説    教     詩篇27篇4節   ガラテヤ書6章6〜10節

「倦み疲れからの決別」

 ガラテヤ書講解(44) 2013・10・13(説教13411505)  ガラテヤ教会の人々は、主イエス・キリストの福音の喜びから離れてしまった結果、その信仰の生活 もまた、喜びの生命を失ったものになりました。ですから使徒パウロは、愛するガラテヤの人々に対し て、この「ガラテヤ人への手紙」の全体を通じて「キリストの贖いの恵みに立ち帰りなさい」(正しい福音 の喜びに立ち帰りなさい)と強く勧めているのです。贖い主なるキリストから離れるとき(教会生活か ら離れるとき)私たちの生活はすぐ、土台を失った家のようなものになってしまうからです。人生の「目 標」を見失ったものになってしまうのです。  ガラテヤの人々の、主にある正しい福音の喜びという「土台」(教会生活)を失った弱さは、すぐに実 生活のさまざまな場面に現れました。今朝の御言葉であるガラテヤ書6章9節以下にパウロは「わたし たちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない」と勧めています。このことはガラテヤの人々が「善 を行うことに、うみ疲れて」いた事実を示しています。ここで「うみ疲れる」と訳された元々のキリシ ヤ語は「勇気を失う・意気阻喪する・投げやりになる」という意味の言葉です。「善を行うこと」は人間 として正しいことでしょう。しかしそれが「投げやりになる」というのは、その目標を見失ってしまうか らです。自分が何のために「善を行っている」のか、また「行うべきなのか」さらに言うなら「自分が 何のために生きているのか」それがわからなくなってしまうことです。  私たちにも、同じことがあるのではないでしょうか。私たちがいつ、どこで、どのような場面に生き るにせよ、一所懸命に努力して、しかもその努力が報われなかったとき、期待していた結果が得られな かったとき、または人から評価されず、かえって批判されたり貶されたりしたとき、私たちはそこで勇 気を失い、落胆失望して、まさにガラテヤの人々のように「善を行うことに、うみ疲れて」しまうので はないでしょうか。それこそ「意気阻喪」し「投げやり」になってしまうのではないか。高いところから落 ちるほど怪我も大きいのと同じように、私たちが行う「善」が理想的な美しいものであればあるほど、 私たちには「うみ疲れる」危険、挫折する恐れもまた大きいと言わねばなりません。  さて、ガラテヤの人々は、十字架のキリストの福音の喜びから離れて、旧い律法主義の道徳に戻って いったその結果、実生活の上でも「善を行うことに、うみ疲れ」ることになってしまいました。それは そのまま、私たちの姿でもあるのではないか。私たちもまた知らず知らずのうちに、自分を高い目標(律 法)へと追いやり、叱咤激励していることがあるからです。「善」が観念的な理想論になり、それができ ない自分に絶望してしまう危険です。努力目標を掲げることは良いことですが、そのハードルが高すぎ る場合、そこには虚しさと自己嫌悪だけが残ります。私たちもまた自分という名の「律法」に縛られて しまうのです。そこから「善を行う」ことに「倦み疲れ」を生じるのです。「勇気を失い、意気阻喪し、 投げやりに」なってしまうのです。  まさにそのような私たちに、今朝のガラテヤ書5章9節以下は「たゆまないでいなさい」と勧めてい ます。「たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対し ても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」。普通に読めば、さして気にも留めないよう な御言葉かもしれません。しかし、ここにはとても大切なこと、主イエス・キリストに結ばれ贖われた 私たちの、新しい生活の幸いと喜びが宣べ伝えられています。ガラテヤ書の全体がそうですが、ここで も“主語”は私たちではなく、十字架の主なるイエス・キリストご自身です。大切なことは、私たちが いま「いかにあるか」ではありません。主イエス・キリストが、私たちのために「なにをなして下さっ たか」が大切な唯一のことなのです。  私たちのためになされた主の御業こそ、世界を救う福音の内容なのです。それはなによりも「善を行う」 という、人間の生活の最も大切な面に現われる恵みであり幸いです。先ほど私たちが「善を行うことに、 うみ疲れ」るのは、それは私たちが「善」を自分という名の「律法」に置き換えてしまうからだと申しま した。いわば“あるべき自分”と“現実の自分”との埋まらぬ溝(ギャップ)に私たちは「うみ疲れ」 てしまうのです。自分に絶望し他者をも審く結果になってしまうのです。  しかし、私たちの人生の土台が「あるべき自分」という「律法」ではなく「私たちのために救いの御業を 成し遂げて下さった主イエス・キリスト」という「福音」にあることを知るとき、私たちの生きかたは 180度変わるのです。「あるべき自分」が私たちの人生を作るのではなく「主が私たちのためになして下 さった救いの御業」こそが私たちの人生を作る祝福の生命なのだと知るとき、私たちはそこで本当に自 由な者とされてゆくのです。健やかで軽やかな「主の僕」として「たゆまないで」「善を行う」者とされて ゆくのです。  だから、ガラテヤ教会の人々がこの手紙を受け取ったとき、今朝のこの5章10節の「だから、機会 のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」という勧めの言 葉に、人々は心底から驚き、魂を揺さぶられたに違いありません。なぜなら「善を行うこと」に対して 「うみ疲れ」絶望している人々ばかりだったからです。その私たち一人びとりに、主は使徒パウロを通 して「たゆまずに(善を)行いなさい」と勧めている。「たゆまずに善を行うならば、収穫の主が、かな らず喜びの収穫の時を与えて下さるのだ」と教えているのです。この「たゆまずに」とは「主みずから あなたのために御業をなしておられる」という意味です。言い換えるなら「たゆまないで」おられるか たは主ご自身なのです。私たちが「たゆみ、意気阻喪し、うみ疲れ」ることがあっても、主は「たゆむ ことなく、私たちのため、そして世界のために、救いの御業をなしておられる」。その御業に、あなたも、 あなたも、共に仕える者とされているではないか。神の同労者とならせて戴いているではないか。その ようにパウロは語るのです。  キリストが主語であるなら、私たちは、もはや「善を行うことに、うみ疲れる」必要はないのです。 キリストが私たちと共にいて下さる。キリストが私たちの測り知れぬ罪を十字架において贖い取って下 さったからです。「善を行う」ことにおいてさえ「倦み疲れ」という「罪」をおかす私たちのその「罪」 を、キリストが十字架に贖い取って下さったからです。十字架の主なるキリストを信じて、主の御身体 なる教会に結ばれ、まことの礼拝者として生きるとき、私たちは「収穫の主」は神ご自身であることを 知るのです。もはや自分の力(律法)ではないのです。私たちはどんなに弱くても、そのあるがままで 良いのだと、十字架の主は招いていて下さる。私たちはみずから人生の重荷を神に委ねるべきです。そ うすれば、私たちはそのあるがままに、キリストの愛と祝福を世に現わす器として、神が豊かに用いて 下さるのです。  「善」に対して私たち現代人は小賢しい考えを抱いています。「なにが善であり、なにが悪であるか」 という基準が人間の側にあって、はじめて「善」が成り立つのだと考えているのです。それは一見合理 的なように見えて、実は出口のない迷路と同じです。ヴィトゲンシュタインというオーストリア生まれ のイギリスの哲学者がいます。私はこの人の著作が好きでよく読むのですが、キリスト教の本質につい ても根本的に深く思索した人です。その中でヴィトゲンシュタインはこういうことを言っています。我々 は「善」のパラダイムを根本的に変えなければならない。人間が「何が全であるか」を定めるのではな く、神がそれを「善である」と定めたもうがゆえにこそ、それは「善」なのである。この点を間違うと き、世界は果てしのない矛盾を抱えることになるのだと言うのです。  そこでこそ、今日の御言葉は私たちにはっきりと告げています。10節です「だから、機会のあるごと に、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」。この御言葉で、私たちはあ るいは不思議に思うかもしれない。それは「(信仰の)仲間うちだけで善を行いなさい」と勧められてい るような思いを抱くからです。もちろんそういうことではありません。まさにいまのヴィトゲンシュタ インの言葉と併せて読むなら、その意味がよくわかります。私たちは「律法」によって生きるのではな いのです。それは言い換えるなら、私たちは自分の中に、自分の救いというものを持たない。自分の中 に「善」を持つのではないのです。もしそうなら、私たちは自分の中には「善」を行う「意思」だけが あって、それを行なう「力」がないことを嘆くしかありません。  そうではなくて、私たちはいま、キリストに贖われた者として、ここに生かされているのです。神の 同労者として、世の旅路へと遣わされ、限りない祝福を受けているのです。それは、キリストが私たち の測り知れない「罪」を贖い取って下さったからです。キリストの十字架によって、はじめて「善」は生 きた私たちの「力」となるのです。私たちの救いはキリストの御業の中に、キリストご自身にあるのです。 もっと言うなら、この世界の中に救いがあるのではなく、この世界が本当の救いを必要としているので す。その本当の救いは、この世界を創造され、この世界を限りなく愛され、御子イエス・キリストを賜 わった、主なる神の御業にあるのです。それこそが「善」の根源なのです。この主イエス・キリストの 父なる神なくしては「善」は単なる「律法」であり観念にすぎません。  私たちは、いまや律法や観念に生きる者ではなく、キリストを信じキリストに結ばれて、どのような 時にも、全ての人に対して「善」を行うことができる「神の僕」とされているのです。キリストによる 救いと祝福とを、全ての人に、言葉と、生活と、態度をもって証しできる器とされているのです。それ は何よりも教会の交わり「聖徒の交わり」の中で養われ強められてゆきます。私たちが教会の中で、同 じ「信仰の仲間たち」に対して「善を行う」(キリストによる救いの喜びを言いあらわし、祝福を受け渡し てゆく僕となる)ならば、その交わりは教会の中だけに留まりません。それはかならず、教会の外に、 社会全体へと広まってゆくのです。ですから「とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか」と あるのは、教会の中で真の礼拝者としていよいよ強められ、御言葉に堅く立つ者となり、キリストに贖 われた喜びの生活をしようではないか、という勧めなのです。  そのとき、教会(そこにおける私たちの信仰の交わり)はますます、この社会全体において、キリス トによる救いと限りない祝福を全ての人々に物語る器とされてゆくのです。私たち一人びとりが、その かけがえのない神の僕とされています。そして主は約束して下さるのです。「たゆまないでいると、時が 来れば刈り取るようになる」と!。キリストは私たちのいっさいの罪を贖って下さった。そしてこの世 界を限りなく愛され、御心が天になるごとく、地にも行われているのです。どうか主が、私たち全ての 者に、たゆまずに善を行うことへの勇気と落着き、そして希望と慰めを、いつも、永遠までも、与えて 下さいますように。