説     教     創世記22章1〜19節   ヘブル書11章1〜3節

「 神はその独子を賜えり 」

2013・12・08(説教13491513)  旧約聖書・創世記12章以下に登場するアブラハムは「信仰の父」と呼ばれ、キリスト者の「信仰の模 範」とされている人です。アブラハムはもとの名をアブラムと言いました。アブラムは主なる神の召命に 従い、故郷メソポタミアのハランを旅立ち、行先を知らぬまま、ただ神の言葉に従って約束の地を目指し ます。そのときアブラムはすでに75歳でした。創世記15章6節には「アブラムは主を信じた。主はこれ を彼の義と認められた」と記されています。ただ神の真実に身を委ねて生きた信仰が「彼の義」(救い) と認められたのです。同じ創世記17章ではアブラムが99歳のとき、主なる神はアブラムと恵みの契約(全 イスラエルとの救いの契約)を結ばれ、彼に新しく「アブラハム」(諸国民の父)という名を与たまいま した。また百歳の時には独り子イサクが祝福の世継ぎとして与えられました。  このような、まずは順調であったかに見えたアブラハムの生涯に、思いもかけぬ大きな試練が訪れます。 それはアブラハムと妻サラにとって、かけがえのない独り子イサクを「燔祭」(焼き尽くす献げもの)と して献げるようにと神に命じられたことでした。アブラハムとサラにとってイサクはただ愛する宝のよう なわが子であるばかりでなく、神の祝福を全世界に告げるべき「世界に対する祝福のしるし」でした。し かしこともあろうにそのイサクを主なる神は「燔祭」(焼き尽くす献げもの)として献げるようにアブラ ハムにお命じになるのです。22章1節以下です「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、 『アブラハムよ』。彼は言った、『(はい)ここにおります』。神は言われた『あなたの子、あなたの愛 するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい』」。こ れは聴き間違いではありません。確かに主なる神がお命じになったことでした。  たとえ主なる神のご命令とはいえ、人間にとってこれ以上過酷な要求がありうるでしょうか。余りにも 残酷であり、不条理であり、非道な要求です。そもそも神が「アブラハム」という名をお与えになったこ とは、彼を「祝福の基」とされたことです。なによりも神は、アブラハムの子孫を神の祝福を受け継ぐ者 として「星の数ほどに」まし加えて下さる約束をなさったのです。これを「アブラハム契約」と言います。 ところがいま、神がアブラハムに命じたもうことは、その「契約の徴」である独り子イサクを「燔祭とし てささげなさい」というものでした。これは「アブラハム契約」と全く矛盾するのではないでしょうか。 アブラハムの驚と悲しみは想像するに余りあるのです。  ここにアブラハムは、信仰の子孫の繁栄を約束された神に対して不信の念を抱かなかったでしょうか。 祝福の約束を与え、その見える「しるし」として独り子イサクを賜わりながら、その子を無慈悲にも取り 上げようとする。「燔祭」として献げよとお命じになる。そうした残酷な矛盾した神を、なお信ずること ができるでしょうか。それはイスラエルの信仰に前例のない出来事でした。アッスリヤやバビロニアの異 教の祭儀(偶像の儀式)の中には子供を犠牲として献げることがありました。しかしそれは神によって「あ なたがたの間では行ってはならない」と命じられていたはずです。その「あってはならぬこと」をことも あろうに、主なる真の神がお命じになるのです。主なる神は、息子イサクに対するアブラハムの愛をご存 知の上で、その大切な大切な独り子イサクを私に献げてみよとお命じになり、アブラハムを試されたので す。この「試す」ということに私たちは反感を感じます。神が人を「試す」なんて残酷だ。愛の神なのに どうして?…と思うのです。しかしこのことは、現代人の心の奥を垣間見ることに繋がります。神が人間 を試すことが許されるのかと、逆に人間が神を「試す」ことになるからです。  今朝の創世記22章には、この信じがたい残酷な神の命令に、アブラハムがいとも淡々と従ったかのご とき様子が描かれています。しかし実際はアブラハムの心中は張り裂けんばかりであったでしょう。哲学 者の森有正は「アブラハムはこの悲しみにおいて文字どおり死者になった」と語っています。愛する独り 子イサクを献げることは、父アブラハムにとって自分を殺す以上のことでした。だからパスカルは「この 時からアブラハムは老人になった」と語っています。また私たちはイサクが幼い子供であったような印象 を持っていますが、原文のヘブライ語を見ますと、この時のイサクは少なくとも15歳以上です。それな らば、この神の過酷なご命令に、父アブラハムと共にイサクも、信仰をもって聴き従ったのです。父子二 人してただ神を信じたのです。アブラハムは自由な人間として、逆に神を「試みる」こともでき、神の命 令を無視することもできたはずです。イサクも同様でありました。しかし神のご命令を受けた翌朝、アブ ラハムとイサクは御言葉のままにすぐ出かけてゆくのです。“神がこんな残酷な命令をお下しになるはず がない”などという自分の考えを入れずに、ただ神の御言葉のみに従順に聴き従ったのです。  さて、アブラハムとイサクが向かった「モリヤの地」は今日のエルサレムのことです。主イエスが十字 架にかかられたゴルゴタの丘と同じ場所であったかもしれません。アブラハムの家からはおよそ70km、 歩いて2日で行ける距離です。しかしアブラハムとイサクが3日間歩いたのは、その道中がどんなに辛い ものであったかを示しています。いよいよ「三日目」にイサクを献げるその「場所」(モリヤの地)が見 えてきました。それは何もない岩山(ゴルゴタの丘)でした。聖書は淡々とアブラハムとイサクの会話を 記しています。22章6節以下をご覧ください「アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わ せ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。やがてイサクは父アブラハムに言った、『父よ』。 彼は答えた、『子よ、わたしはここにいます』。イサクは言った、『火とたきぎとはありますが、燔祭の 小羊はどこにありますか』。アブラハムは言った、『子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであ ろう』。こうしてふたりは一緒に行った」。  ここには、人生の最大の悲哀、愛する独り子を失う親の心が現われているのです。アブラハムはイサク の質問に戦きつつ、しかし静かに、確信をもって答えます「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださ るであろう」。これは大切な言葉です。「子よ」とは深い愛情の言葉です。直訳すれば「わが愛し子よ」 です。「神みずから燔祭の小羊を備えてくださる」とは、神に対する信仰をあらわす言葉です。虚無の彼 方に生命を見出す信仰です。これは“摂理の信仰”と言って良いでしょう。「摂理」(providence)とい う言葉は「神が予め見ておられる」という意味です。それは「運命」とは正反対の言葉です。「運命」が 諦めをあらわすのに対し「節理」は信仰によって「神が予め見ておられる」ものを信じることです。神の 言葉を信じて、神の御手に自分を投げかけること(委ねること)が「摂理の信仰」です。キリスト教の大 きな特徴は「運命」を否定することにあります。それは「神の摂理」を信じるからです。今朝あわせてお 読みしたヘブル書11章1節にこうありました「さて信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見てい ない事実を確認することである」。この箇所は「見る」ということを鮮やかに示しています。「望んでい る事がら」の先を見、見えている事実の先にある「見えない事実」を見ること、それが「摂理の信仰」な のです。  神が「燔祭の小羊」(焼き尽くす献げもの)を用意していて下さるということを、アブラハムは「見て」 いた(信じていた)のです。単にイサクに代わる献げものとしての一匹の小羊を見たのではなく、神の備 えと配慮が必ずあることを信仰によって「見て」いたのです。それゆえに信仰とは“目に見えるものの先 は神が備えて下さっている”ことを信じて見ることです。アブラハムはその信仰ゆえに、黙してただ御言 葉に従たのです。そこで9節以下を見ましょう。「彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそ こに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。そしてアブラハムが 手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使いが天から彼を呼んで言った、『アブラハ ムよ、アブラハムよ』。彼は答えた、『はい、ここにおります』。み使いが言った、『わらべを手にかけ てはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜 しまないので、あなたが神を畏れる者であることをわたしは今知った』。この時アブラハムが目をあげて 見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の牡羊がいた。アブラハムは行ってその牡羊を捕え、それ をその子のかわりに燔祭としてささげた。それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。こ れにより、人々は今日もなお『主の山に備えあり』と言う」。  神から呼びかけられたとき、アブラハムは「はい」と答えています。この創世記22章の「イサクの奉 献」は「はい」(アーメン)で始まり「はい」(アーメン)で終わっています。これが大切です。私たち 現代人にはこの「はい」(アーメン)が欠如しているのではないでしょうか。自己主張があっても良いの です。神に反抗しても良いのです。大切なことは、どのような時にも「はい」(アーメン)で始まり「は い」(アーメン)で終わる人生を歩むことです。アーメンとは「神の真実」という意味のヘブライ語です。 神の真実で始まり、神の真実によって導かれ、神の真実において終わる人生、それが私たちキリスト者の 人生です。だからカルヴァンの言うとおり「信仰とは絶えず神の真実に対してアーメンと応えつつ歩むこ と」です。まさにこの“アーメン”によってアブラハムは常に眼差しを上げて神を見つめています。自分 ではなく神を(神の摂理を)見ているのです。この物語の焦点は「どのような時にも神を見上げること」 です。喜びの時も悲しみの時も神を見上げるのです。行く先の見えないときにこそ、神が導いて下さるこ とを信じるのです。それは独子イエス・キリストを十字架に献げて下さった贖い主なる神を「見る」こと です。この物語の主人公はアブラハムでもイサクでもなく、主イエス・キリストの父なる神です。神が私 たちを、その最愛の独子を与えたもうほどに限りなく愛し、御子キリストによって私たちの罪を赦し贖い 取って下さったのです。  先ほどのヘブル書は12章1節以下にこう語っています「こういうわけで、わたしたちは、このような 多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨て て、わたしたちの参加すべき競争を、耐え忍んで走り抜こうではないか。信仰の導き手であり、またその 完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」。そして同時に12章8節にこうあります「アブ ラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行 った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ信仰を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕 屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである」。この「幕屋」とは 主が命を献げてお建て下さった主の教会のことです。そして「都」とは永遠の御国です。私たちはアブラ ハムと共に、主の教会に連なる幸いを与えられ、この教会によって永遠の御国(神の都)の民とされてい るのです。  「主の山に備えあり」(アドナイ・エレ)は「インマヌエル」(神われらと共にいます)クリスマスの 喜びに繋がります。どのような時も「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエス」に向かって目 を上げ、神の愛である十字架を見つめて歩む、真の信仰に生きる私たちでありたい。そして共に、まこと のクリスマスを喜び祝う者になりましょう。