説    教     詩篇62篇5〜7節   使徒行伝2章29〜36節

「主は御父の右に座し」

2013・11・24(説教13471511)  最近はあまり言われなくなったようですが、以前には、たとえば私が小学生の頃などは、よく学校の 先生から「姿勢を正しなさい」ということを言われました。授業のときはもちろん、お弁当を食べてい るような時にも、よく「姿勢を正すように」と注意されたものです。あるいは、もっと私たちに身近な ところで申しますなら、牧師が説教壇から説教をする姿勢についても、昔の牧師先生はよく気を配って おられたように思います。説教の内容はもちろん、説教者の姿勢そのものにも、きちんと注意をしてお られたのであります。  それは同時に、礼拝者の姿勢ということもあるでしょう。礼拝中に足を組んで説教を聴くことができ るかと、改めて教会員に問われた先輩の牧師先生がおられました。私たちはどうでしょうか。足を組ん だほうが楽に聴ける、という人もあるでしょう。ですから問題は外面の姿勢だけではないのです。なに より問われねばならないのは「信仰の姿勢」です。私たちがいつも、主イエス・キリストのみをしっか りと見つめているかどうか。主に対する全き信頼に生きているかどうか。その「信仰の姿勢」をこそ改 めて問われねばなりません。  そのとき、私たちにとって最も大切なことは、主イエス・キリストが「いま、どこにおられるか」そ して「何をしておられるか」を明確にわきまえていることです。そして、主に向かって信仰の背筋を伸 ばすことです。主を仰ぐ健やかな信仰に生きていることです。そこで、この「主イエス・キリストがどこ におられ、なにをしておられるか」という問いに対して、私たちが告白し(歌いさえ)している使徒信条 は明確に答えています。「(主は)天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」という言葉がそれで す。今日の御言葉である使徒行伝2章29節以下にも、特に32節と33節にこのように告げられていま した。「このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。それで、イ エスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである」。  ここには「座したまえり」という言葉は出てきません。それが出てくるのは、たとえばペテロ第一の 手紙3章22節などです。「キリストは天に上って神の右に座し、天使たちともろもろの権威、権力を従 えておられるのである」。しかしその意味するところは使徒行伝も同じなのです。キリストが「父なる神 の右に座し」たもうた事実は、ただ単にキリストが、天の御父のもとにご自分の落着き場所を定めた、 ということではないのです。そうではなく、それはなによりも私たちのため、そして全世界のための、 キリストの救いの働きそのものをあらわしているのです。それは、どういうことでしょうか。旧約聖書 において「右」という言葉は「力」を意味しました。古代イスラエルの人々はおそらく、そこで具体的 な姿を思い浮かべたのです。それは礼拝の中心であったエルサレムの神殿は「東」を向いて建てられて いたことです。神の御臨在を現わす神殿が東向きに建てられていたということは、神殿から見ると「右」 は「南」になります。ですからヘブライ語では「右」と「南」は同じ言葉であらわします。そこには、 つまり神殿の「右」には「王の住まい」がありました。いわば神のお住まいの「右」側に、神の御心によ って神の民のために立てられた王が「座していた」のです。何のためにか。神に仕え、その御心を世に 行うためです。  それは更に、今朝の使徒行伝2章34節に引用されている詩篇110篇1節によって明らかです。そこ に「主なる神がわが主に仰せになった。わたしの右に座していなさい」とある。まさにこれこそ、御子 イエス・キリストが父なる神の「右」に「座して」おいでになることなのです。つまり主イエスは「ま ことの王」として父なる神と共に永遠に支配しておられるかたである。主は天の玉座に安住しておられ るというのではなく、そこでこそ「教会の主」(教会のかしら=歴史の唯一の主)として、永遠の恵みの 御支配を確立され、それをいまこの歴史の中に行なっておられるかたなのです。ですから「天に昇り、 全能の父なる神の右に座したまえり」と言う場合、私たちは何か遥か彼方に王なるキリストを見ている のではない。むしろ逆に、この告白においてこそ私たちは王なるキリストと深く確かな繋がりを持つ者 とされているのです。  そこでこの、神の右に座しておられるキリストのお姿をもっともよく見据えて生きた人にステパノが います。ステパノは初代エルサレム教会が立てた七人の執事の一人であり最初の殉教者となった人です。 彼はキリストの福音を堂々たる説教によって反対者たちに証しし、その結果として石打ちの刑に処せら れました。その様子が使徒行伝7章54節以下に記されています。「人々はこれを聞いて、心の底から激 しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめている と、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は『ああ、天が開けて、 人の子が神の右に立っておいでになるのが見える』と言った」。59節「こうして、彼らがステパノに石 を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、『主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい』。そ して、ひざまずいて、大声で叫んだ、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』。こう言っ て、彼は眠りについた」。  まだ小さな、生まれたばかりの教会です。集まる人々も少なく、力も弱い教会でした。その執事とし て立てられたステパノが、ここでまことに堂々たる福音の宣教をし、殉教の死をとげました。その死の さまを見ていたパリサイ人サウロは、それを契機にキリストの使徒パウロとしての歩みを始めたのです。 人々の暴力と圧倒的なこの世の力だけが支配しているかのように見えたこの場面で、いま殺されようと しているステパノがしかと見つめていたものは、父なる神の右に立っておられるキリストのお姿でした。 ここには「座したもう」とさえ書いてありません。主イエスはもう「立って」おられるのです。 主イ エスはいまここに救いの御業をなしておいでになる。残酷な石打ちの刑すらも、主のなさる救いの御業 を止めることはできません。ステパノはただ主を仰ぎ見て感謝と讃美を献げ「主イエスよ、私の霊をお 受け下さい」と祈ります。そして自分を殺害しつつある人々に対して「主よ、どうぞ、この罪を彼らに 負わせないで下さい」と祝福と赦しを祈りつつ息絶えるのです。「この人々を懲らしめて下さい、仇を討 ってください」と祈るのではない。まさにこの人たちの上に、あなたの救いが輝きますようにと祈りつ つ「眠りに」つくのです。  最初に、私たちは「姿勢」を正すのだと申しました。いったいどういう姿勢を取るのか。具体的には わかりづらいかもしれない。しかし姿勢の正しい人が実際にそこに立っており、または座っていれば、 具体的にその「正しい姿勢」がわかるのです。「この人のような姿勢になればよい」と実感できるのです。 私たち改革長老教会では、長老が率先して礼拝の最前列に座ります。それは自分の背中を(姿勢を)通 して全会衆に礼拝者の姿勢を示すためです。同じように、ここに執事ステパノは、信仰を持って生きる 私たちがどのような姿勢を正して生きかつ死ぬのかを見事に示しています。しかもこれはステパノだけ ではない。今朝の御言葉の使徒行伝2章29節以下はペテロの説教です。聖霊が注がれ語らしめた教会 の最初の説教です。その33節以下にこのようにあります。「それで、イエスは神の右に上げられ、父か ら約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞き しているとおりである。ダビデが天に上ったのではない。彼自身こう言っている、『主はわが主に仰せに なった、あなたの敵をあなたの足台にするまでは、わたしの右に座していなさい』。だから、イスラエル の全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主ま たキリストとしてお立てになったのである」。  教会はまさに、ここに建ちました。このようなキリストの確かな永遠のご支配を見ることにおいて教 会の歴史が始まったのです。このキリストのご支配を見るのはほかならぬ私たちです。主がお建てにな った教会です。教会は天における、それゆえ歴史において永遠に変わらぬキリストの恵みのご支配を信 じ受け入れて、その確かさに生きる群れなのです。私たちの教会はプレスビテリアン(長老制度)の教 会ですが、それは人間としての長老が支配する、ということではもちろんない。いわんやデモクラシー (民衆支配)でもない。それは“クリストクラシー”(キリストのご支配)を明確にする制度なのです。 キリストのご支配がこそが鮮やかに見えてくる、現われてくる、そのような教会の営みに、ともに奉仕 してゆく私たちなのです。  その「キリストのご支配」はいかなる内容を持つか。いまのペテロの説教の中に「あなたがたが十字架 につけたこのイエスを、神は主またはキリストとしてお立てになった」とありました。この「あなたが た」とは私たちのことです。ほかならぬ、この私たちの測り知れぬ罪の贖いのために、主イエス・キリ ストは十字架にかかられ、復活され、天に昇られて、御父の「右」に座したもうたのです。言い換える なら、私たちは「天」に十字架の贖い主キリストを戴く者とされている。このかたが絶対に変わらない 恵みの王権を確保していて下さる。だから、私たちは生きるにも死ぬにも変わることなく、主の恵みの 御手に堅く支えられていることを信じることができるのです。決して変わらない永遠の恵みの御手に私 たちは守られているのです。  ローマ人への手紙8章33節以下にこう記されています。「だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。 神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは死んで、 否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。だれが、キ リストの愛からわたしたちを離れさせるのか…」。なんと素晴しい御言葉でしょうか。神の右に座してお られるキリストは、永遠の王権をもって、私たちのために執成し続けておいでになる。罪の贖いの恵み のもとに全ての人々を教会によって招いておられるのです。執成し続けておられるとは、私たちを罪の 虜の状態から解放することです。罪が私たちを支配することを絶対にお許しにならず、闘い続けておら れるかただということです。だからこのローマ書8章31節から終わりの39節まで、一貫している確信 があるのです。  37節以下を読みましょう。「しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちはこれ らすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のも のも将来のものも、力ある者も、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリ スト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。「(主は)天に昇り、 父なる神の右に座したまえり」という告白が言いあらわしている確信と祝福は、まさにこの御言葉に告 げられている出来事なのです。神の愛から、言い換えるなら、神の恵みのご支配から、私たちを引き離 しうるものはなにひとつない、それほど確かな救いの喜びに私たちはいまあずかる者とされている。そ れは、主が永遠に勝利されたからです。その勝利の権威をもって「父なる神の右に座し」たもうからで す。だからこそ使徒信条は「全能の父なる神」という言葉をここで繰り返します。永遠の贖い主なるキ リストがそこにいて下さるゆえに、私たちは心からの喜びと感謝と讃美をもって、神が「全能の父なる 神」であられることを言い表す者とされているのです。  この、御父の右に座したもう主イエスこそ、歴史のまことの主、この世界の本当の王(全ての人の罪 の贖い主)でありたもうことを知るゆえに、私たちはどのような時にも、愛のわざに生きる僕とされて いるのです。「この、いと小さき者の一人になしたるは、すなわち、われになしたるなり」と言いたもう 主の御声を聴く者とされているのです。私たちは人生の中で、自分がしたこと、励んできたことに、少 しも報いを与えられず、むしろ空しさを味わうことがあります。そのとき、私たちの姿勢は屈んでしま う。うつむいてしまうのです。しかし、そのような時にこそ、すでに栄光の主が天において、私たちを 完全な恵みのご支配のもとに置いていて下さることを覚えましょう。天にあり、それゆえに、永遠に私 たちと共におられる救い主として、主は私たちにはっきりと告げていて下さるのです。「わが子よ、私は、 いつまでも変わることなくあなたと共にいる。あなたの愛のわざのどれひとつとして、私の前に空しく はならない」と!。それゆえ私たちはどのような時にも、真の「王」であられる主イエスに、みずから の労苦の全てを委ね、その完成と祝福をまさに天における勝利の主に委ねることができるのです。私た ちの信仰の姿勢はそこにおいてこそ、いつも健やかな、軽やかな、慰めに満ちた、祝福を告げてゆく、 御国の民の幸いの姿勢とされているのです。