説    教    ダニエル書4章24〜27節   使徒行伝1章6〜11節

「天に昇られしキリスト」

2013・11・17(説教13461510)  私たちの教会では復活節(イースター)、聖霊降臨節(ペンテコステ)、そして降誕節(クリスマス) の3つを「三大節」と呼びます。特別な礼拝を献げる喜びの日です。この「三大節」は全て日曜日です。 しかし日曜日ではない教会の祝日もあります。たとえば「昇天日」と言われる日がそれです。復活の主 イエス・キリストの昇天を記念する日です。イースター礼拝後の40日目ですから必ず木曜日になりま す。ちなみに来年のイースターは4月20日(日)で、昇天日は5月29日(木)です。そこで、私たち日本 のキリスト者はこの「昇天日」を特別な礼拝の日として祝うことはありませんが、ヨーロッパなどに参 りますと昇天日は“国民の祝日”として休日になっています。ドイツなどでは春の訪れが遅い所為もあ りますが、昇天日の頃が一年で最も美しい季節です。ちょうど北海道の春のように一斉に花が開きます。 そのような光景の中でプロテスタント、カトリックを問わず、どこの教会でも昇天日の特別な礼拝が献 げられます。歴史をたどるなら、すでに西暦325年「昇天日」はニカイア信条の制定と共に特別な礼拝 の日に定められました。三大節に劣らぬ旧い歴史を持っているのです。  大切なことは、私たちがドイツの教会の真似をして「昇天日」に特別な行事を行おうではないか、と いうことではありません。そうではなく、すでにキリストの復活を記念する日曜日のどの礼拝において も、そこで福音が宣べ伝えられ礼拝が献げられるとき、キリストの昇天の出来事も、いつも信仰をもっ て覚えられ、感謝と讃美が献げられているかどうかが大切なのです。たとえば私たちは、毎週の礼拝の たびに使徒信条を初代教会のように歌って告白します。そのたびに私たちは「(主は)十字架につけられ、 死して葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の中からよみがえり、天に昇り」と告白するのです。だか らこそ、その私たち一人びとりに問われています。「あなたは、主が『天に昇られた』という告白を、あ なたの“救いそのものの出来事”として、いつも健やかに信じていますか?」と。  洗礼準備会などでしばしば経験することですが、使徒信条の中でどの部分がいちばんわかり辛いかと 訊ねたとき、多くの人がこの「天に昇り」という言葉が「わかりづらい」と言います。言葉の意味がよ くわからないというのではなく、それがどうして私たちの「救い」なのかが「わかりづらい」ようです。 これは洗礼志願者だけではないと思うのです。キリストの「十字架」や「復活」が「私の救いの出来事」 として理解できる人も、こと「昇天」ということになると、途端に歯切れが悪くなってしまうのではな いでしょうか?。主イエス・キリストは甦られて、私たちのため、そして全世界のために、罪と死とを 完膚なきまでに打ち滅され“天に昇られ”ました。英語の使徒信条の翻訳をみますと、この「昇られた」 と訳された言葉に「優位に立つ」という意味の言葉が使われています。ただ眼に見えるひとつの事実と して主は“天に昇られ”ただけではない。天に昇られた主はなによりも“復活の勝利の主”なのです。 私たちの底知れぬ罪と死の縄目を、その滅びの力もろとも担い取って下さり、私たちを真の自由へと解 き放って下さった救い主(慰め主)なのです。まさにその“復活の勝利の主”を私たちは、全世界の永 遠の救い主として「天」に持つ者とされている。それがキリストの昇天の意味する恵みです。主は私た ちを支配する罪と死に対して永遠に「優位」に立ちたもう。たとえ罪がいかに激しく私たちを滅びに引 きこもうとも「昇天の主」の御前には、もはや罪は優位性を持ちえないのです。キリストが絶対優位に 立ちたもうて、私たちを存在の深みから守り支えていて下さるのです。それが「昇天の主」の福音が告 げる第一の祝福です。  それだけではありません。私たちのために罪と死に永遠に勝利し優位に立ちたもうた主は、その恵み の勝利を「天」に確保していて下さいます。これを「たしかな保障」と言い換えることができるでしょ う。私たちの救いの「根拠」と言ってもよい。ごく単純に申してよいのです。私たちは弱く脆い自分自身 の中に救いの「根拠」(または保障)を持つのではない。そうではなく、私たちは救いの確かな「保証」 を「天」に持つ者とされているのです。なぜか、それは復活の主が“天に昇られ”たかただからです。 とても単純なことです。だからこそ、そこには確かな慰めと祝福があります。キリストの昇天の恵みの 内に、私たちは自らを、そして全ての人々を、そして世界と歴史とを新たに見いだすのです。  ある一人の優れた神学者がこういうことを語っています。「天から来られて、私たちのために苦しみを 受け、罪と死に勝利されて、全ての救いの御業を全うして下さった主が天にお帰りになるのは、当然の ことではないか」。私はこの言葉に接して、改めて心を揺り動かされました。「ことさら問うべきことで さえない」とこの神学者は言うのです。「それは当然のことだ」と言うのです。私たちはクリスマスにお いて、主が神の御子でありつつ、人として生まれて下さったことを喜び祝います。そこに私たちの、ま た全世界の救いがあることを知り、感謝と喜びを主に献げます。またイースターにおいては、私たちの ために十字架を担われた主が、墓を(陰府を=罪と死の支配を)打ち破り、甦られたことを喜び祝い、 そこに私たち自らの「よみがえり」(救い)があることを知り感謝します。それならば、天から降られて 人となり、全ての救いの御業を成し遂げて下さった主が「再び天に昇られた」ことはまさに「当然のこ と」ではないでしょうか。キリストが勝利して下さったのです。そしてその勝利を「天」に「確保」し て下さったのです。弱い私たちの手に勝利を委ねて去ってゆかれたのではないのです。その勝利を「保 障」して下さるために、主みずから“天に昇られ”たのです。私たちを揺るぎない恵みに生きる者とし て下さったのです。だからこそキリストの昇天の福音は私たちの救いそのものなのです。  私たちの葉山教会の礼拝堂の入口左側にラテン語で大きく「スルスム・コルダ」(Sursum Corda)と 刻まれています。この礼拝堂を献堂して早くも14年目を迎えようとしていますが、最初はもう少し小 さい字になる予定でした。しかし何かの手違いで予定の倍ぐらいの大きな字になりました。私はむしろ 幸いであったと思っています。これは「心を高く上げよ」という意味のラテン語で、初代教会以来、私た ちの教会が聖餐式のたびごとに献げてきた祈りの言葉です。否、これは毎主日ごとの礼拝において深く 覚えられるべき祈りです。私たちはここで、まさに「心を高く上げ」て「昇天の主」を仰ぐのです。そ こには私たち全ての者のために完全な救いの「保障」をしていて下さる勝利の主が栄光の御座に坐してお られるからです。  だから私たちは、この世の旅路の中で、どんなに大きな試練や悩みの中にあるときにも、自らの救い を疑わずにすむのです。たとえいかに私たちが不確かであり弱くとも、私たちを終わりまで堅く支えた もうキリストの御手の確かさを疑わない。そのような幸いに生きる私たちとされているのです。私たち をキリストから引き離そうとするいかなる力も、もはや私たちの「優位」に立つことはありえないからで す。私たちの救いの「保障」は「天」にあって、私たちの中にあるのではないからです。この「天」とはキ リストの御国です。もともとは「キリストの恵みの支配」という意味のギリシヤ語です。私たちはキリ ストの御身体なる教会に連なることによって、このキリストの御国の民とならせて戴いています。だか ら使徒パウロは「わたしたちの国籍は天にある」とさえ申しました。  今朝の御言葉である使徒行伝の1章6節以下、特にその10節と11節において、天に昇ってゆかれる 主イエスを呆然と仰いでいた(つまり天を仰いで佇んでいた)弟子たちに御使い(天使)が来て決定的 なことを告げます。「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上 げられたこのイエスは、天に昇って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる であろう」。 ただ天を仰いで立っているというのは、過去の思い出に浸っていることです。主イエスが 親しく共におられた、その恵みを「過去のこと」にしてしまうことです。御使いは「それではいけない!」 と弟子たちを叱責します。「なぜ天を仰いで立っているのか」と告げるのです。「それどころではない!」 と言うのです。救いの御業を十字架と復活において成就して下さったキリストは、新しい“教会の時代” をお始めになったではないか。天を呆然と仰いで思い出に浸っている場合などではない。キリストが「天 に昇られ」たという出来事こそ、私たち全ての者にとって限りない慰めであり喜びなのです。なぜか?。 宗教改革者ルターの言葉を紹介しましょう。ルターはある説教の中でこういうことを語っているのです。 「主が近くおられたとき、主は私たちから、遠くあられた。主が私たちから遠いとき、主は私たちに近 くおられる」。  その意味はこうです。もし主イエスが目に見えるお姿を持ったまま、いわば眼に見えるかたとして私 たちの中に留まり続けておられたなら、私たちは主がいま教会を通してなされている救いの御業にあず かることはできなかった、ということです。全ての人が主のもとに集まって主に従うことなどできなか ったでしょう。たとえば、もしキリストが眼に見える姿でイスラエルのどこかに本拠地(本山)を構え ておられたなら、救いを受けたいと願う人々はみなイスラエルまで行かねばならないことになる。主は そのようなかたではないのです。全ての人々と共におられ、教会を通して限りない救いの御業を今なし たまい、全ての人々に恵みの支配を(祝福を)与える道を開かれたのです。だから主が「天に昇られ」 たことは、私たちから遠く離れたもうたことではない。その逆なのです。いま主は「昇天の主」として、 私たちと今も後も永遠までも「共に」いらして下さるのです。  そのことは、たとえばマタイ伝の最後の28章20節でも明らかです。そこで主は、弟子たちを伝道の わざにお遣わしになり「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」とは っきりと語られました。私はもう天に帰るのだから、これから先はあなたがたと一緒にいられないと言 われたのではないのです。そうではなく「これから後は、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下 さったのです。私たちはこのマタイ伝の最後を読む時に「ああ、主イエスは弟子たちといつも一緒にお られたのだな」とは読まないのです。「まさに主はいまこの私と共にいて下さるのだ」と読むのです。そ のようにしか読みえないのです。  私たちの教会にとって忘れえない先達の一人に植村正久という牧師先生がおられます。かつて東京は 富士見町教会の牧師であり、また日本最古の神学校として東京神学社を創立されたかたです。この植村 牧師は洗礼試問会の問いの中で「主イエスはいま、どこにおられますか?」という問いをとても大切に されたそうです。私たちでしたらどう答えるでしょうか。主は私たちが苦労して捜さなければお会いで きないかたではない。私たちはこの世の戦いの中に取り残されてしまったのではないのです。そうでは なく、主イエス・キリストは、今も後も永遠までも、私たちの贖い主・救い主として、まさに「昇天の 主」として、永遠までも私たちと共におられるかたなのです。まさに勝利の主として「天」に私たちの 救いの「保障」を置いて下さったかたなのです。だからこそ私たちは、このかたの恵みの支配のもとに、 心を高く上げて、喜びと感謝と平安をもって歩むことができるのです。