説     教      詩篇89篇20〜28節    第二コリント書8章9節

「 低きに昇りたもう神 」

 クリスマス礼拝 2013・12・22(説教13511515)  本日2013年の「クリスマス礼拝」に、私たちは第二コリント書8章9節の御言葉を与えられまし た。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでお られたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む 者になるためである」。  今から2013年前、最初のクリスマスを祝ったのは、ベツレヘム郊外の野に住む羊飼いたちでした。 当時の世界で最も貧しく、蔑まれていた人たちです。この人々に天使が「大きな喜び」の音信を告げ ました。「今日、あなたがたのために、救主キリストがお生まれになった」という知らせです。この喜 びの知らせを受けて、今朝の御言葉にも「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを 知っている」と告げられているのです。あなたこそ、ベツレヘムの羊飼いらと共に「クリスマスの喜 びを知る」その人なのだと告げられているのです。  「クリスマス」とはラテン語で「キリストを礼拝する」という意味です。まさに私たちはいま「ク リスマス(礼拝)」を献げているのです。クリスマスの出来事とは何でしょうか?。それは神が最愛の 独子キリストを、私たちと全世界の救いのために与えて下さったことです。このクリスマスを祝い、 礼拝を献げる私たちは、今はっきりと「主イエス・キリストの恵み」を「知る」者とされている。だ から、この「知る」とは知識を得ることではありません。ベツレヘムの羊飼いらと共に“クリスマス の主”を生活の中心にお迎えすることです。  キリストは、私たち全ての者のために、ベツレへムの馬小屋、この世界で最も暗く、低く、貧しい ところに、お生まれになりました。永遠の神、天地万物の創造主と等しい神の独子が、最も小さな姿 で、私たちの罪と虚無の現実の最底辺に降って来て下さった、それがクリスマスの出来事です。  私たち人間は「神」と言えば、それは偉大なもの、いと高きものだと無条件で思っています。いっ けん非宗教的に見える現代人こそ、実は古代人以上に熱心に、強力な絶対者を「神」に祭り上げ、崇 め、依存したい欲求を抱いています。人類の歴史の中で果てしなく繰返されてきた権力争奪の歴史が それを物語っています。しかし、そのようなものを幾ら「神」と呼んでも虚しいのです。そこには私 たちの救いも、慰めも、喜びもありません。たとえ私たちの眼に、いかに絶対的に見える存在も、ま ことの神の前には無に等しく、自分を強く見せようとする者ほど、実は内側に弱さや脆さを隠し持ち、 絶対的な権力者ほど、実は不安に怯えているのです。  聖書が私たち全てに語り告げる、クリスマスの主なるイエス・キリストは、そのような「権力ある 神」の姿で世に来たのではありません。聖書が語り告げ、天使たちが讃美し、ベツレヘムの羊飼いた ちが礼拝し、東方の博士たちが献げものをした、まことの神の御子なるキリストは、いと高き神の御 子・天地万物の創造主であるにもかかわらず、私たちを限りなく愛し、私たちを救うために、全てを 捨てて人となられ、歴史の深み(最底辺)へと降りたもうた神なのです。聖書が崇める真の神は「低 きに昇りたもう神」なのです。それこそクリスマスの出来事において現わされた真の神の姿なのです。  今朝の御言葉には「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あな たがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」と告げられていました。この「主は富んで おられた」とは、キリストが永遠の神の独子として、神と等しきかたであることを現わしています。 宇宙は私たちの想像を遥かに超えた広大なものですが、神はこの宇宙をお造りになり、全ての存在を 生命へと呼び出されたかたです。言い換えるなら、神は、父・御子・聖霊なる三位一体の永遠の愛の 歴史的現われとして、この世界をお造りになり、私たちに生命を与えて下さったのです。  まさにこの、永遠に支えられた歴史(神の被造物なる世界)という事実においてこそ、私たちの「貧 しさ」の正体が明らかになります。それは、私たちは神から離れた存在であることを「自由」と思い 違いしているからです。つまり私たちは、神の支配したもう歴史にありながら、宇宙の本質である、 父・子・聖霊なる神との、永遠の愛の交わりを失った者となった。この矛盾が聖書が語る私たちの「貧 しさ」なのです。そこから人類のあらゆる罪と悲惨が噴き出しました。私たちは自己中心的存在とな り、権力に明け暮れ、互い審きあい、自分だけを愛する者になってしまった。だからこの「貧しさ」 は、まことの神を失った私たちの測り知れない「愛の貧しさ」なのです。  同じ新約聖書のルカ福音書19章にザアカイという人が出てきます。ザアカイは私たちの代表です。 エリコの町の「取税人のかしら」として、ザアカイには溢れるほどの「富」がありました。しかし富 めば富むほど、ザアカイの心は孤独であり、貧しく、絶望だけが支配していたのです。富めば富むほ ど、虚しさだけが募ったのです。そのザアカイのもとに、主イエスが来て下さいました。主はザアカ イのためにエリコの町に来られ、限りない慈しみの眼差しを注がれ「ザアカイよ、急いで降りて来な さい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と、彼の名をお呼びになったのです。この 瞬間から、ザアカイの虚しい生活は根底から変えられました。主イエスを家にお迎えし、神の愛を知 って新しくされたザアカイは、そこに本当の「富」を見いだしたのです。主は言われました「今日、 救いがこの家に来た。この人もアブラハムの子なのだから。人の子が来たのは、失われていた者を訪 ねだして、救うためである」。  この「失われていた者を訪ねだして救うため」という御言葉こそ、クリスマスの出来事を、そして 主が担って下さった十字架の出来事を現わしています。キリストはザアカイの、そして私たち全ての 者のためにご自分の全てを献げて下さり、その「貧しさ」によって私たちを「富む者」として下さっ たのです。罪と死の支配から贖い「アブラハムの子」(神の国の民)として下さったのです。このキリ ストの贖いの恵みを知ったとき、ザアカイの人生は変わり、私たちの人生も変わるのです。「自己中心 性」と「審き」と「絶望」という従来の価値観を、クリスマスの主が変えて下さいます。私たちを、 神の愛の内を、神と共に、祝福の導きのもとを歩む、本当の「豊かな人生」を歩ませて下さるのです。 「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおら れたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者 になるためである」。  まさしく主は、あのベツレヘムの馬小屋の中に、この世界の最も暗く、低く、貧しいところに、私 たちの最底辺に、お生まれ下さいました。まさにこの「低きに昇りたもう神」であるご降誕の主に、 私たち全ての者の、全世界の、変わらぬ喜びと感謝、慰めと平安、変わらぬ希望と永遠の「救い」が あるのです。クリスマス、おめでとうございます。主はまことに、あなたのためにお生まれになりま した。