説    教     ヨブ記19章23〜27節   ガラテヤ書6章11〜16節

「大いなる文字にて」

  ガラテヤ書講解(45) 2013・10・20(説教13421506)  使徒パウロはガラテヤ書6章11節以下、いよいよ手紙の終盤にさしかかるにあたり、急に筆を速めてい る印象を私たちは受けます。パウロにしてみれば、愛するガラテヤ教会の人々に、まだまだ書き足りないこ と、伝えたいことがたくさんあったにちがいありません。それを急いで、なるべく多く、ここに書き記そう としている、キリストの使徒の祈りの息遣いが聞こえてくるかのようです。  実際にパウロはこのガラテヤ書を獄中において書きました。できるなら実際にガラテヤ教会の説教壇から、 説教の言葉を通して語りたかったに違いないのです。ゆっくり手紙を書いている時間的な余裕はパウロには ありませんでした。明日にも処刑されるかもしれない境遇にあってパウロは、ただひたすらにキリストにあ る福音の喜び、救いの確かさ、そして教会の歩むべき道筋を、ガラテヤの人々に宣べ伝え続けているのです。 キリストに贖われ、結ばれた者の喜びと幸い、平安と祝福を、全力を尽くして語り続けずにはおれなかった のです。  そこで、まず私たちの心に飛びこんで来る御言葉は11節の「ごらんなさい、わたし自身いま筆をとって、 こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを」という御言葉です。この「ごらんなさい」とは「ど うか私と同じ思いを抱いてほしい」というパウロの願いです。何に対してでしょうか?。神の言葉(福音の 真理)に対してです。パウロは人間としてこのガラテヤ書を書きました。しかしパウロにこの手紙を書かし めているものは聖霊なる神の御力です。主なる神ご自身が聖霊によって使徒パウロを用いられ、ご自身の御 言葉と御業を世に宣べ伝えさせておられる。どうして恐なしに(主なる神への讃美告白なしに)これを聴く ことができるでしょうか。  それならば、この11節に「わたし自身いま筆をとって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いている ことを」とパウロが申しますのも、ここに集う私たち一人びとりに対して神ご自身が語っておられる言葉と して聴かざるをえないのです。主なる神みずから「かくも大いなる文字にて」力をこめて私たちに語ってお られる事柄(福音の真理)なのです。それはこのガラテヤ書が今まで語り続けてきたことの全体を改めて思 い起こさせるものです。それは使徒パウロを通して伝えられた“十字架の主イエス・キリストの福音のみ” に「救いあり」という明確な音信です。あなたがたは十字架の主の福音以外の「異なった教え」に惑わされ てはならないという戒めです。  そこで私たちは、改めて「偽教師」と呼ばれる人々がどのような人たちであったか、もう一度よく考えて みる必要があります。「偽教師」たちは、ユダヤの教会、おそらくエルサレムの教会から遣わされた、“福音 的律法主義者”とも言うべき一派の人たちであり、相当の権力を持っていたグループであったと思われます。 彼らはユダヤ人でありながら、キリストを信じキリストを伝道するという点においては、使徒パウロと同じ でした。しかし彼ら(偽教師たち)は、ユダヤ人としてのこれまでの伝統を守ること、特に「割礼」という 儀式を洗礼以上に重んずることを“救いの条件”とすることにおいて、パウロが宣べ伝えた“キリストのみ” の信仰とは全く「異なる教え」を宣べ伝えていたのです。まず「割礼」を受けてユダヤ人になってから「洗礼」 を受けるのでなければ、その洗礼は無効であると主張したのです。それは、人間はただキリストによっての み救われる(キリストを信ずる信仰によって、全ての人が神の子とされる)という福音の本質を歪めること です。もはやそれは「福音」とは呼べず、人を(世界と歴史とを)救う力はそこにはないのです。  そこで「偽教師」たちの「割礼」に対する異常なこだわりはどこから来ているのでしょうか?。たしかに、 当時のガラテヤ教会の中には大勢のユダヤ人がいました。この人たちはもともと律法主義の伝統の中で育て られた人々ですから、福音よりも律法のほうが大事だと聞けば「ああそうか」と簡単に納得してしまう下地 はありました。「救いはキリストの福音のみにあり」とする使徒パウロの教えに疑問を抱く人々も少なからず いたのです。そこにエルサレムからお墨付きを貰った「偽教師たち」が入りこんできた。それまで自分たち が漠然と感じていた疑問をはっきり言葉にしてもらえた。そこに“割礼賛成派”の人々は勢いづいて、ガラ テヤ教会は“割礼賛成派”と“割礼反対派”とが分裂し反目する様相を呈するに至ったのです。  そこで、もし私たちが当時のガラテヤ教会にいたのなら、どういう行動に出たのでしょうか。この“割礼 云々”の問題は私たち21世紀の日本人には無関係の過去の出来事にすぎないのでしょうか。決してそうで はありません。と申しますのは、使徒パウロは今朝の12節にはっきりとこう語っています。「いったい、肉 において見えを飾ろうとする者たちは、キリスト・イエスの十字架のゆえに、迫害を受けたくないばかりに、 あなたがたにしいて割礼を受けさせようとする」。  これは、どういうことでしょうか。「見えを飾る」とは、もともとの言葉では「良い顔をする」という意味で す。「顔」は私たちが社会に対して持つ自己表現の最たるものです。実は私たちは、自分の外観の中で「顔」 にいちばん気を遣うのではないか。自分が人にどのように見られ、どのように思われ、評価されているか、 実はその気遣いの中で私たちの「顔」が取り繕われるのではないか。だからパウロの言う「肉において見え を飾ろうとする」とは、同じユダヤ人どうしで「割礼」を重んじる人々の目を恐れ、その人々から悪い評価 を受けることを恐れて、仲間外れにされることを避けんがために、みずから進んで「割礼」を受けようとする 人々がいたことを現すのです。  言い換えるなら、大切な信仰の問題(教会生活)の中で、神の御顔ではなく、人の顔を恐れて行動する人々 が大勢いたのです。さらに言うなら、神の御顔などはどうでも良かった。人に対して「良い顔」ができさえ すれば、つまり自分が人から高く評価されさえすれば、それで良いのだ(それで十分なのだ)と思う人々が いたのです。それが「肉において見えを飾ろうとする」ことです。そうすると、その生きかたは今日の私た ちと決して無関係ではありません。むしろ私たち「恥の分化」に生きる日本人こそ、2000年前のガラテヤ教 会の人々以上に「肉において見えを飾ろうとしている」のではないか。神の御顔ではなく、世間における人 の「顔」を気にするあまり、いつのまにか信仰の姿勢も保守的になり、十字架の主のみを仰いで生きる勇気 と気概とに欠けた者となり、精神的な「隠れキリシタン」になってはいないでしょうか。  その結果、私たちは社会の中で、人々の中で、自分の信仰を明らかにする(旗幟鮮明にする)ことができ ず、忸怩として顔を伏せ、なるべく信仰を目立たなくしようとしているのではないか。キリストを恥じてい るのです。自分が「キリストと一体とされている」ことを恥ずかしく思っているのです。主が私たちを測り 知れない罪もろとも背負って下さり、十字架にかかって死んで下さった恩義を忘れ、自己保身に汲々として いるのです。正しい信仰のために戦うことができずにいるのです。自分の上に不利益や危害が及ぶことを恐 れ、キリストの御名を掲げることを拒むのです。世間体を気にするあまり、いつのまにか私たちの「顔」は、 キリストを凝視するのではなく、人の顔色を伺うものになってはいないでしょうか。それこそが「肉において 見えを飾ろうとすること」なのです。  これに対して使徒パウロは、彼が宣べ伝えた福音、ガラテヤ教会が信じた最初の福音の喜びを「キリスト・ イエスの十字架(の福音)」とはっきり語っています。今朝の14節です。「しかし、わたし自身には、わた したちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない」。13節に示され ているように「割礼のあるもの自身が律法を守らず、ただ、あなたがたの肉について誇りたいために、割礼 を受けさせようとしている」という現実さえありました。このことを巡って使徒パウロは、先輩の使徒ペテ ロのガラテヤ教会に対する対応を激しく非難しているほどです。なによりもこれは私たち自身の罪の姿なの です。私たちはこのことについて「かくも大いなる文字にて」改めて書き示され、教えられなければならな いのです。信仰の姿勢を正されねばならないのです。  使徒パウロが、大きな文字でこの手紙を書いている、ということについて、私たちは二つのことに注目せ ねばなりません。ひとつは、パウロはおそらく、眼の病に苦しんでいたという事実です。そのことは、たと えば、同じこのガラテヤ書の4章15節に、「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでも、 わたしにくれたかったのだ」とあることからも容易に想像できます。ガラテヤ教会の人々は、数々の迫害に よって傷つき、満身創痍となり、眼病をはじめとする様々な病に冒され、いわば醜くなった使徒パウロを、 あたかも「神の使いかキリスト・イエス(ご自身)でもあるかのように、迎えてくれた」(4章14節)ので す。  7年前の10月2日に闘病生活のすえ天に召された岡田啓子姉妹のことを思い起こすのです。姉妹は長い入 院生活の間、同じ病室の隣のベッドにいた若い女性を、聖書の御言葉をもって励まし、慰め、力づけ続けた のでした。病状としてはご自分のほうが遥かに状態は悪かった、にもかかわらず、この女性が悲嘆に暮れて いるのを見て、岡田さんは聖書の御言葉を語り続けた。しかも、ご自分が心から信じ、生かされている御言 葉として語り続けたのです。その結果、その女性は病気に立ち向かう勇気と意思を持つようになり、やがて 病癒えて退院して行かれたのでした。このこともまた「かくも大いなる文字にて」キリストを証したことで はないでしょうか。私たちもまたいま十字架のキリストのみを仰ぐ者として、ここに立てられ、遣わされて いるのではないでしょうか。  最後に一つのことを心に留めたいと思います。当時のパウロの手紙は、自分の手で文字を書いたのではな く、書記に口述筆記させたものでした。ですからパウロがガラテヤ書を、自分自身が「手ずから」書き記し たと語るのは珍しいことです。これはひとつには当時の手紙の事情にもよります。当時はまだ紙や筆記用具 はなく、ご存じのかたもあると思いますが、パピルスというカヤツリグサ科の水草の皮を縦横に編んで乾燥 させたものを紙の代わりとしていました。それに葦の棒を削ったペンで文字を書き、それを幾重にも折り畳 んで封印したのです。それには熟練した技術が必要でした。だから手紙を書く専門の書記がいたのです。パ ウロは獄中でガラテヤ書を書いていますから、書記がいなかったとも考えられますが、むしろパウロは、ど うしても自分の手でこの手紙を書かずにはおれなかったのではないでしょうか。  それでパウロは、いまガラテヤ教会の人々に「ごらんなさい、わたし自身いま筆をとって、こんなに大き い字で、あなたがたに書いていることを」と語っているのです。「大きな字」は格好良くありません。パウロ は説教も、いわゆる雄弁ではなかったようです。しかし、たとえどんなに格好悪い字であっても、どんなに 雄弁ではなくても、そこに宣べ伝えられたキリストの福音の真理のみが、キリストの御業のみが、人を、世 界を、唯一まことの「救い」へと導くのです。その喜びの務めに神によって召されている幸いを知るゆえに、 いまパウロはここに、限りない喜びをもって、胸を張って語るのです。「ごらんなさい、わたし自身いま筆を とって、こんなに大きい字で、あなたがたに書いていることを」と。そしてパウロが宣べ伝えたその福音は、 ガラテヤの人々を再び十字架の主なる贖い主、イエス・キリストの福音の確かさへと立ち帰らせたのでした。 多くの戦いがありましたが、十字架の福音のみが勝利し、全ての人を救う神の音信(おとずれ)であること が鮮やかに示された出来事を、ガラテヤの人々は経験したのです。  今朝、併せて拝読したヨブ記19章23節以下においても、ヨブはキリストによる罪の贖いのみが世界を新 たにすることを知り、それを「岩に刻んででも書き留めてほしい」と語っています。私たちはこの言葉(キ リストの御業)によって生きるのです。真の自由と幸いはそこにあるのです。かつて1932年カール・バル トはヒトラーから、ボン大学における神学の講義を禁じられました。理由は、バルトの講義がまるで教会の 説教のようだからというものでした。大学の講壇から神の言葉のみが宣べ伝えられ、キリストの教会に仕え る真の神学が語られていた。バルトはこう語っています「私が講義をする場所はどこでも、たとえ教壇から であろうとも、国立大学の教室であろうとも、そこは教会となるのだ」と。バルトはキリストに全世界の救 いがあることを知るゆえに「かくも大いなる文字にて」キリストを語り続けたのです。  それは同時に、今日の私たち自身の経験でもあるのではないでしょうか。私たちもまたここに、人の顔を ではなく、ただ主なる神の御顔のみを仰ぎ、崇め、聖となして、キリストにのみいっさいの栄光と讃美と感 謝とを献げ、それゆえにこそ、全ての人に永遠の祝福と平和を宣べ伝える使徒としての務めを、教会の中で、 教会を通して、教会に結ばれて、キリストと一体とならせて戴いて、豊かに戴いているのです。このことを 感謝と讃美をもって覚えつつ、新しい一週間の日々へと遣わされて参りたいと思います。