました。これは言い換えるなら、現代人は真の神を見失った結果、船に譬えるなら漂 流船のようになっているということです。それが「根源的な自由」(この自由とは漂流ですが)であり、 それは人間を不安と恐れへと突き動かす自由なのです。つまり現代人は「本当の自由を知らないでいる」 とキェルケゴールは語るのです。  そればかりではありません。地震や津波や集中豪雨による地盤崩落などの大規模自然災害は私たちの 予想を超える形で起こります。新聞やテレビを視ても、私たちの心に「不安」をかき立てる出来事は決 して無くなりません。だとすれば一体どこに私たちは安心を見出しうるのでしょうか?。この「不安」 こそはまさに現代に生きる私たちの最重要問題だと言えるでしょう。  「安んじて行きなさい」。旧約聖書の中で、そのように預言者エリシャから声をかけられたのはナア マンという人でした。彼は列王記下5章1節に記されたとおり、スリヤという異国の軍隊の司令官でし た。このスリヤはイスラエルにとっては敵国であり、つまりその軍司令官ナアマンは、イスラエルにと っては憎むべき敵の指導者であったわけです。そのナアマンが「重い皮膚病」を患っていました。多く の財産を持っていたナアマンは、もちろん治療のため色々な手段を試したことでした。しかしどのよう な医者も薬も、ナアマンの「思い皮膚病」を治すことはできませんでした。そのようなとき、敵国イス ラエルの捕虜である少女が話している言葉を聞きました。列王記下5章3節です。「ああ、御主人(ナ アマンのこと)がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はその重い皮膚病を いやしたことでしょう」。  ナアマンは、この少女の言葉に心打ち砕かれるのです。自分が軍司令官としてイスラエルの町を攻め 落とした時、捕虜として無理やりスリヤに拉致された一人の少女が、憎むべき敵であるはずの自分の重 い皮膚病を憐れみ、故国サマリヤにその病気を治してくれる預言者がいることを告げたのです。いわば この少女は、町を焼かれ、家族を殺された憎しみを超えて、ナアマンの病気の癒しを神に願っている。 この少女の心(信仰)にナアマンは打ち砕かれるのです。そこに本当の「救い」があると感じるのです。 そこでナアマンは直ちに王に事情を話し、イスラエルのその「預言者」に会いに行きたいと願うのです。 王は快くそれを許可し、敵国であるイスラエルの王に対して、ぜひナアマンを預言者エリシャに引き合 わせてくれるようにと親書をしたため、そのうえ贈物としてたくさんの金銀を持たせてくれます。勇気 づけられたナアマンは、その親書と貢物とを携えて、預言者エリシャに会うべくイスラエルへと旅立つ のです。  さて、ナアマンの故郷であるシリヤのダマスコから、預言者エリシャのいるサマリヤまでは、現代の 距離に直して約300キロの道のりでした。葉山から豊橋ぐらいまでの距離です。今日のような交通手段 のない時代、しかも病気のナアマンにとっては辛い道であったことでしょう。ともあれ、このときナア マンは「馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った」(列王記下5:9)と記されています。 これはひとつには、イスラエルの王が自分を殺すかもしれないという「恐れ」からでした。事実イスラ エルの王はナアマンの訪問を「戦争を仕掛ける罠かもしれない」と警戒しました。しかし預言者エリシ ャはナアマンを癒すことが神の御心であると信じ、ただ神の御言葉に従って正しく行動するのです。そ して次の場面に移ります。  ナアマンにしてみれば、スリヤの軍司令官である自分が、わざわざ王の親書と貢物を携えてまで預言 者エリシャに会いに来たのだ、という自負がありました。だからエリシャに面会できるのは当然だと思 っていました。エリシャはきっと、まじないや魔法のような、驚くような治療法で自分の皮膚病を癒し てくれると思っていたのです。ところがエリシャはナアマンに直接は会わず、ただ弟子を遣わしてナア マンに「あなたはヨルダン川へ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえっ て清くなるでしょう」と伝えた。ナアマンのプライドは傷つけられました。サマリヤからヨルダン川ま では約30キロの距離があります。スリヤから300キロを歩いてエリシャに会いに来たのに、当のエリ シャは弟子を通して「ヨルダン川に行き、七たび身を洗いなさい」と指示するだけなのです。川で身を 洗うだけならスリヤでもできたことではないか、私を愚弄するのかと、ナアマンは怒りのあまりそこを 立ち去ろうとします。  今のこの「苦しみ」「悩み」「不安」からどうにかして救われたい。自分の病気をどうにかして癒し て欲しい。そういう願いが強ければ強いほど、ときに私たちは神の御言葉を素直に聴くことができなく なります。肝心なところで「自我」が信仰の邪魔をするのです。自分のプライドや経験や知識に拠り頼 んでしまうのです。この時のナアマンがそうでした。ナアマンは、自分の願ったとおりの解決法でなけ れば、そこに「救い」はないと決め付けていたのです。そういう自己中心の罪を、ナアマンのみならず 私たちこそ持っているのではないでしょうか。神に造られた存在である私たちは、神の言葉のもとでし か真の平安を受けることはできません。その逆に、古きおのれという名の「ダマスコの川」に戻ろうと する傲慢さから、いつのまにか私たちは「自分のための神」(自分を喜ばせる神)「自分のための教会」 (自分を喜ばせる教会)という偶像を祭り上げてしまいます。そこではキェルケゴールが語るように、 自由とは名ばかりの「漂流船」のような“魂の放浪”が続くだけです。私たちの「不安」という「病」 は決して癒されないのです。むしろ私たちが知るべきことは、神がどんなに限りない恵みをもって私た ちをここに招いて下さったか、その恵みの満ち溢れる「重さ」です。ナアマンはその神の恵みに少しず つ心が開かれてゆくのです。  場面は変わって、新約聖書マタイ伝14章22節以下です。主イエスはガリラヤ湖の岸におられたまま、 弟子たちだけで舟で向こう岸に渡ろうとしていました。航海は最初は順調でした。ところが日が沈んで 暗くなった頃、舟は逆風のため波に翻弄され、舟端を超えて波が打ち寄せ、舟が沈みそうになりますと、 弟子たちは大きな「不安」に怯え、叫び声をあげ、死の「恐れ」に取り憑かれ、たちまち神を(主イエ スを)見失ってしまいました。こんなに大事な時に主は共にいて下さらないと、恨みの声を上げてパニ ックに陥った弟子たちの様子がわかるのです。  まさにその弟子たちのもとに、主イエスが来て下さいます。「主が共におられない」と叫ぶ弟子たち の(私たちの)現実のただ中に、荒れ狂う波の上を歩いて主は弟子たちのもとに来て下さいます。しか し弟子たちには、それが“主である”ということがわかりませんでした。ただ「幽霊だ」と言って恐れ 「恐怖のあまり叫び声をあげた」のです(マタイ伝14:26)。たしかに、荒れ狂う波の上を歩きたもう 主のお姿は、弟子たちの理解を超えていたことでしょう。理解を超えた「救い」に私たちは時に「喜び」 ではなく「恐怖」を感じることがあります。「幽霊だ」という叫びを上げることがあるのです。ナアマ ンが感じた「怒り」そして弟子たちが感じた「恐怖」。感情の方向は違うものの、ともに主なる神の御 業を見ず、ただ自分だけを見ている、頑なな私たちの姿であることは同じなのではないでしょうか。  大切なことは、そのような私たちにこそ、主が近づいて来て下さり「しっかりするのだ、わたしであ る。恐れることはない」と語って下さることです。文語訳では「心安かれ、我なり。恐るな」です。こ れは単なる私たちへの励ましの言葉ではありません。たとえば申命記5章6節の十戒の箇所、または創 世記26章24節のアブラハム契約の場面に現されているように、神の顕現、私たちの「不安」に戦く現 実のただ中に、神が来て下さり、私たちと共にいて下さる、限りない恵みの宣言の言葉、それが「心安 かれ、我なり。恐るな」なのです。  主イエスから離れ、夜の闇に主イエスを見失い、強風と高波によって「不安」と「恐れ」に取り憑か れ、行手を見失っていた弟子たち。その弟子たちのもとにこそ、主は荒波を超えて来て下さいます。そ して、私があなたを守り支えているではないかと「平安」を告げて下さるのです。「安かれ、我なり」 と告げて下さるのです。たとえあなたがどのような状態にあっても、私はあなたの全存在を贖い、救い、 守り導く「主」であると告げていて下さるのです。  スリヤの軍司令官ナアマンはどうなったでしょうか?。彼は自分の思いを捨て、悔改めてエリシャの 言葉(神の言葉)に従いました。言われたとおりヨルダン川で七たび身を洗いました。そして「重い皮 膚病」は癒されたのです。その「癒し」は主なる神への立ち帰りでした。ナアマンは主なる神への信仰 告白をエリシャの前で行い、真の神に立ち帰って生きる者になりました。同じように、沈むばかりの我 が身を救われた弟子たちもまた、主イエスに対して「本当にあなたは神の子です」と信仰告白をしまし た。救いから外れた私たち、滅びに沈むばかりの私たちを、主は荒波を通して「救い」へと導いて下さ ったのです。  ナアマンの歩みには後日談があります。ナアマンは「安んじて行きなさい」とエリシャから祝福を受 け、真の神を信ずる者として歩み始めるのですが、貢物を拒んだエリシャに不満を感じた従者ゲハジが、 エリシャの言葉を捏造してナアマンに突きつけ、貢物を横領するという出来事が起こったのです。しか しナアマンはこのゲハジの言葉の罠を探ろうともせず、幼子のように素直に喜んで貢物をゲハジに託し ます。ナアマンの貢物をきっぱり断ったあのエリシャが、なぜ急にそれを欲しいと言うのか、そのよう な疑念など無いかのごとくに素直にゲハジの言いなりになるのです。なぜでしょうか?。ナアマンはい まや「惜しみなく与える人」になったからです。ゲハジは「銀一タラントと晴れ着二着」と言ったのに、 ナアマンは「どうぞ二タラント受けて下さい」とゲハジに与えたのです。ナアマンは本当の神、贖い主 なる神に出会って、神のものとされて、神を信ずる喜びに満たされて、神の恵みに甦って、新しき人と なったのです。恐ろしい武力によって他者を威圧するのではなく、権力によって支配するのでもなく、 神の愛と祝福に生かされ、他の人にも伝える者とされたのです。  主なる神は私たちに「安かれ、我なり」と宣言して下さいます。今も、明日も、明後日も、いつまで も、その恵みは変わりません。私たちが漕ぎ悩む「不安」や「恐れ」の波風をも超えて、主みずから私 たちに近づいて来て下さり、私たちに「安かれ、我なり」と告げて下さるのです。私たちの罪を贖い、 救いの喜びを与えて下さり、主と共に歩む祝福を満たして下さいます。私たちはこうして、この礼拝か ら送り出されてゆくのです。そして新たな一週の生活を始める者とされているのです。主が私たちを、 力強い御手をもって支え導いて下さいます。このかたのもとに、今も、のちも、永遠までも、守られて、 私たちは歩んでゆくのです。