説    教    創世記1章26〜27節   マルコ福音書12章13〜17節

「 新年の祝福 」

2014・01・05(説教14011518)  私たちキリスト者は、いつも“二つの秩序”のもとに生きていると言えるでしょう。ひとつは“この世 の秩序”であり、もうひとつは“神の秩序”です。  そこで、この“二つの秩序”は平和共存しているのではなく、少なくとも私たちの目には、しばしば対 立し衝突しているように見えるために、私たちはその間にあって戸惑い混乱することが多いのです。たと えば礼拝出席ひとつを取り上げても、神の秩序のもとに生きる私たちは、なにを置いても礼拝出席を第一 にすべきである。その反面、日曜日にやむをえぬ仕事が入ることもある、病気で休まざるをえないことも ある。 このディレンマを、私たちはどうしたら良いのでしょうか?。    そこでこそ、今朝の御言葉・マルコ伝12章17節に心をとめたいのです。「カイザルのものはカイザル に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。この御言葉がいま、私たち一人びとりへの“新年の 祝福”(福音)として与えられています。この主イエス・キリストの御言葉のもとにこそ、この世のあら ゆる問題に対する確かな解決と慰めがあるのです。そこでまず私たちは、この御言葉がどのような状況の もとで語られたかをご一緒に顧みて参りましょう。  マルコによる福音書12章13節以下を、改めて読んでみましょう。「さて、人々はパリサイ人やヘロデ 党の者を数人、イエスのもとにつかわして、その言葉じりを捕えようとした。彼らはきてイエスに言った、 『先生、わたしたちはあなたが真実なかたで、だれをも、はばかられないことを知っています。あなたは 人に分け隔てをなさらないで、真理に基いて神の道を教えてくださいます。ところで、カイザルに税金を 納めてよいでしょうか、いけないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか』」。  主イエスは利害関係によって行動したり、本音と建前とを使い分けたりなさいせん。どのような人にも、 神の愛と真実をもって接して下さいます。ですからこのパリサイ人やヘロデ党(サドカイ人)の人々の言 葉は、それ自体は間違ってはいないのです。主イエスは本当に「真実なかたで、だれをも、はばかられず …人に分け隔てをなさらずに、真理に基づいて神の道を教えて下さる」かただからです。  しかし、彼らが主イエスにこの質問を投げかけた本当の目的は「イエスの言葉じりをとらえて陥れる」 ことでした。言葉と心が裏腹であること、それは私たちにもよくある「罪」ではないでしょうか。この「罪」 から私たちを救うものは真の「信仰」です。なぜなら真の「信仰」とは、神との関わりを裏表のない生活 の柱とすることだからです。言い換えるなら“信仰即生活、生活即信仰”であらねばならない。パリサイ 人やヘロデ党(これはサドカイ人のことです)は、まさにこの「信仰」において神を欺く「罪」をおかし ました。うわべでは主イエスを讃えつつ、その実、罠を設けて主イエスを陥れようとしたのです。それは、 カイザル(ローマ皇帝)に「税金を納めるべきかどうか」という巧妙な質問でした。  これは、どちらに答えても、主イエスを不利にするものでした。もし主イエスが「法律どおり、カイザ ルに税金を納めるべきだ」と答えたなら、どうなるでしょうか。宗主国ローマの重税に苦しみ抑圧されて いたユダヤの民衆は、みな主イエスに失望することでしょう。彼らは、主イエスがユダヤの王になって、 ローマの支配から祖国を解放してくれると期待していたからです。この願いが裏切られたと知れば、主イ エスは民衆の支持を失い、社会的に葬られることになるのです。ではその逆に、主イエスが「いやいや、 カイザルなどに税金を納めなくてよい」と答えたなら、どうなるでしょうか。その時は、民衆は満足する でしょうが、ローマの官憲が主イエスを「ローマ皇帝に対する反逆罪」の名で逮捕し処刑することができ るのです。  つまりこの質問は、イエス、ノー、どちらに答えても、主イエスを決定的な窮地に陥れることができる、 まことに巧妙かつ完璧な罠でした。その場を張りつめた空気が覆ったことでしょう。主イエスがどちらに 答えても、主イエスの命運はそこで尽きるのです。パリサイ人も、サドカイ人も、弟子たちも、ユダヤの 民衆も、固唾をのんで主イエスの答えを待っていました。弟子たちなどは、逃げる準備をしていたかもし れません。  しかし主イエスは、この巧妙な罠である質問に直面しても、少しも動じたもうことなく、逆に質問した 人々にお問いになり、かつお命じになられるのです。今朝のマルコ伝12章15節と16節をご覧下さい。「イ エスは彼らの偽善を見抜いて言われた、『なぜわたしをためそうとするのか。デナリを持ってきて見せな さい』。彼らはそれを持ってきた。そこでイエスは言われた、『これは、だれの肖像、だれの記号か』。 彼らは『カイザルのです』と答えた。するとイエスは言われた、『カイザルのものはカイザルに、神のも のは神に返しなさい』」。「デナリ」とは、当時のユダヤで流通していたローマの銀貨で、当時の労働者 一日分の賃金に相当しました。そのデナリ銀貨の表には、当時のローマ皇帝(カイザル・ティベリウス) の肖像が刻まれており、また裏にはティベリウスの権威をあらわす記号が刻印されていました。デナリ銀 貨そのものが、ローマ皇帝の権威の象徴であったわけです。  そこで、主イエスは「(では)カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と厳かにお 命じになります。これは一見、主イエスが、この世の権威と神の権威を区別しておられるかのように見え ます。しかし、主イエスの御言葉の重点は「神のものは神に返しなさい」ということにあるのです。主イ エスはパリサイ人やサドカイ人らの質問に直接お答えになず、もっと遥かに高い次元で、もっと遥かに深 いところで、私たちがどなたの所有であるかを明らかにし、私たちの人生が本来所属すべき所で「天の国 籍」であることを明確に示して下さいました。  人間にとっていちばん大切なことは、自分が何に属し、本当に帰属するところはどこかということなの です。この世の色々なものに私たちは所属しています。ある人はたくさんの肩書きを持っています。ある 人はたくさんの資格を持っています。またある人はたくさんの役職を持っています。何々株式会社の社員、 何々組合の組合員、何々学会の会員、何々町内会の会員だったりします。もっと大本では、私たちはどこ かの国の国民であり、どこかの市町村の市民町民であったりするわけです。  しかし、私たちが人間として最も大切なことは、私たちがいつも変わることなく「神に所属しているこ と」ではないでしょうか。いかに数多くの“この世のもの”に所属していても、それには時間的空間的限 界があり、最後まで(つまり死の彼方まで)私たちを守ってはくれません。たとえばパスポートには、日 本国外務省の名において「この旅券を携帯する者を各国が保護することを要請する」と書いてあります。 しかしその「保護」もテロリストの前には紙切れにすぎません。私たちが本当に携帯すべきパスポートは 「神のパスポート」ではないでしょうか。「神に属する」「神のものである」ということこそ、その人に とって永遠のこと(永遠に確かな救い)なのです。  自分の存在の根拠を明確にすることは、非常に大事なことです。そのことなくして私たちは“この世の 秩序”だけに振り回され、表面的な問題に翻弄されてしまうからです。その、私たちが自分の存在の根拠 を求めるとき、究極的に“神のところ”にまで帰ってゆくのでなければ、確かな答えは決して得られませ ん。「神のものは神に」お返しするのでなければ、私たちの存在と人生は平安と勇気を得ることができな いのです。本当の喜びと幸いに生きることはできないのです。  旧約聖書・創世記1章27節には、主なる神の御業として「神は自分のかたちに人を創造された。すなわ ち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と記されています。この「かたち」と訳されたヘブラ イ語から「人格」(ペルソナ)という言葉が生まれました。それは人間がまさしく「人間であること」で す。人間の本当の自由と幸い、それは神に造られた「人格」(ペルソナ)に唯一絶対の基礎があるのです。 言い換えるなら、私たちが神に自分をお返しすること、神の民、天の国籍を持つ者として「信仰」をもっ て生きることに、人間としての本当の自由の生活があるのです。  それは譬えるなら、デナリ銀貨にローマ皇帝の肖像が刻まれているのと同じなのです。デナリにはカイ ザルの像が刻まれていますが、私たちには神の像(ペルソナ)が刻印されているのです。私たちはかけが えのない神の所有、神の愛する「あなた」とならせて戴いているのです。それならば、私たちは神のもの として、神にこそみずからをお返しせねばなりません。私たちはその逆のことをしていないでしょうか?。 いつも自分の都合ばかりを優先させて、残った余りものだけを「神のもの」にしようとすることはないで しょうか?。「神のものは神に返す」どころか「神のものもカイザルに返す」ような生活をしてはいない でしょうか?。  ここをしっかりと押さえ、改めて心に銘記することが「新年の祝福」です。すなわち、私たちは「神の 像」(ペルソナ)であるということ。いつもどこでも「かけがえのないあなた(汝)」とされていること、 この事実が大切です。これがはっきりしておりませんと「神のもの」と「カイザルのもの」の区切りがわ からなくなってしまうのです。これは「安息」(安息日)のない生活です。  私たちはこの年頭にあたり、真の「安息」を基盤とした祝福の生活、祝福の生涯へと招かれているので す。すなわち、私たちの人生(存在)の全てが「神のもの」であることにおいて、私たちは本当の自由を 与えられているのではないでしょうか。「神のもの」を神にお返しする、真の自由に生きる者のみが「カ イザルの(求める)もの」をカイザルに返す、健やかな自由に生きうるのです。つまり、この世界と宇宙 に満ち満つる全てのものは「神のもの」である。だからこそ私たちは自由な者として「カイザルのものは カイザルに」返すことができるのです。それも「神のもの」であることを知るゆえにです。  『ハイデルベルク信仰問答』の問一の言葉を思い起こしましょう。〔問〕「生きるにも死ぬにも、あな たのただ一つの慰めは何ですか」〔答〕「わたしがわたし自身のものではなく、身体も魂も、生きるにも 死ぬにも、わたしの真実な救い主、イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血を もって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放して下さいました…」。  ここに、永遠に変わることのない、新年の祝福があるのです。十字架と復活の主イエスが、いつも私た ちと共にいて下さり、私たちを堅く支え、導き、祝福し、全てを新たになして下さるのです。