説    教     詩篇112篇7〜9節   ガラテヤ書6章6〜10節

「聖徒の交わり」

 ガラテヤ書講解(43) 2013・10・06(説教13401504)  今朝のガラテヤ書6章6節以下の御言葉は、聴く私たちをして襟を正さしめるものです。「御言葉を 教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。まちがってはいけない、神は侮ら れるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく 者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」。ここに使徒パ ウロは、愛するガラテヤ教会の人々に「御言葉を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分 け合いなさい」と勧めています。この「すべて良いもの」とは「神から賜わった恵み(祝福)の賜物の 全体」をあらわし「分け合いなさい」とは「(その恵みを)主から受け共有する群れになりなさい」とい う勧めです。  すでに私たちは6章2節において「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリスト の律法を全うするであろう」との御言葉を聴きました。そこでもし2節を教会員(信者)同士の横の関 係、つまり織物(布)に喩えるなら「横糸」の繋がりだと言うならば、今朝の6節の御言葉は「縦糸」 に喩えることができるでしょう。布は横糸だけで織ることはできません。横糸に縦糸が編みこまれて、 はじめて丈夫な布になるのです。それと同じように、教会の交わり(聖徒の交わり)において、いちば ん大切なものは、神の御言葉である福音に堅く根ざして生きる「信仰の交わり」(キリストの復活の生命 に教会によって結ばれた新しい生活)です。教会員相互の横の繋がりは御言葉(キリストの恵みの出来 事)という縦糸に支えられてはじめて神の祝福を現わす「地の塩、世の光」とされてゆくのです。その ことを使徒パウロはここに強調しつつ、ガラテヤの人々に「御言葉を教えてもらう人は、教える人と、 すべて良いものを分け合いなさい」と勧めているのです。  さて、この勧めが“強調されていた”ということは裏返すなら、ガラテヤの諸教会にはまさにこの“縦 糸”が欠けていた事実を示しているのです。“御言葉を聴いて生きるキリスト中心の信仰生活”という縦 糸がガラテヤの教会には欠けていた。教会生活の基本であるキリストとの交わり(聖徒の交わり)が弱 かったのです。だからこそパウロは、ここで語調を改めるように「御言葉を教えてもらう人」と「教え る人」との関係を敢えて明らかにしています。それは単なる人間同士の儀礼関係(教師と生徒の関係) ではないからです。主がお建てになった主の教会の、御言葉に基く恵みによる信頼関係です。それを基 軸としてパウロは、たとえばエペソ書4章11節以下に、主なる神はある人を「使徒」とし、ある人を 「預言者」とし、ある人を「伝道者」とし、ある人を「牧師」また「教師」としてお立てになったと語 ります。それは「聖徒たちをととのえて、奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせる」(エペソ 4:12)ためです。キリストの主権のみを現す真の教会が建てられるためです。  教会はキリストの恵みの主権のみを世に現す群れですから、「教える人」(それこそエペソ書4章11 節の語る「使徒、預言者、伝道者、牧師、教師」)は、みずからの才能や熱心や決意で「教える人」に「な る」のではありません。そうではなく「われ汝を選び、御言葉の役者に立てたり」との神の召命を受け、 聖霊の賜物を与えられ、神によって選ばれた人のみが「教える人」として立ちうるのです。ひとりの人 が主を信じて洗礼を受け教会に連なることが神の特別な選びであるように、ならばそれ以上に「教える 人」になることは、さらに厳しい「選び」だと申さねばなりません。  年々、神学校に入る献身者の数が減っているそうです。私たちが覚えて献金をささげている東京神学 大学は日本で最古かつ最少の大学ですが、文部科学省が定めている学部の学生数を確保することが難し くなっています。学部の定員はわずか25名。それをも満たせない現実がある。そうかと言って誰でも 入学を許されるわけではありません。25名の定員に対して合格者5名ということもあるのです。学部定 員が減少すれば文部科学省からの助成金が削除されるかもしれない。しかし献身して神学校に入るとい うことは、いつの時代にも「狭き門」であるし、あるべきなのではないでしょうか。神学校の使命は文 部科学省の政策に沿うことではなく、御言葉に忠実な真のキリストの仕え人、御言葉の真の伝道者、教 会の牧会者を生み出すために神学校は存在するのです。私たちの信仰生活においても、同じことが言え るのではないでしょうか。  「(御言葉を)教える人」は「日々おのれを捨て、おのれの十字架を負って、主にのみ従う」ことを求 められます。パウロは続くガラテヤ書6章14節にも「わたし自身には、主イエス・キリストの十字架 以外に、誇りとするものは断じてあってはならない」と語っています。まさにそういう献身者として、 神に選ばれ召し出された者こそが「(御言葉を)教える人」なのです。すなわち「(御言葉を)教える人」 とは「キリストによって、キリストと共に、この世に対して死んだ」者です。この世の与える富、この 世の成功、財産、名声、営利栄達、その他、この世が尊び喜びとするものを捨て、ただキリストの御業 に仕える者とされたのです。ひたすらキリストの十字架の福音を誇りとし、全世界の救いである十字架 の主の福音を、全ての人々に対する真の救いと自由と平和の音信として宣べ伝えるために召されたので す。  鎌倉時代に道元という偉い禅のお坊さんがいました。曹洞宗の開祖ですね。この道元禅師のもとにあ る人がやって来てこういうことを言った。「禅師さまのような立派なお坊さんにはお布施をしたいと思 いますが、うちの寺の坊主などにお布施はしたくありません」。それを聞いて道元禅師はその人を厳しく 叱ったと言うのです。「僧は僧のゆえに尊ぶべし。偏り見るべきにあらず」。この一人の禅僧の言葉は、 キリストの恵みに生かされた私たちにおいてなおさらではないでしょうか。「教えられる人は、教える人 と、すべてのよきものを分かち合いなさい」。これを道元禅師流に言い換えるなら「主の教会は主の教会 なるがゆえに尊ぶべし。偏り見るべきにあらず」なのです。私たちは主の御業のために奉仕し、献げ、 仕える僕としてここに召されているのです。この御言葉に具体的に従うとき、私たちはキリストに連な る喜びと感謝を具体的に現すのです。そして主はそのような群れを必ず豊かに祝福し、私たちの思いを 遥かに超える大いなる救いの御業を、この葉山の地に現わして下さるのです。  そこでこそ教会が「聖徒の交わり」であることの意味がより明らかになります。「御言葉を教えてもら う人」と「教える人」がともに御言葉によって養われ、いまここにおけるキリストの救いの御業に仕え る群れへと、ともに成長してゆくことです。ですから「聖徒の交わり」を意味するコイノニアというギ リシヤ語の元々の意味は「聖なるかた(キリスト)にあずかる者たちの交わり」です。聖餐の交わりで す。そのような真の教会を、私たちはここに形成してゆく者たちとされているのです。そこに「御言葉 を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい」という勧めの恵みがあるのです。 神の御言葉に養われ、キリストの義に連なる者とされた私たちの変らぬ喜びと幸いがあるのです。  ローマ人書10章14節以下に、パウロはこのように語っています。「信じたことのない者を、どうし て呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。つかわされな くては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は』と 書いてあるとおりである」。私たち教会の宣べ伝える信仰、キリスト教の福音は、人間が黙想をし、ある いは学問を積み努力精進すれば「自然に神がわかってくる」というようなものではありません。そうで はなく福音は、神の側からの御子イエス・キリストによる私たちの世界に対する決定的な「呼びかけ」 であり、全ての人に対する救いの音信です。ですからそれを受け取った人が、その口をもって語り伝え ることによってのみ受けつがれ、拡められてゆくものです。そしてその使命は、人の願いや計画による のではなく、神によって選ばれ定められた者が聖霊によって語り伝えるのです。だからパウロは言うの です。教え伝えられないで、どうして神がわかるだろうか。教えられないで、どうして礼拝者となりえ ようか。教えられないで、どうして教会の枝として喜びと感謝をもって生きることができようか。  まさに、ガラテヤの人々は、この喜びと感謝において欠けていた。福音理解において疎かった。その 理由は「御言葉を教えてもらう人」が「(御言葉を)教える人」と「すべて良いものを分け合う」ことを しないことにあったのです。御言葉の説教を蔑にしていた。説教による養いを軽んじていたのです。そ の結果、教会の「主」であられるキリストが見えなくなってしまった。御言葉を喜びとしないとき、御 言葉に養われる群れであることをやめるとき、そこに残るものは人間相互の誼(よしみ)による横糸だ けの繋がりに過ぎません。それは簡単にばらけてしまうのです。「教える人」にとって、最も喜ばしく感 謝であり力づけられることは、御言葉を宣べ伝えた人々がまぎれもない「主の教会」として成長してゆ くことです。説教の言葉が神からの福音として正しく聴かれ、それを聴いた人々が神の民として生きる 喜びを共にし、神に対する感謝の献げものが教会の伝道のわざを支えてゆくことです。パウロはしばし ば教会の人々を「わたしの子供たち」と呼んでいますが、それは神の家族である教会の「聖徒の交わり」 の喜びと幸いを現しています。神の家族である私たちが祈りの中で育てられ、信仰を告白し、生涯にわ たってキリスト者の道を歩む、神の愛と祝福の内を歩む者とされてゆくこと、それを全てにまさって、 主なる神ご自身が最大の喜びとなして下さるのです。  終わりに、テモテ第二の手紙4章1節以下を拝読しましょう。「神のみまえと、生きている者と死ん だ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国を思い、おごそかに命じ る。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、 責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとし て、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方に それていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、 自分の務めを全うしなさい」。どうか主が、私たちをいっそう強め、豊かに導いて下さり、主にありて福 音に堅く立ち、揺るがぬ群れとなして下さいますように。