説     教    申命記6章4節   マタイ福音書28章16〜20節

「 三位一体なる神 」

2013・12・29(説教13521517)  私たちが信じ告白する神は、父・御子・聖霊なる、三位一体の神です。それは神が三人おら れる、というのではありません。唯一なる神に三つの位格(全知全能のお働き)があるのです。 旧約聖書・申命記6章4節に「イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。あな たは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」と あります。この「イスラエル」とは私たちの教会のことであり「愛さねばならない」と訳された 言葉は、直訳すれば「(全知全能なる神によって救われた私たちは)神を愛さざるをえない」 ということです。私たち、キリストの身体なる教会に連なる者たちは、実はそのままに「三位 一体なる神」を信ずる者たちなのです。  このことを言い換えるなら、神は「父なる神」として私たちをお造りになり「御子なる神」 として私たちを罪から贖い「聖霊なる神」として私たちを救い、信仰を与え、教会に連ならせ、 教会を完成へと導いて下さるかたなのです。さらに言うなら、全知全能なる神は「父なる神」 (創造主)として私たちを無から有へと呼び出したまい「御子なる神」(主イエス・キリスト) として私たちを神と和解させて下さり「聖霊なる神」(生命の与え主)として私たちに救いの御 業を現わして下さる、そのような「三位一体なる神」であられるのです。  私はこの「三位一体」について、小さなひとつの思い出があります。それはまだ私が高校生 で、教会に行きはじめて間もなく、洗礼も受けていなかった時のことです。私は往復60キロ の道を自転車通学していたのですが、その途中で「ものみの塔」の人に掴まったのです。その 人は私が教会に通っていると知って「神は三位一体なる神ではなく、唯一のエホバである」と 言ってきました。その理由は「聖書の中のどこにも、三位一体という言葉はない」というもの でした。その時の私の未熟なキリスト教の知識でも「ああこの人は、正統的なキリスト教を信 じているのではないな」ということがわかりました。  今でも不思議に思うのですが、まだ高校生で、洗礼も受けていないのに、私はその人に間違 いを教えてあげなければ、という思いに駆られたのです。それで「聖書の中にはたしかに“三 位一体”という言葉は出てきません。しかし聖書を正しく読むなら、神が父・御子・聖霊なる “三位一体なる神”であるということは明白なのではありませんか?。あなたは本当に、きち んと聖書を読んでいるのですか?」と逆に訊ねました。自分でもよくあれだけのことが言えた と思います。逆に言うなら、それだけ私は最初に導かれた教会において、正しい説教を聴き、 教理を学ぶ幸いを与えられていたということだと思います。  たとえいま、誰かから同じことを言われても、私は牧師としてほぼ同じように答えるであろ うと思います。三位一体の信仰は、私たちの信仰と生活の根幹に関わる最も大切な事柄です。 かつてジョン・ヘンリー・ニューマン(John Henry Newmann)という、説教者としても名 高い立派な神学者がいました。彼のもとにある人がやって来て「自分は三位一体がどうしても わからない」と言ったとき、ヘンリー・ニューマンは即座に「三位一体がわからないのは、三 位一体を信じないからだ」と答えたということです。:ゲーテの戯曲「ファウスト」の中で、ド クトル・ファウストが「一が三で三が一など、どう考えてもわからぬ」と三位一体を揶揄して いますが、三位一体は理論や理屈で説明できる事柄ではなく、福音の真理として信ずるべき事 柄です。大切なことは、神が御子イエス・キリストにおいて現わして下さった救いの御業を、 この私の救いの出来事として、そのまま受け入れることです。  今朝の御言葉である、マタイ伝福音書28章16節から20節は、復活の主イエス・キリスト が弟子たちを世界伝道にお遣わしになる場面です。16節にある「イエスが彼らに行くように命 じられた山」とは、かつて主イエスがペテロ・ヤコブ・ヨハネの三人をお連れになって、天の 栄光の姿を垣間見せたもうた山(おそらくタボル山)のことです。その同じ山の上で、弟子た ちは復活の主に出会い、17節によれば「イエスに会って拝した」と記されています。この「拝 した」とは「主イエスを神と崇め、まことの礼拝を主イエスに献げた」という意味です。そこ でこそ私たちは次の御言葉に注目したいのです。「しかし、疑う者もいた」とあることです。 これはどういう意味なのでしょうか。  普通に考えますなら、あのトマスがそうであったように、主イエスの復活の事実を疑ってい たと理解できそうですが、そうではありません。弟子たちにとってキリストの復活は疑う余地 のない明白な事実でした。むしろこの17節を読み解く鍵は、その直前の「イエスに会って拝 した」という言葉にあります。つまり弟子たちの中に、主イエス・キリストに対して、全能の 父なる神を礼拝するのと全く同じ「まことの礼拝」をして良いのか否か、畏れ戸惑う「者もい た」のです。まさに申命記6章4節にある「われわれの神、主は唯一の主である」という信仰 (聖なる神に対してのみ献げられる礼拝)を、いま目の前におられる主イエスに対して献げて 良いかと、弟子たちは「疑い」畏れ戸惑い逡巡したのです。そういたしますと、これはまさに 三位一体なる神に対する信仰告白の問題だということがわかるのです。  まさにその「疑う」弟子たち(私たち)のただ中にこそ、主イエスご自身が「近づいてきて」 下さり、はっきりと語り告げて下さるのです。18節です「イエスは彼らに近づいてきて言われ た、『わたしは、天においても地においても、いっさいの権威をさずけられた』」。私たちのた めに人となられ、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになり、あらゆる苦しみを背負われ、もっと も悲惨な十字架上の死を遂げられたナザレのイエスこそ「まことの神のまことの独り子」であ られ「父なる神と本質を同じくするかた」であられるのです。この十字架の主イエス・キリス トこそ「天においても地においても、いっさいの権威をさずけられた」かたなのです。私たち はこのキリストにおいて、否、このキリストにおいてのみ、まことの神に確かに出会い、まこ との唯一の神を「礼拝する」者とされるのです。  ですからヨハネ伝14章6節に、主イエスははっきり語っておられます。「わたしは道であり、 真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。 なによりも「わたしたちに父(なる神)を示して下さい」と願う弟子ピリポに対して、主イエ スは「わたしを見た者は、父を見たのである」と語って下さいました。まことの神は「知られ ざるかた」ではない。御子イエス・キリストにおいて、ご自身を明確に現わして下さったかた なのです。だから主は同じヨハネ伝14章10節にこのようにさえ言われました。「わたしが父 におり、父がわたしにおられることをあなたがたは信じないのか。わたしがあなたがたに話し ている言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさ っておられるのである」。  どうか私たちは覚えましょう。「父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっておられる」 と主がはっきり告げていて下さることを。この「みわざ」とはただひとつの出来事をさします。 神から離れた測り知れぬ罪の中にあり、しかも自分の罪さえ知らずにいた私たち(それほど徹 底的に罪の支配を受けていた私たち)のために、御子イエス・キリストが(神ご自身が)全て を献げて贖いとなり、救いそのものとなって下さったことです。だから1563年の「ハイデルベ ルク信仰問答」には「三位一体」の告白が「人間の救いについて」の冒頭に語られています。 使徒信条が告白され、それは3つの部分に分けられると言い、それこそ「父なる神への告白」 「御子なる神への告白」「聖霊なる神への告白」であると語られているのです。  「人間の救い」は「まことの信仰」と不可分離です。その「まことの信仰」の内容はなにか と言えば、それこそ私たちが「私は唯一の神を信ずる」と言うとき、その神は、父・御子・聖 霊なる三位一体の神として、私たちにご自身を顕して下さり、私たちを救って下さったかたで あるという事実なのです。だからこそ、主イエスは弟子たちに告げて言われました。今朝のマ タイ伝28章19節以下です「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、 父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさい のことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるの である」。  この「それゆえに」とは、主イエスが「天においても地においても、いっさいの権威を授け られた」かただからです。私たちを罪と死から救いたもう、唯一の永遠の救い主だからです。 救いの「権威」を持っておられる神そのものであるからです。そのキリストの救いの権威は、 聖霊により、御言葉を通して、教会という主の御身体を通して、私たちの生きた現実となりま す。私たちに与えられている「救い」は「私たちが教会に結ばれ、キリストの復活の生命にあ ずかる」という確かな実体を持つのです。それならば、私たちはそこでこそ目を瞠るような思 いで、この恵みの御言葉を聴かざるをえません。「父と子と聖霊の名によって、彼らにバプテ スマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」。  私たちは、永遠の昔から、父なる神、御子イエス・キリスト、そして聖霊なる神が持ってお られた、三位一体の永遠の完全な愛の交わりの中に、いま生きて働きたもう聖霊によって招き 入れられ、生きる者とされているのです。それが私たちの教会なのです。だから教会は「聖徒 の交わり」と呼ばれます。これは元のギリシヤ語では「聖なるかたに与かる交わり」を意味し ます。この「聖なるかた」こそ、父、御子、聖霊なる、三位一体にして唯一の神です。この三位 一体の神との永遠の交わりを喜びと感謝をもって、歴史の中に顕すわざこそ、私たちがいま献 げているこの礼拝なのです。だから洗礼を受けるとは、この父、御子、聖霊なる神との永遠の 交わりを、私たちの生命の中心として回復されることです。それこそ永遠の生命です。御子イ エス・キリストにおいてまことの神に出会い、聖霊によって信仰へと導かれ、教会の生きた枝 とならせて戴くことです。  主の御身体なる教会、三位一体なる神との永遠の交わりである教会に結ばれて生きる私たち は、いまここに「キリストは私のため、死に勝利して下さった」という新しい揺るぎない「確 信」に生きる者とされているのです。