説     教    箴言28章13〜14節   ガラテヤ書6章11〜16節

「十字架の主を仰ぐ」

 ガラテヤ書講解(46) 2013・10・27(説教13431507)  先週の主日に引き続き、ガラテヤ書6章11節から16節の御言葉をお読みしました。今日は同じ御言葉で 2度目の説教をします。実は来週も同じ御言葉で3度目の説教をする予定です。それほど、語り尽くしえな い福音の豊かさを与えられている御言葉です。このガラテヤ書の講解説教はあと2回、合計48回で終わる 予定ですが、改めて顧みて、その倍の回数は必要であったかと反省しています。それほどまでに、語り尽く せぬキリストの救いの恵みの豊かさに、私たちは圧倒されるのです。  そしてその想いはなによりも、この手紙を書いた使徒パウロ自身の思いではなかったでしょうか。病気の ため不自由になった眼で、懸命の思いで、獄中で、大きな文字で、パウロはこのガラテヤ書を書きました。 文字が大きくなったのは、ただ眼の病気だったからだけではなく、手ずから記したのも、ただ書記がいなか ったからだけではないでしょう。なによりも使徒パウロは、ここに限りない福音の喜び、ガラテヤの人々と 共にキリストの福音に与り、そこに共に生かされている喜びに胸を躍らせつつ、大きな喜びと感謝をもって これを書いています。それだけに、キリストの福音の豊かさから離れてゆこうとする人々に対する言葉も、 厳しく率直なものとならざるをえませんでした。  とりわけそのことは、ただ十字架の主イエス・キリストのみを「誇る」という音信(おとずれ)に最もよく 現わされています。すなわちパウロは、今朝の6章14節において「しかし、わたし自身には、わたしたち の主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」と申しています。続け てパウロはこうも語ります「この十字架につけられて、この世はたしに対して死に、わたしもこの世に対し て死んでしまったのである」と。  ここに宣伝えられていることは、大きく分けて3つの事柄です。第1にパウロは、ガラテヤの人々に対し て、自分自身について言うなら「誇とするもの」はただ「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」のみ であると明言していることです。第2にパウロは、自分は「この十字架」に恵みによって「共につけられ」 た者となったということ。そして第3にパウロは、そのキリストの十字架の恵みにあずかる者となった結果 「この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまった」のだ語るのです。この3つの事 柄に私たちは心を留めたいと思います。  まず第1の音信に心を傾けて参りましょう。すなわち使徒パウロが、愛するガラテヤの人々に対して「わ たし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならな い」と語っていることです。これはどういう意味でしょうか。まず私たちがわきまえておくべきことは、使 徒パウロが生きた2000年前のユダヤにおいて「十字架」は、もっともおぞましく汚らわしい、人間として いちばん「恥」とすべきものであったという事実です。事実「十字架」はパウロの時代、最も残酷な処刑の 方法でした。それに加えて、なによりも十字架は、神に呪われ捨てられた「罪人の死」を意味したのです。 だから十字架によって死んだ罪人の死体は、家族でさえ引取りを拒否したほどでした。主イエスが十字架に かかりたもうた小高い丘は「ゴルゴタ」と呼ばれましたが、それは「されこうべ」(髑髏)という意味です。 その名のとおり、そこには引取りさえ拒否された罪人の死体が朽ちるに任せて放置されていた。それはまさ に「呪い」そのものの鬼気迫る光景でした。そこに主イエスは十字架を担って下さったのです。そして私たち 全ての者の「罪」を背負って死んで下さったのです。神に捨てられ呪われた「罪人」の行着く現実を、徹底 的にご自分のものとして下さったのです。それが十字架の出来事なのです。  私たちの教会は、まさにこのゴルゴタの主イエスの十字架を、教会の最も高い場所に掲げて、全ての人々 に対する招きの徴としています。言い換えるなら、私たちは使徒パウロと共にこう告白しているのです「わ たし(たち)自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じて」ない と!。現代の人々は教会に掲げられた十字架を見ても、そこに「おぞましさ」や「恥」を感じないでしょう。 むしろ教会とは無関係の結婚式場などにも、大きな十字架が飾られていたりします。愛知県の豊橋中部教会、 東海連合長老会の教会ですが、あるとき道路を挟んだ向い側に大きな結婚式場が建てられた。教会の十字架 より遥かに大きな十字架がその結婚式場の屋根の先端に立てられました。なんと神社の経営する結婚式場で した。そちらが教会かと思って間違えて入ってゆく人がよくいたそうです。今はもうその結婚式場は潰れて 建物も取り壊され、十字架も取り去られてしまいました。これなどは、当時のガラテヤでは考えられない光 景だったのです。  十字架は「恥」しかも“人間として考えうる最大の恥辱”以外なにものでもなかった。ですから「それ以 外に誇りとするものは断じてない」と語ったパウロの言葉は、当時の人々には驚天動地そのものでした。そ こでこそ十字架を誇る、それはこの私のために計り知れない愛をもって、主イエス・キリストが十字架にか かられ、この私の罪の贖いとなって下さった事実を(福音を)信ずるということです。だからこの「誇る」と いう字は元々のギリシヤ語では「喜ぶ」という言葉です。つまりパウロはここに「わたしは主イエス・キリ ストの十字架の恵みを最大の喜びとする」と告白しているのです。自分の喜びと感謝のいっさいがそこにあ ると語っているのです。  「罪」によって神から離れ、存在の根拠を失い、魂の放浪者となってしまった私どものために、キリスト が無限の恥辱である十字架を背負い切って下さった。そしてこの私どもを無限の恥辱である「罪」から贖い、 神の国の民として下さった。そのキリストの御業を、十字架を、私たちが「誇り」(最大の喜び)となさずし て、どうしてキリスト者の日々の生活がありうるでしょうか。私たちは人から親切にされたとき、そこに大 きな喜びと幸いを感じ、また大きな恩義を感じます。御礼をせずにおれなくなります。あるいは、こういう ことを考えても良いでしょう。私たちの生命を救うために、誰か他の人が自分の生命を犠牲にしてくれた、 そういう事を経験したなら、私たちはその人の死を「恥」とはせずむしろ「誇り」とするのではないでしょ うか。たとえその人の死がどんなに醜い死にかたであったとしても、それがこの私の「救い」のためであっ たと知るなら、私たちはその醜い死のさまを「限りない誇り」とせずにはおれないでしょう。ましてや私た ちのために、十字架に死んで下さった神の御子イエス・キリストの死を、どうして私たちは誇らずにおれる でしょうか。  ですから、使徒パウロの言う「誇り」それは「最大の喜び」のことだと申しましたけれど、その「最大の喜び」 は同時に、私たちの存在を常に新たにせずにはやまない大いなる「祝福の力」(祝福の生命)そのものなので す。それこそパウロが今朝の御言葉において語る第2の事柄、すなわち、私たちは使徒パウロと共に、キリ ストの十字架に共に「つけられた」者になったという恵みの事実です。キリストの十字架の死にあずかるご とく、その復活の生命にも、私たちはいまあずかる者とされているのです。  ローマ書6章3節以下にパウロはこう語っています「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・ イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すな わち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリス トが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きる ためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様に もひとしくなるであろう。わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に 十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないた めである」。  ここにパウロは、私たちがキリストの十字架の死に信仰によって「あずかる」ことこそ、私たちがキリス トの賜る新しい永遠の生命(まことの神との永遠の交わり)に生きることだと告げているのです。そうしま すと、この「あずかる」という言葉は私たちが主語ではなく、どこまでもキリストが主語であることかわかる のです。私たちは自分をも他者をも「罪」から救う力を微塵も持ちません。ただキリストのみが、私たちの ために呪いの十字架に死んで下さったことにより、私たちは新しい神の生命・限りない祝福の生命に生かさ れるのです。そのキリストの御功を「誇り」(限りない喜び)とせずして、いったい何を誇るのかとパウロは 問うのです。そしてその喜びの内容は、私たちの「この罪のからだが(キリストの十字架にあずかって)滅 び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがない」ことなのです。魂の荒野を彷徨っていた私たちが、 まことの牧者であられるキリストのもとに立ち帰って、キリストに結ばれて生きる喜びです。  そこで第3番目の事柄を顧みねばなりません。すなわち今朝のガラテヤ書6章14節において使徒パウロ は「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのであ る」と語りました。もちろんパウロはこの世の生活を軽んじてはいません。いわゆる「厭離穢土・欣求浄土」 は福音の内容ではありえないのです。この世における生活、肉体における生活もまた、神から賜わったかけ がえのない恵みです。私たちはこの地上での生活を通してのみ、はじめて永遠の祝福(神の国の民の幸い) をえる者とされるからです。キリスト者の生活はいかなる意味においても世捨て人の生活ではありえません。 主イエスがこの世界と歴史を救われるために肉体をもって世に来られ、この世を限りなく愛して下さったよ うに、主イエスを信じる私たちもまた、この世に対して責任を持ち、この世を愛し、それぞれの生活を通し て神と人に仕える者とされているのです。  ですからパウロがここに「この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまった」と語 るのは、自分は何をおいても、まず福音のみをこの世に対して宣べ伝えるのだ、全ての人にキリストの御業 と限りない愛と祝福を宣べ伝えずにはやまないのだ、ということです。第一コリント書9章16節にパウロ はこう語っています「わたしのこの誇は、何者も奪い去られてはならないのだ。わたしが福音を宣べ伝えて も、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝え ないなら、わたしはわざわいである」。これは矛盾している言葉のようですが、そうではありません。パウロ がガラテヤの人々に語る「誇り」とは、ここでコリントの人々に語るのと同じ、キリストに贖われ、その十 字架の死にあずかる者とされ、それゆえに復活の生命に生きる者とされている「誇り」だからです。少しも 自分を誇るものではない。自分を誇り(頼み)とするとき、私たちは本当の生命を生きてはいません。喜び はそこにはないのです。    そうではなく、パウロはガラテヤ書2章20節に「生きているのは、もはや、わたしではない。キリスト が、わたしのうちに生きておられるのである」と語りました。それほどまでに確かなキリストの贖いの恵み の豊かさに、いま私たちは共に生きる者とされている、この事実こそ大切なのです。それをこそパウロは「誇 り」としている。限りない喜びとしている。その恵みをガラテヤの人々と共有する幸いを知るゆえに、パウ ロは「わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしはそうせずにはおれないか らである」と語っているのです。  だからこそ「もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである」とまでパウロは言いました。この 「わざわいである」とは「不幸である」という意味です。誇るべきもの、私たちの罪を贖う祝福の力は、ただ 私たちを限りなく愛し、私たちのために十字架にかかられ、私たちをあるがままに、無限の慈しみをもって、 ご自分の全てを犠牲(あがない)として献げ尽くして下さったキリストの十字架にあるのです。それを一意 専心宣べ伝えることが、ただキリストの御業を「誇る」ことです。キリストのみを「誇る」ことです。キリ ストを「誇る」とは、宣教のわざに仕え、主の教会に仕え、主が愛したもう教会を「誇る」ことです。  それならば、その「誇り」に生きるとは、世々の聖徒らと共に聖なる公同の使徒的なる教会の信仰に生きる ことと一つなのです。主が永遠に臨在しておられる、主がこの地上において、天におけるように確かに、私 たちと変わらず共にいて下さる、その堅き徴である主の御身体なる教会に、私たちはしっかりと結ばれ、キ リストがこの世界のために、まさに「この世」のためになして下さった全ての救いの御業を信じ告白する者と して、神の御前に、全世界に対する主の救いの恵みを誇りつつ、喜びつつ、感謝をもって生きる者とされて いるのです。