説    教     詩篇5篇7節   マルコ福音書9章14〜29節

「 われ信ず 」

2013・12・01(説教13481512)  「霊」にとりつかれた息子の癒しを願っていた父親が、主イエスを頼ってやって来ました。ところがあい にく、主イエスは「高い山」(9:2)に登られたまま帰って来ておられませんでした。そこで父親は留守をし ていた弟子たちに息子を「癒して下さい」と願いました。ところが弟子たちにはそれができませんでした。 不甲斐ない様子を目撃した律法学者たちは、ここぞとばかりに弟子たちの不信仰と無力を責めたてました。 弟子たちと律法学者らとの間に激しい論争が起こりました。律法学者たちは主イエスの弟子たちが病気の 子供を癒せなかったことを、主イエスが神の子ではない証拠だと言い立て、弟子たちはそれに対して悔し さを滲ませながら、いろいろな言い訳を試みたにちがいないのです。  まさに、その論争のさなかに主イエスは山から降りて来られました。15節を見ますと「群集はみな、す ぐ主イエスを見つけて、非常に驚き、駆け寄って」きたと記されています。そのとき主イエスは彼らを(論 争している弟子たちと律法学者らとを)ご覧になって「なんと愚かな時代であろう」とか「なんと物わか りの悪い連中であろう」とは言われなかった。そうではなく、主イエスは彼らに対して「なんという不信 仰な時代であろう」(19節)と嘆かれたのです。  主イエスは、律法学者たちばかりではなく、主イエスと寝食を共にしている弟子たちにも、否、弟子た ちに対してこそはっきりと「(あなたがたは)不信仰である」(信仰がない)と言われます。このことを私 たちは見逃してはなりません。いまここに起っている事柄は純粋に「信仰」をめぐる問題だからです。お そらくこのときの弟子たちは、主イエスから「(あなたがたは)不信仰」であると言われるまで、微塵も自 分たちに「信仰がない」などと思っていなかったことでしょう。この「霊」に憑りつかれた子供を癒せなか ったのは、自分たちに「信仰がない」せいだとは微塵も思っていなかったのです。むしろ彼らは、自分たち は「信仰を持っている」と思っていたのです。自分たちにもこの子供が癒せると自惚れていたのです。  しかし、まさにその思いこみのゆえに、主イエスは彼らに「(あなたがたには)信仰がない」と仰せにな ります。「いつまで、わたしはあなたがたに我慢ができようか」とさえ言われるのです。事実、弟子たちは この「霊」に憑りつかれた子供を癒せませんでした。ですから、ここで主が言われる「不信仰」とは、な によりもまず私たちが「自分には立派な信仰がある」と自惚れ「自分は信仰のゆえに力あるわざをなしうる」 と思いこんでいる状態をさしています。言い換えるなら「信仰」を自分の手の中にある道具のように考え ていることです。それは私たち自身がよく陥る誤った信仰理解(信仰生活の姿勢)だと申さねばなりませ ん。  主イエスの前に連れてこられた「霊にとりつかれた子」は典型的なてんかんの症状を起こします。しか し実は、それは外面的なことで、問題の根はさらに深いところにありました。それはこの子供を支配して いた「霊」を主イエスご自身がはっきりと見据えておられたことです。主イエスがはっきり見据えておら れたその「霊」の正体とは、私たち全ての者を支配している「罪と死の力」です。つまり、ここで問題に されているのは、単なる病気の癒しではなく、人間にとって最も大切な「罪」からの救いなのです。私た ちは「罪」と聞くと、それは人に嘘をついたり、騙したり、傷つけたり、恨みを買うようなことだと考え ます。それは目に見える具体的な「罪」です。しかし、いちばん肝心な「神に対する罪」にはなかなか気 がつかないのが私たちなのです。洗礼志願者試問会でも必ず問われる問いは「聖書が語る罪とはなんです か?」という質問です。「罪」とは神に叛いたままで生きてゆくことです。神を信じないこと自体が「罪」 なのです。それは実は私たちには「わかりづらい」ことなのです。  今朝の御言葉では意味じくも「霊に(罪に)とりつかれている」という言葉が用いられています。「罪」 は私たちの意思や努力に関わらず、むしろそれらに反して私たちを知らず知らずのうちに支配し手なずけ て、言いなりにさせようとする力です。その罪の力が眼に見える形でわが子に猛威を振るうのを、父親は なす術もなく見ているだけでした。子を思う親の愛すら何の救いにもなりません。否、父親にはなすべき こと、なしうることがたったひとつありました。それこそ、愛するわが子の癒しを主イエス・キリストに 願い出ることです。どうぞ20節をご覧ください。そこには「霊がイエスを見るや否や、その子をひきつ けさせたので、子は地に倒れ、あわを吹きながらころげまわった」とあります。続いて21節「そこで、 イエスが父親に『いつごろから、こんなになったのか』と尋ねられると、父親は答えた、『幼い時からです。 霊はたびたび、この子を火の中、水の中に投げ入れて、殺そうとしました。しかしできますれば、わたし どもをあわれんでお助けください』」。  この父親は主イエスに「しかしできますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」と願いました。 しかしこの「できますれば」(可能ならば)という条件つきの願いを主イエスは厳しく咎めたまいます。な ぜなら、この願いは明らかに主イエスの癒しの力に対する疑いを含んでいるからです。だから「できます れば」と言うのです。もちろんこの父親は、愛するわが子の癒しを求める点では最高に熱心でした。息子 が幼い時からあらゆる手を尽くしてきたに違いないのです。しかし期待はいつも裏切られ、息子は癒され ぬまま今日を迎えました。だからこの父親は、今回も「もしかしたら」という思いを拭い去ることができ なかった。  「できますれば」という言葉は、すでに主イエスの無力をも考慮に入れている言葉です。あるいは律法 学者の面前で、弟子たちと同じように癒しに失敗したときの主イエスの立場を思い遣っていたとも言える でしょう。父親のそうした半信半疑の態度、全面的に主イエスを信頼せず、委ね切ることのできない態度 を、主はお許しになりません。それは「信仰」ではないからです。それは「心の貧しさ」とは正反対の、 人間の力に拠り頼むことです。主イエスはいま私たちに「信仰」のみを求めたもうのです。23節をご覧く ださい「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』」。  わが子が癒されない、罪の赦しがえられない、というのは、主イエスがそうなさらない(またはできな い)のではなく、ひとえに求め訴える父親の側に(つまり私たちの側に)問題があるのです。この父親は 救いを主イエスにではなく、自分の中に求めていました。主イエスに対する「信仰」ではなく自分を「主」 とする傲慢な思いがありました。御言葉を聴いて信じ、招きたもう主に自分を委ねるのではなく、自分を 中心とする価値基準、古きおのれが「主」になっていました。それは自分の信仰の力で「癒し」をなしう ると思いこんでいた、弟子たちと同じ過ちに陥ることでした。  主イエスは「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」と言われます。主はこ の御言葉によって、この不信仰な父親の(私たちの)まなざしをただ主に向かって開かせて下さいます。 「この人に息子を癒す力があるかどうか」と品定めをしていた彼のまなざしを、主イエスだけが「信仰」 を求めるまなざしへと方向転換させて下さいます。そのときこの父親は、息子を苦しめている「霊」(力) が実は自分をも捕えていることに気付かされるのです。必死の願いの中にさえ救いの可能性を測り、信頼 しきれずにいる自分の「罪」に気付かされるのです。  いま、主イエスの御声が、この父親の(私たちの)頑なな心を打ち砕きます。あなたの子供を、他でも ない、あなたの不信仰のために苦しませ、衰弱させ、死に至らせてもよいのか?。24節が答えです。「そ の子の父親はすぐに叫んで言った『信じます。不信仰なわたしを、お助けください』」。この父親の告白は 不思議な言葉です。「信仰」と「不信仰」とが2つながらにひとつに告白されているからです。実は私た ちはこの告白にしか生きえないのです。主を信じることは「不信仰なわたしをお助けください」と願うこ と、自分の不信仰もそのまま、主の御手に委ねること以外のなにものでもないのです。ここに私たちのも っとも真実な応答があります。そしてそこから驚くべき新しいことが起るのです。  私たちは「信仰」をよく、自分の意志で自由にできる所有物のように思い違いをしています。あるいは自 分の心の状態が「信仰」だと思っています。事実私たちは信仰を「持っている」とか「持っていない」と いう言葉を口にします。ときには他の人と信仰を較べたりさえします。弟子たちと律法学者たちの論争も、 まさにその“どんぐりの背較べ”でした。どちらが「霊にとりつかれた子供を癒しうるほどの信仰を持っ ているか」を論じ合い、自分たちにこそその力があると自惚れ、そして共に倒れるほかなかったのです。 他人ごとではありません。私たちこそこの父親のように、また弟子たちや律法学者らのように、人生のも っとも大切な局面、家族の病気や苦しみ、悲しみや人生の重荷に直面する中で、自分を「主」とし、主イエ スの力を値踏みするようなことをしているのではないか。  私たちは本当に自己中心な「不信仰」な僕です。だからこそ、いま私たちがなすべき信仰告白は「信じ ます。不信仰なわたしを、お助けください」以外のなにものでもないはずです。そこに生きる幸いと喜び を、私たちは主から戴いているのです。言い換えるなら私たちは、キリストの真実のみが私たちの不信実 を(罪の身体を)打ち砕いて下さることを信じるのです。罪に「とりつかれている」私たちを、主が満ち 溢れる生命の勝利の御手をもって解き放って下さることを信じるのです。主は私たちを、その不信仰(不 信実)のあるがままに、ご自身の溢れる救いの恵みのもとに招いていて下さいます。生ける主との交わり の中に、私たちがいま招き入れられているのです。私たちの「不信仰」を打ち破るのは、私たちの力では ありません。主イエスの、恵みに満ちた真実な迫りだけが、私たちを救い、尽きぬ生命を与えて下さるの です。  ある人が「信仰」について次のように語りました。「かくて信仰とは、神の御業に対して無条件に開かれて いること、自分自身については常にただ不信仰しかそこに見いだすことができず、神を仰ぐときは、常に 喜びと確信をもって、神がこの不信仰を常に繰返し、癒して下さることを告白する。そのような絶えざる 待ち望みである」。この「絶えざる待ち望み」とは、キリストの御手に自分を委ねることです。それこそ「神 の御業に対して無条件に開かれていること」なのです。たとえ私たちの内には「不信仰」しかなくても、 主の御業をそのまま受け入れるならば、もはや私たちを支配するものは私たちの「不信仰」なのではない。 キリストの永遠の真実が、キリストの平安が、私たちを支配して下さるのです。その恵みの勝利の支配の 中でこそ「霊」に「とりつかれていた」この子供も癒され、立ち上がるのです。主みずから「手を取って」 その子を、私たちを、起こして下さるからです。  いま主が打ち砕いて下さるもの、それはみずからの癒しの力に信頼していた弟子たちの「罪」そして主 イエスの癒しの力を値踏みしていた父親の「罪」です。祈り願いつつも、弟子たちも父親も「信仰」の名 のもとに自分を「主」とし、自分を中心とする空しい思いの中でしか生きえていなかった。28節をご覧く ださい「家にはいられたとき、弟子たちはひそかにお尋ねした、『わたしたちは、どうして霊を追い出せな かったのですか』。すると、イエスは言われた、『このたぐいは、祈によらなければ、どうしても追い出す ことはできない』」。主がはっきりと言われます「このたぐいは」すなわち、私たちを支配する「罪」の問 題、人間が人間であるための最も大切な罪の贖いは「祈によらなければ」なしえないと。  その「祈り」とは、まさに主イエス・キリストに対する「待ち望み」です。その「待ち望み」(祈り)は どこに起るか。いまここに、主の教会においてです。いま主イエス・キリストが、私たちのところに来て 出会っていて下さるのです。主イエス・キリストに出会い触れて戴くとき、私たちは助けられ、癒され、 救われるのです。この主と出会い、向かい合う時に、私たちの頑なな魂さえも打ち砕かれ、主の溢れる祝 福の生命が注がれ、私たちも「立ち上がる」者とされるのです。揺るがぬ救い主キリストが「主」であられ るゆえに、揺るがぬ信仰もまた私たちに与えられ、そこでこそあの真実な告白が私たち一人びとりのもの となるのです。「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」(主よ信ず、信なきわれを、助けたまえ)。