説    教   イザヤ書40章27〜31節  ヨハネ福音書16章25〜33節

「存在への勇気」

2013・12・15(説教13501514)  今朝の御言葉・ヨハネ伝16章33節において、主イエス・キリストは私たち一人びとりに力強い福音の 音信(おとずれ)を告げておられます。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安 を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすで に世に勝っている」。大切なことは、主が「これらのこと」と語って下さる事実です。これは主が私たち のためにクリスマスにおいて人となられ、十字架の道を歩んで下さった、罪の贖いの出来事を現している からです。  まさしくこの「十字架の主」が「わたしにあって」とはっきりと語っていて下さいます。この「わたし にあって」とは「私に結ばれて」という意味です。私たちは主のご受難と復活の御身体なる教会により、 十字架の主に堅く結ばれている。いや、主が私たちといつも共にいて下さる。主の御手が私たちを捕えて いて下さる。だからこそ、主はまことに驚くべきことを告げて下さいます。「あなたがたは、この世では なやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と!。文語訳の聖書ではこ う訳されます「なんぢら世にありては患難(なやみ)あり、されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」。  「されど雄々しかれ」(勇気を出しなさい)と、主は全ての者に語り告げていて下さるのです。なぜか? 主は「すでに世に勝っている」からです。ご自身の十字架をさして宣言して下さるのです。あなたの全て の罪を、死の支配さえも、私は十字架において贖い取った。罪と死に勝利した。あなたはその私の勝利の もとに堅く結ばれている。だから「勇気を出しなさい」と主は言われるのです。  だからこの「勇気」とは、世のいわゆる「勇気」とは違います。古代ギリシヤの哲学者たちは「勇気」 のことを「継続する悲しみや恐ろしさに耐えること」だと教えました。継続する忍耐こそが「勇気」だと 考えたのです。この思想は意外に深いところでヨーロッパ文化に受け継がれています。たとえばドイツ語 で勇気のことを“ランゲムート”と申しますが、それこそ「長い忍耐」という意味です。それは私たち日 本人の価値観にも共通した部分があります。「勇気」とは、継続する悲しみや恐ろしさの中で、しかもそ れに耐えて揺るがぬ心のことだと、私たちもどこかで考えているのです。  それは称賛されるべき人生の姿勢でしょう。私たちも信仰者として、社会に生きるキリスト者として、 いつもそうした「勇気」をもって生きたいと願います。隣人への証しをしたいと願います。信仰生活と勇 気が一つであることを願います。たとえ信仰を持っていない人でも、そうした「勇気」が美徳であること は誰もが認めます。しかし私たちは、むしろそれゆえにある事実に気づきます。それは私たちの中には、 継続する悲しみや恐ろしさに毅然として耐える「勇気」は無いという事実です。私たちは一時の悲しみや 恐ろしさには耐えるでしょう。しかしそれが数週間、数ヶ月、数年間と続くとき、さしもの私たちの「勇 気」も挫けるのです。緊張が大きければ大きいほど、挫けた時の虚脱感も大きなものになるのです。反動 が返ってくるのです。まさにドイツ語の“ランゲムート”とは逆の自分があるのです。私たちの存在の中 には、私たちの人生全体を支える本当の「勇気」は無いのです。  そうだとすれば、ここで主イエスが「勇気を出しなさい」と語っておられることは、私たちに実現不可 能な要求をしておられるのでしょうか?。そうではありません。改めて今朝のヨハネ伝16章33節を見ま しょう。主はこう言われたのです。「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得 るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世 に勝っている」。ここで大切なことは「わたしはすでに世に勝っている」と主が宣言して下さったことで す。「勇気を出しなさい」との御言葉はこの主の勝利宣言に裏打ちされているのです。  この時の弟子たちには、大きな恐れと不安があり、心は悲しみに閉ざされていました。それは同じ16 章6節に、主が弟子たちに「あなたがたの心は(いま)憂いで満たされている」と言われたことからもわ かります。なにより弟子たちには、主の十字架の出来事が測り知れない「憂い」でした。主はイスラエル の「王」になると期待していたのに、主の歩みは正反対のゴルゴタの十字架に向かっています。無数の病 人を癒し、数々の奇跡を行い、死者を甦らせた主イエスが、この世の最大の恥辱である十字架への道を歩 もうとしています。そればかりではなく、主は弟子たちに、同じヨハネ伝15章20節において、やがて起 こる迫害の出来事を告げたまいました「もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであ ろう」。それは同じヨハネ伝13章36節以下の、ペテロに対する主の御言葉が現実になったのです。「シ モン・ペテロがイエスに言った、『主よ、どこへおいでになるのですか』。イエスは答えられた、『あな たはわたしの行くところに、今はついて来ることはできない。しかし、あとになってから、ついて来るこ とになろう』。ペテロはイエスに言った、『主よ、なぜ、今あなたについて行くことができないのですか。 あなたのためには、命も捨てます』。イエスは答えられた、『わたしのために命を捨てると言うのか。よ く、よく、あなたに言っておく。鶏が鳴く前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう』」。  ペテロをはじめ、他の弟子たちもみな、主イエスに自分たちの「勇気」を示そうとしました。主のため なら死をも恐れないと誓ったのです。彼らは自分たちに「勇気」があると自負していました。まさにその 弟子たちに、主はただ十字架において起る救いの恵みの確かさをお示しになるのです。〔14章12節〕「よ く、よく、あなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。 そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」。〔14章27 節〕「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるの は、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。〔15章 5節〕 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがそ の人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」。  これらの御言葉を弟子たちに(私たちに)語られたからこそ、いま今朝の16章33節において主は「こ れらのことをあなたがに話したのは…」と言われるのです。言い換えるなら、主イエスはただ、ご自分が 背負われる十字架の贖いの恵みをさして、ただそこからのみ私たちに語っていて下さる。ペテロの裏切り も、ユダの罪も、全てを知りつつ、主は、そのような私たちだからこそ、今はっきり告げて下さるのです。 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」 と。  私たちの内には、罪と死の支配に対抗して勝利する力はありません。私たちの内には、私たちの人生全 体を支える本当の「勇気」は無いのです。そのような私たちに、十字架の主だけがはっきり語って下さい ます「わたしはすでに世に勝っている」(我すでに世に勝てり)と!。私があなたのために、この全世界 の罪と死の全てを担い取り、あの呪いの十字架にかかった。あなたはいついかなる時にも、私の十字架の 贖いの恵みのもとに生きる者とされている。主がそう宣言していて下さるのです。私たちを生かす真の「勇 気」は、私たちの内にではなく、ただ主イエス・キリストのもとにあるのです。私たちは教会によって主 に堅く結ばれて生きるとき、本当の「勇気」に満たされるのです。  だからこそ、主は「これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである」 と宣言して下さいました。「あなたがたはいま、わたしに堅く結ばれている」と、一方的な恵みをもって 宣言して下さるのです。それだけで十分なのです。私たちの人生は、そしてこの世界は、この福音の事実 によってのみ、本当の「勇気」に(揺るがぬ救いの喜びに)満たされるのです。この「平安」という言葉 は、同じヨハネ伝20章19節にも出てきます。復活された主が、恐れて戸を閉ざす弟子たちのもとに訪れ て下さったとき、まさにその弟子たちの恐れのただ中で、復活の主は「安かれ」と宣言して下さいました。 「あなたがたに平安があるように」と、ご自身の十字架の恵みをもって、私たちに新しい生命を与えて下 さったのです。私たちはこの主の御手から「存在への勇気」を与えられているのです。  「頑張れ」という言葉は、ときに人を傷つけて、逆効果をもたらします。特に、頑張ってギリギリのと ころに立っている人に「頑張れ」と言うのは、その人を絶望に追いこんでしまうことがあります。主が言 われる「勇気を出しなさい」とは、それとは正反対の言葉です。あなたの人生、あなたの存在の全体を、 私がいつも共にいて、私が受け止めている。私が支えている。だから心配しないでよい。すでにあなたの ために、私が勝利している。罪と死に対する勝利は確定している。だから安心していなさい。そこにあな たの人生全体を支える「存在への勇気」があると、主は宣言していて下さるのです。だからルターはこの 「勇気を出しなさい」という言葉を「慰められてあれ」(aber seid getrost, ich habe die Welt ?berwunden) と訳しました。この“troesten”(慰め)とは「傍らに立って支える」という意味です。キリストがいつ も私たちの傍らにおられ、私たちの全存在を受け止め、支えていて下さるのです。  だから私たちは、失敗を恐れずに愛のわざに大胆に励むことができます。報われない仕事にも、果てし なく続く介護の苦労にも、評価されない愛のわざにも、なお勇気をもって立ち向かうことができます。主 が共にいて下さるからです。主が共にいて下さるとは、ヘブライ語で申しますと「インマヌエル」です。 クリスマスの主、御降誕の主をあらわす恵みです。これがキリスト教の福音の本質です。「インマヌエル」 (神われらと共にいます)。この事実にまさる「存在への勇気」はないのです。インマヌエルの主こそ、 私たちの人生の救い主です。最近は人生の「勝ち組」「負け組」という嫌な言葉がありますが、そんなこ とは問題ではない。大切なことは私たちが「キリスト組」(主の教会)に入れられていることです。私た ちはすでに「キリスト組」の枝とされている。本当の意味で究極的かつ最終的な、世の終わりまで見越し た上での、永遠の勝利の組に入れて戴いている。だから安心しなさい。「われ既に世に勝てり」と主は言 われるのです。  だからこそ主の弟子たちは、あの絶望的な裏切りの闇夜の中から、ただ主のみを見上げて、本当の「勇 気]をもって立ち上がることができました。いかなる迫害の中にあっても、主の平安をもって御言葉を人々 に宣べ伝え、まことの教会に仕え、主の教会に仕える僕とされていったのです。それは私たちも同じなの です。私たちもまた、日々の生活の中で御言葉を聴くたびに、祈るたびに、キリストの平安に「存在への 勇気」に満たされて立ち上がるのです。主が私たちに与えて下さった平安は、安心して蹲ってしまう平安 などではなく、安心して立ち上がり、主と共に歩む平安です。なによりも教会で礼拝にあずかるとき、聖 餐のパンと杯を受けるとき、その時に私たちはキリストの「勇気」に満たされてゆくのです。すでに勝利 の主が、私たちのあらゆる悩みや苦しみも全てを受けとめて、しかも勝利して下さっている平安。主が差 し出していて下さる御手に引かれ、もうすでに勝利に入れられている事実。私たちの信仰の歩み「存在へ の勇気」はそこから始まってゆくのです。