説    教    創世記4章13〜16節  ガラテヤ書6章17〜18節

「イエスの焼印」

 ガラテヤ書講解(48) 2013・11・10(説教13451509)  約一年間にわたってガラテヤ書を通して福音の御言葉を聴いて参りました。今日のこの主日をもって ガラテヤ書の講解説教は終わります。そこで、この手紙の最後に使徒パウロは非常に印象的な言葉を語 っています。それは「イエスの焼印」という言葉です。今朝の6章17節に「だれも今後は、わたしに 煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから」とあることです。  この御言葉に接した人々は、誰でもみな、たいへん驚いたに違いありません。なぜなら「焼印」とは、 奴隷が所有者である主人の名の頭文字(イニシアル)を身体に焼印されることを意味したからです。言 い換えるなら「焼印」とは主人の所有である「明確な印」を付けられることです。しかも、当時の古代 ローマ帝国においてさえ「焼印」を捺される奴隷は逃亡奴隷か、または戦争捕虜であった奴隷に限られ ていました。「焼印」は本来は人間にではなく、牛やロバなどの家畜に押されるものでした。つまり、こ こにパウロは本来なら不名誉きわまりない「焼印」しかも「イエスの焼印」を「身に帯びている」とい うことを、堂々と誇りをもって言い表しているわけです。  そこで、私たちはこの御言葉について2通りの解釈をすることができます。第一に、パウロは本当に 「イエスの焼印」を「身に帯びていた」のだという理解です。イエスの御名のゆえに捕らえられ投獄され た際に、実際に焼き鏝で「イエス」という名の「焼印」を捺されたのだと理解することです。もっとも ローマの公民(自由市民)であったパウロに実際に「焼印」が捺されたかは疑問だという考えかたもあ ります。第二には、パウロはこの「焼印」という言葉を「自分はキリストの所有である」というひとつ の“象徴”として用いているのだという理解です。いずれにしても大切なことは、パウロはここで、自 分は「イエスの焼印を身に帯びている」(キリストの所有である)ということを明確に言い表している事 実です。  私たちには何よりも、忘れてはならない一つのことがあります。このガラテヤ書を丁寧に読んで参り ました私たちの心に深く刻まれたことです。それはパウロは、伝道者としての数々の戦いの日々におい て、身体に無数の迫害による傷を刻まれていた事実です。それをパウロは、ここに「イエスの焼印」と、 喜びと誇りと感謝をもって呼んでいるのではないでしょうか。すでに学んで参りましたように、パウロ には伝道の障害となる数々の病気がありました。とりわけ眼が不自由でした。そのことも含めて、パウ ロはそれらの障害こそ、自分が紛れもなく「主イエス・キリストの所有」とされていることの確かな「印」 である。それこそ「イエスの焼印」を「身に帯びている」ことであると、喜びと感謝をもって言い表して いるのです。  さて、パウロはこの喜びと感謝を言い表しつつ、同時に今朝の御言葉において「だれも今後は、わた しに煩いをかけないでほしい」と語っています。これはどういうことなのでしょうか?。ある人はここ に「パウロのユーモア」を感じると言いました。しかしこの御言葉はもっと厳粛な、読む私たちが襟を 正さずにおられない内容であると思うのです。そもそもパウロは、自分は使徒である、キリストの伝道 者である、であるゆえに、ガラテヤの教会から牧会上の「煩い」を受けることについては、むしろ聖な る義務であると心得ていた人です。今日の教会でもそういうことがあるでしょう。私たちの葉山教会で も、洗礼を受けようと願う人に対する試問会において「生活上の全てのことを牧師に相談すること」と 勧められます。パウロもその志においては同じでした。丹念に福音を語り、教会を主の御身体として形 作ることにおいて、私たちには大きな忍耐と配慮が必要なのです。  その意味ではパウロは、教会を建てること(すなわち伝道)のゆえのあらゆる「煩い」をも自分の務 めと心得ていました。それは牧会のわざです。御言葉が教会員一人びとりの生活の生きた力となり慰め となることです。だからパウロは同労者テモテに対しても、第二テモテ書4章5節において「しかし、 あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務めを全うしなさい」と勧めてい ます。そして、そこでもパウロは「わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている」とはっきりと語 っています。言い換えるなら「わたしはイエスの焼印を身に帯びているのだ」ということを、そこでも 明確にしているのです。  そもそも、ここでパウロの言う「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい」と言う、その「煩 い」とは何でしょうか?。それは、キリストの福音を装ってガラテヤに入り込んできた「異なる教え」 に対する戦いでした。言い換えるなら、教会が正しい福音において一致していないことへの牧会上の労 苦でした。ガラテヤ教会の問題はまさにそこにあったからです。十字架のキリストの福音から離れて「異 なる教え」へと人々が落ちていってしまった、そこにパウロの牧会の苦闘の数々がありました。ガラテ ヤの教会の土台となったキリストの福音に基づく伝道牧会のわざを、彼の反対者たちや、それに扇動さ れた者たちが妨げることを、パウロはここに「煩い」と呼んでいるのです。そのような「煩い」を、今 後は誰も私に「かけないでほしい」と願っています。それは、ガラテヤの教会がこの手紙(福音の正し い説教)を通して、十字架のキリストの贖いの恵みのもとに堅く立ち続ける真の主の群れへと成長して 欲しいという願いです。使徒パウロの祈りの全てがそこにあったのです。  福音の宣教と主の教会を形成するための、誠実な議論や神学的な切磋琢磨なら真正面から感謝をもっ て受けるのです。しかし主の教会に仕えず、主の教会を損なおうとする「異なる教え」や人間の知恵に 基づく非信仰的な空虚な議論とは今後いっさい関わりたくない、それはキリストの御前に「論外である」 とパウロは言うのです。それがパウロの言う「煩いをかけないでほしい」ということです。そこには2 つの理由があります。第一には、その空虚な「煩い」がガラテヤの教会を弱めるからです。今日の私た ちにさえその「罪」が無いとは言えません。自分の思いや自分の価値基準、自分の勝手な思い込みや審 きの心、それが教会の中で自己主張をはじめるとき、伝道に向けて一つになるべき教会員の結束を弱め ることになるのです。それこそ私たちはパウロと志をひとつにせねばなりません。「だれも今後は、わた しに煩いをかけないでほしい」と。私たちはキリストに贖われた一人びとりである喜びと幸いとを、そ こにこの世界と歴史の真の救いがあることを、喜んで証し宣べ伝えてゆく群れとしてここに召されてい るのです。  第二の理由は、キリストの福音を宣べ伝えるべき地は、ガラテヤ以外にもまだたくさん残っているか らです。主の御赦しがあれば、そこにも自分は遣わされたいとパウロは心から願うのです。だからキリ ストの福音に反する「異なる教え」などで私の足を引張らないでほしい。煩わさないでほしい。そのよ うな「患い」をあなたがたの中から一掃して、後顧の憂いなく私を新たな伝道の地に遣わして欲しい。 そのようにパウロは、主にありて心から祈りかつ願いました。それは何よりも、この日本において真実 の願いとならざるをえないのではないか。教会の中に福音宣教を妨げる「患い」があって、どうしてこ の国に本当の伝道ができるでしょうか。私たちは一つのことをはっきり自覚せねばなりません。いま私 たちこそ「イエスの焼印を身に帯びている」という事実です。  私たちこそいま「イエスの焼印を身に帯びている」のです。それは十字架の徴です。パウロは、自分 の身に刻印された迫害の傷の中にさえ、神の恵みの御業の「確かな徴」を見ました。そこに罪人のかし らなる自分をも選び捕らえたもうて福音の伝道者として下さった神の大いなる御業を知り、感謝と讃美 を献げているのです。それが「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの 焼印を身に帯びているのだから」ということです。それは同時にここに連なる私たち一人びとりにも、 主が教会を通して与えて下さっている恵みの「徴」そのものです。私たちもまた「十字架の徴」を刻印 されているのです。主が生命を注ぎ全てを献げて、私たちを永遠の恵みのご支配、神の国の祝福の限り ない豊かさの中へと入れて下さったのです。  それこそ私たちは、宗教改革者ルターが、あの宗教改革の厳しい戦いの中にあって、いつも机の前に 「私は洗礼を受けている、私はキリストのものだ」とラテン語で書かれた一枚の紙を貼って、その事実 を繰返し感謝と喜びをもって確認していたことを心にとめたいのです。ルターは、人間にとってこれ以 上の幸いはないと言い切っています。「私は洗礼を受けている。私はキリストのものだ」。どのようなこ とがあっても、私たちの魂が苦しみの中で崩れるとも、悲しみに打ちひしがれ、死の力に絶望するよう な経験をしても、そこでこそ主は私たちの永遠に変わらぬ贖い主であられる。主の御手が私たちを力強 く捕らえ支えていて下さる。十字架の主ご自身がかき抱くようにして私たちをご自分に堅く結び合わせ ていて下さる。このことを私たちは確信するのです。なぜか、それは私たちがいま「イエスの焼印」を 捺されているからです。十字架のしるしを付けて戴いているからです。イエスを主なりと告白する信仰 に生かされているからです。その信仰において、ここに一つとされた群れを形作っているからです。  ですから、この「イエスの焼印」という言葉は元々のギリシヤ語では複数形です。それはパウロが身 体に受けた傷が複数あったことをを現わすのでしょうけれども、さらに深い意味においては、それが私 たち一人びとりに、私たち全ての者に、救いの徴、贖いの徴、キリストのものとされた恵みの徴として、 はっきりと記されているからにほかなりません。それと同時に、この「焼印」と訳されたギリシヤ語は 「スティグマタ」と言うのですが、キリストの十字架の御傷と同じ字なのです。私たちには、ただ象徴 としての十字架の「徴」が身体や心に刻まれているというだけではない。そうではなく、何よりも私た ちは、キリストが私たちのために永遠の贖いとなって下さった、あの十字架のキリストの御傷そのもの を、私たちの救いの確かな「徴」恵みの「徴」とすることを許されている。まさに主イエスの十字架の 御傷によって、いま私たちは新たな生命に生きる者とされ、信仰から信仰へと進み、主の教会において 真の礼拝者とされ、主の御業の確かさを、その限りない祝福に、ともに生かされているのです。  私たちは、パウロが肉体に刻んでいたような、眼に見える「イエスの焼印」は持っていないかもしれ ません。しかし私たちが主の教会に堅く結ばれ、主の教会においてこの世界における復活の生命の勝利 を確信し「イエスは主なりと」告白するならば、私たちは主のご苦難による救いの確かさをまさに自分 の中に見出すものとされているのです。それこそ紛れもなく「イエスの焼印」を刻印されている私たち であることを、いま教会の信仰によって確信し、パウロと共に喜び、パウロと共に誇り、それを感謝す る私たちとされているのです。  それならば、主イエスは変わることなく、私たちをご自身の恵みの中におらせて下さいます。決して 変わることはありません。「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の親しき交わりと執成し」 この大いなる祝福の力において、私たちの全存在と全生活が支えられている。この祝福において、生き、 死ぬ者とされている。それは決して変わることはないのです。それゆえに私たちはパウロと共に「わた したちはキリストのために、ただ彼を信ずることでけではなく、彼のために苦しむことをも(恵みとし て)賜わっている」(ピリピ1:29)ことを知るのです。  最後の18節は祝福の祈りです「兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたが たの霊と共にあるように。アァメン」。この祝福のもとに、私たちの新しい生活が始められている。キリ ストの贖いの恵みの刻印が、私たちの全生涯とともに、否、死を超えてまでも限りなくある。その事実 を、喜び、感謝して、主とその恵みの言葉とに、ガラテヤの教会を、そしてこの手紙を読む全ての人々 を委ねて、この手紙はしめくくられているのです。