説    教     エレミヤ書23章33節   ガラテヤ書6章1〜5節

「互いに重荷を担う」

 ガラテヤ書講解(42) 2013・09・29(説教13391503)  ガラテヤ書の6章には、私たちキリスト者の生活について、とても具体的なパウロの勧めが記されてい ます。特に私たちは6章1節において「兄弟たちよ、もしある人が罪過に陥っていることがわかったなら、 霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も 誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」との勧めを受けました。当時のガラテヤ教会の中に、 具体的に「罪の誘惑」に陥っていた人たちがいました。今日も私たちはあらゆる人間関係において「罪の 誘惑」に陥る人間の現実に出遭うのです。そのとき私たちはどう対処すべきなのでしょうか。  そのとき、今朝のガラテヤ書6章2節は、まことに明解かつ豊かな慰めに満ちた福音の答えを私たちに 告げています。すなわち「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたは、キリストの律法を全 うするであろう」という言葉です。なによりもこの答えは、既に1節に告げられていた「柔和な心をもっ て」という言葉と深く関わっています。なによりも「柔和な心」とは、単に私たちの心の動きではなく、 十字架の主イエス・キリストの救いの御業に根差した私たちの、新しい信仰の生活をさしているからです。 それならば「柔和な心」とは、私たちが自らの生活を、主キリストの限りない愛と恵みの御手に委ねて生 きる幸いです。私たち自身を主なる神の御手に明け渡すことです。そのとき、私たちの思いと計画を遥か に超えた、神の慰めと平安が私たちに与えられるのです。それは、罪の誘惑に陥ってしまった兄弟姉妹た ちをも、再びキリストの御手の内に立ち帰らせる「癒し」の力となって働くのです。まさにその力が、私 たち「霊の人」(キリストを信ずる者)に豊かに与えられているではないかと使徒パウロは言うのです。  そこでこそ私たちは、改めて自らに深く問わざるをえません。私たちの聖書の読みかたの問題にも関わ ってきます。私たちは本当に今朝の御言葉のこの福音を、今のこの私どもへの具体的な生活の慰めの言葉 として聴いているか否か。しばしば私たちは聖書の御言葉の外に自分を置いていることはないでしょうか。 御言葉に対してお客さんになっていることはないでしょうか。もしそうだとしたら、私たちは今朝の御言 葉を改めて深く受け止めねばなりません。これはまさしく私たち一人びとりに告げられている「福音」だ からです。「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう」。 今ここに私たち一人びとりが、この御言葉の祝福のもとに招かれ、共に立たしめられていることを覚えた いのです。  現代は「重荷」を嫌う時代です。まして「互いに重荷を負う」生活など御免こうむりたいと、私たちの 誰もが思うのではないでしょうか。人生の幸不幸を測るひとつの尺度は、私たちにとって“できるだけ重 荷を負わない”ことなのではないでしょうか。重荷を負う人生は「不幸な人生」であり、重荷を負わない 人生こそ「幸いな人生である」という人生観・価値観・人間観を、私たちは頑なに持っているのではない でしょうか。そのような私たちの価値観から申しますなら、今朝のガラテヤ書6章2節はまさに「あらず もがな」の言葉です。「互に重荷を負い合いなさい」これは、自分の重荷だけではなく、他人の人生の重荷 をも「互に負い合いなさい」という勧めだからです。それなら「互いに重荷を負う」どころか「自分の重 荷さえ他人に丸投げしてしまいたい」というのが偽らざる本音である私たちに対して、今朝の御言葉はは っきりと語るのです。「互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うする であろう」。ここをきちんと聴き取りましょう。ここにはっきりと「そうすれば、あなたがたはキリストの 律法を全うする」と告げられていることを…。この「キリストの律法」という言葉はパウロの逆説的表現 です。肉の律法に対してキリストの律法と語っているのです。ガラテヤの人々はキリストの福音の喜びか ら離れて「律法主義」(自分自身を誇りとし頼みとする生活)に逆戻りしようとしていました。そのガラテ ヤの人々に、否、今朝ここに連なり「重荷の少ない人生」こそ幸いな人生であるという抜き難い幸福論に 凝り固まっている私たちに、使徒パウロは敢えて「キリストの律法」という言葉を投げかけているのです。  そこで、これは「キリストのくびき」とも訳すことができる言葉です。マタイによる福音書11章28節 以下の主イエスの御言葉です。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなた がたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わ たしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いや すく、わたしの荷は軽いからである」。ここに、なによりも主イエスみずから語っておられます「わたしは 柔和で心のへりくだった者であるから」と!。この「柔和」とは、私たちの測り知れない罪のために負わ れた主イエスの「十字架」をさしています。私たちのために主が十字架を負いたもうたこと自体が「柔和」 と呼ばれているのです。「心のへりくだった者」も同じです。この「へりくだり」とは全ての人の罪の贖い としてご自身の全てを献げ尽くして下さった主の測り知れない恵みをさしています。そうすると、今朝の ガラテヤ書において私たちに明確に示されている福音は、この十字架の主なるキリストの恵みに、私たち が今も後も永遠までもキリストに結ばれている“救いの恵み”そのものなのです。  先日、東海連合長老会牧師会の席上、私はある仲間の牧師先生から「先生はドイツ語がよくできますね」 と言われました。「よくできる」とは全く思っていませんが、ドイツ語が好きであることは確かです。英語 よりドイツ語の文章のほうが安心して読めます。その中でも私が好きなのはトーマス・マンという作家の 作品です。トーマス・マンが生涯を献げて書いた小説に「ヨセフとその兄弟」という作品があります。敬 虔なドイツ改革派教会の信仰に裏付けられた、慰めと希望に満ちた美しい長編小説です。この小説の中で トーマス・マンは、旧約聖書のヨセフ物語に基づいて、人間の罪による虚無と混乱のただ中にある世界の 慰めと回復と救いを描きました。実際にこの作品を読むと不思議な想いに満たされます。それは創世記の ヨセフ物語が、いつのまにかキリストのご生涯に重なってくる経験です。つまりトーマス・マンは旧約の ヨセフ物語を通して、世界の救いと回復がただキリストの十字架にのみあることを描いているのです。そ のときマンが大切に引用している御言葉のひとつが、今朝あわせて拝読した旧約聖書エレミヤ書23章33 節です。「この民のひとり、または預言者、または祭司があなたに、『主の重荷はなんですか』と問うなら ば、彼らに答えなさい、『あなたがその重荷です。そして主は、あなたがたを捨てると言っておられます』 と」。  これは、まことに厳しい御言葉です。マンは「ここにこそ私たち人間の罪の真相がある」と語っていま す。イスラエルの偽預言者たち、祭司たちは、エレミヤに「主の重荷とは何ぞや」と問います。それは律 法における当時のイスラエル最大の難問でした。彼らは「主の重荷」が人間の足枷となっているゆえに、 世界はこんなに混乱しているのだと考えたのです。それに対してエレミヤは明確に答えます。「あなたがそ の重荷です。そして主は、あなたがたを捨てると言っておられます」と。偽預言者や祭司たちは自分の外 側に「重荷」があると考えました。しかしエレミヤはそうではなく、まさに私たちのただ中にこそ「罪」 という名の「主の重荷」があり、主はその「重荷」のゆえに「わたしたちを捨てられる」と告げるのです。  主に捨てられること、神の民でなくなること、それこそ私たちの「罪」の当然の結果でなくして何でし ょうか。この現実を変えうる「救い」を私たちの世界は持ちえないのです。それこそマンが語るように、 まさに十字架の主イエス・キリストのみが、私たちの「罪」という最大の「主の重荷」をみずから担って 下さった。そして主に「捨てられる存在」でしかありえない私たちの存在を「罪」もろとも、ことごとく ご自身の身に負われ、十字架にかかって死んで下さったのです。言い換えるなら、この世界の「罪」の呪 いのいっさいを主はご自身に担い取って下さり、私たちのために“あがない”となって下さったのです。 それは同じガラテヤ書3章13節にこう記されているとおりです。「キリストは、わたしたちのためにのろ いとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に『木にかけられる者は、す べてのろわれる』と書いてある。それは、アフラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人 に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである」。  まさに「主の重荷」でしかなかった私たちの「罪」を、主は十字架において担い取って下さったのです。 「それなら」とパウロは申します。私たちは「互いの重荷を担い合うべきである」と。キリストにのみ私 たちの「重荷」を担わせて、私たちが他者の「重荷」を少しも担おうとしないのなら、それこそ神に対す る“恩知らず”になるでありましょう。キリストはご自身の全てを献げて私たちの「重荷」を担われ、私 たちに「神の民」の永遠の生命を与えて下さったのです。それこそ、私たちの人生における最も根本的な 「救い」なのです。この十字架の主が私たちに語られるのです。「わたしのくびきを負うて、わたしに学び なさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられる」と!。  キリストの真似をする、大胆なことです。畏れ多いことです。しかし主は「それで良いのだ」と言われ る。もし私たちがキリストの真似をするなら、下手でも良い、失敗しても良い、他者の「重荷」を共に担 う者となるならば、そのとき私たちは「キリストの律法を全うする」のです。だから、この「キリストの 律法を全うする」とは、私たちの測り知れぬ罪の重荷を主がすでに担い取って、私たちに復活の生命を与 えていて下さることを喜び感謝して生きる新しい生活をすることです。今すでに私たち一人びとりが、そ のような主の僕(神の子)の幸いに招かれているのです。そのとき、私たちは主の平安の内に立ち上がり、 主と共に生きる者とされてゆきます。そして主の御手から、限りない慰めと平安を戴いた私たちは、その 慰めをもって同じように「重荷」を負う兄弟姉妹たちのために、共にその「重荷」を担う者とならせて戴 いているのです。分派を作って対立していたガラテヤ教会の人々は、まさに今朝のこの御言葉によって「互 いに審き合う律法の僕」から「互いに重荷を負い合う主の僕」へと変えられてゆきました。やがてこのガ ラテヤ教会から“カパドキアの三神学者”(カイザリアのバシレイオス、ナジアンゾスのグレゴリウス、ニ ュッサのグレゴリウス=バシレイオスとナジアンゾスのグレゴリオスは年少の頃よりの友人、ニュッサの グレゴリウスはバシレイオスの弟)が育ってゆくのです。旧約のヨセフが自分を売った兄たちと和解し、 共に祝福を受け継ぐ者とされたように、歴史の唯一の主が、今朝のこの御言葉によって私たちと共にいて 下さるのです。  終わりに、ヨハネ伝13章34節、そして第二コリント1章3節の御言葉を心にとめましょう。「わたし は、新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あな たがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であるこ とを、すべての者が認めるであろう」。  「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神、あわれみ深き父、慰めに満ちたる神。 神は、いかなる患難の中にいる時でもわたしたちを慰めて下さり、また、わたしたち自身も、神に慰めて いただくその慰めをもって、あらゆる患難の中にある人々を慰めることができるようにして下さるのであ る。それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、 キリストによって満ちあふれているからである。…だから、あなたがたに対していだいているわたしたち の望みは、動くことがない。あなたがたが、わたしたちと共に苦難にあずかっているように、慰めにも共 にあずかっていることを知っているからである」。