説    教     民数記12章1〜8節   ガラテヤ書6章1〜5節

「柔和なること」

  ガラテヤ書講解(41) 2013・09・22(説教13381502)  ガラテヤ人への手紙は、たいへん厳しい手紙ですが、その厳しさは、主イエス・キリストの限りない 「愛」に生き、神の恵みに生かされ、支えられ、導かれる喜びを、力強く大胆に物語る厳しさです。そ れは、この手紙の5章6節に「キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。 尊いのは、愛によって働く信仰だけである」とあること、また5章14節に「律法の全体は、『自分を愛 するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きる」とあることによってもはっきりとわ かります。どこまでもキリストが中心です。キリストが私たちのため、そしてこの世界の救いのために なして下さった全ての御業を、あるがままに信じ受け入れて、教会に連なり、キリストの復活の生命に 結ばれて生きること、それが私たちの生活を形作る原動力です。キリストの限りない「愛」を語ること は、そのキリストの「愛」に生かされ、支えられ、新しくされた私たちの、キリストにある幸いと喜び を語ることなのです。  そこで使徒パウロは、この“キリストの愛に生きる幸いと喜び”が、いつも私たちの生活を支配して いるか?…と改めて今朝の6章1節以下において問うているのです。なによりもそれは、教会の中に、 あるいは教会の外に起こる、具体的な人間の“罪の問題”とそれへの対処の仕方に、はっきり現れるの だと言うのです。言い換えるなら、私たちはいつも、人間の罪の問題の本当の解決を、キリストにのみ、 福音にのみ、御言葉の中にのみ、見いだす者となっているだろうかということです。  かつては南太平洋のミクロネシアにひとつの小さな島があります。18世紀の半ば頃、この島に一人の ドイツ人宣教師がやって来て、島の人々にキリストの福音を伝え、貧しいけれども立派な教会を建てま した。それと同時にこの宣教師は、大変な苦労のすえこの島の言葉(現地の言葉)に聖書を翻訳し、島 の全ての人たちが聖書を読めるようにしたのです。この島には百年以上もの間、新聞も雑誌もテレビも ラジオもなく、ただ聖書だけが人々の生活の柱でした。人々は日々聖書に親しみ、祈りをなし、教会に 連なり、礼拝者として生き、主にある交わりを深めつつ、社会生活を営んだのであります。すると、そ の島に驚くべきことが起りました。その島はヨーロッパの人々によって「世界の奇跡」「再現されたエデ ンの園」「完全な人間社会」「天国を現した島」と呼ばれるようになったのです。本当に美しい、貧困も 差別も犯罪もない、完全な社会生活が成り立ったのです。嘘をついたり人を騙す者もなく、盗みも争い も、詐欺も殺人もない、美しく健やかな人間の社会がそこに現れたのです。むしろ近代化されたヨーロ ッパの人たちがその島に来て、自分たちの生活がいかに自己中心的であり醜いものであるか恥ずかしく なったと言うのです。  私たちは今朝の御言葉においてはっきり問われていると思います。私たちはいつも本当に、聖書の御 言葉に、キリストの恵みに、堅く結ばれた者としてここに生きているだろうか。御言葉に根差した生活 をしているかどうかです。それは生活を狭く限定したものにするのではなく、むしろその逆なのです。 あの島の人々にも、そこが人間の住む世界であるかぎり、いろいろな問題やしがらみがあったに違いな い。しかし彼らは聖書の御言葉に堅く拠り頼み、キリストに贖われた者であることを全てにまさる生活 の喜びとしました。そして御言葉に沈潜すればするほど、彼らの生活は驚くほど自由な、喜びと感謝に 満ちたものになったのです。神の言葉に堅く立ってこそ、私たちの生活は本当に自由なで健やかな、物 事の正しい判断ができるものになるのです。    今朝のガラテヤ書6章1節以下には、まことに具体的なひとつの問題が取り上げられています。「も しある人が罪過に陥っていることがわかったなら…」とあることです。当時のガラテヤの教会に事実と して、倫理的な人間関係の混乱があったことは、すでに私たちが読んできた5章19節以下にも示され ていました。「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争 い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいのことである」と あることです。教会の交わりの中で、あるいはその外側に、具体的に、罪の誘惑に陥っている人々がい たのです。  その人々に対して私たちはどのように接するべきか…。まことに大切なその問題を、パウロは正面か ら取り上げ、そこでこそ「柔和な心をもって」という言葉を語っています。これこそまことに具体的な 勧めの言葉です。すなわち6章1節「霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しな さい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」。ここで「霊 の人」というのは“キリストに贖われ、教会に結ばれた人”のことです。つまり「キリストの霊」であ る「聖霊」の導きと養いのもとに生きる私たちのことをさしています。キリストに結ばれて歩む者のこ とです。そのキリスト者にふさわしい心こそ「柔和な心」ではないかとパウロは語っているのです。  そこで、この「柔和な心」とはどういう意味でしょうか?。おそらく今日「柔和な心」と聴いて否定 的な印象を持つ人は一人もいないでしょう。しかしガラテヤ書が書かれた時代は違いました。「柔和な心」 と訳された元々のギリシヤ語は「僕の心」という意味の“タペイノプロシュネー”という言葉です。“タ ペイノス”とは「奴隷」という意味で“プロシュネー”とは「心」という意味です。だからこれは「奴 隷の心」とも訳すことができる。だからガラテヤの人々にとって、この言葉はかなり否定的な響きがあ りました。当時の社会において蔑まれていた言葉なのです。それをパウロはここで、私たち一人びとり に、あなたはその「柔和な心」に生きる者となりなさいと、力強く勧めているのです。なぜなら、あな たはこの世にありつつ、すでに「霊の人」とされているのだからと言うのです。キリストに結ばれた者 に相応しい「柔和なる心けに生きる者になりなさい、と言うのです。  そこで、この「柔和」という言葉で、おそらく私たちがすぐ思い起こす御言葉はマタイ伝5章5節、 主イエスの“山上の垂訓”の御言葉でしょう。「柔和な人たちは、さいわいである。彼らは地を受けつぐ であろう」。この「さいわいである」とは「他に比較できない、完全な祝福と幸い」という意味です。原 文ではこの言葉が先にきます。「幸いなるかな心の柔和なる者」です。大切なことは、この「柔和」とは 何よりも主イエスご自身の御心を現わしていることです。マタイ福音書11章28節以下にそのことがは っきり示されています。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがた を休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わた しに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いや すく、わたしの荷は軽いからである」。  主イエスはまさに「僕の心」を持った唯一のかたとして、否、僕そのものとして、私たちの救いのた めに、この世界のただ中に、そして歴史の中に(私たちの罪の現実のただ中に)来て下さったのです。 だから主はこのようにも言われました。マタイ伝20章25節以下。「そこで、イエスは彼らを呼び寄せ て言われた、『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、 その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたが たの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、 僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、ま た多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである』」。  ここで主が言われた「多くの人のあがないとして」とは「全ての人々の罪の贖いのため」という意味 です。私たちの罪は自分を「主」にしてしまうことですが、主イエスみずから、その私たちの罪を全て 担って十字架への道を歩んで下さった。それこそ「神の僕」としての完全な歩みを貫いて下さったので す。そのようにして、自由だ自由だと言いつつ実は罪の僕にすぎなかった私たちを「神の子」として回 復して下さったのです。ですから「柔和な心」とは、このキリストの御業の全体を現すのです。私たち “滅びの子”であった者のために、その私たちの存在をかき抱くようにして、父なる神の子である「さ いわい」へと回復して下さった、主イエスの十字架の出来事です。それが聖書において「柔和な心」と 呼ばれているのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。今朝のガラテヤ書6章1節にある「兄弟たちよ、もしあ る人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人 を正しなさい」とあるのは、その「罪過に陥った人」(罪の誘惑に陥ってしまった兄弟姉妹)たちのため に、彼らが再びキリストの贖いの恵みのもとに堅く立って生きる者になるように、福音の言葉をもって 「正しなさい」ということなのです。この「正しなさい」というのも、もともとのギリシヤ語では「主 に立ち帰るさいわい」という意味です。その幸い共有する交わりを、あなたの周囲に作る者でありなさ いと勧めているのです。  教会の中で、あるいは教会の外で、私たちはそれこそ、今朝の御言葉にあるように「罪過に陥った人」 を見たり、聴いたり、またはそうした人について噂を耳にすることがあるかもしれません。そのような 場合に私たちはどうしたら良いのか?。その見事な答えが今朝の御言葉に示されているのです。その正 反対は同じレベルに立って噂話をすることです。「他人の不幸は蜜の味」これがいちばんいけません。そ れは最も「柔和なる心」から遠いことです。人のスキャンダルにはすぐ飛びつくけれど、生命と祝福を 告げる福音の言葉に耳を傾けないなら、それこそ人間として本末転倒です。私たちの教会の交わりは「柔 和なる心」に満ちたものであらねばなりません。まさにそのような主の僕として生きる喜びと幸いが、 ガラテヤ書全体に満ち満ちているのです。  そして、パウロはこのようにも語っています。今朝の6章1節の後半です。「それと同時に、もしか 自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」。本当にそうではないでしょうか。人の 罪には敏感でも、自分の罪には驚くほど鈍感なのが私たちだからです。むしろ逆であらねばなりません。 私たちはいつも「もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省する」者であらねばなり ません。この「反省する」とは「御言葉の光のもとで自分と人生の全体を見る」という意味の言葉です。 繰り返して問われています。私たちはいつも御言葉に深く沈潜した生活をしているでしょうか。そこか ら本当の「主の僕」の自由の生活を、他の人々にも祝福と幸いを告げることのできる生活をしているで しょうか。  昨年天に召された三橋敏代姉妹を思い起こします。三橋姉妹の家での家庭集会(ナオミ会)は10年 以上も続きました。そこから何名もの姉妹たちが洗礼に導かれました。三橋さんはある意味で「頑固で 厳しい人」でした。ガラテヤ書のような雰囲気を持っていました。しかしそこに本当の「柔和なる心」 がありました。キリストに贖われていたからです。キリストを本当に信じ、教会に堅く連なっていたか らです。だからこそ姉妹に接する人々、またナオミ会に出席した人々は、みな「御言葉の光のもとで自 分と人生の全体を見る」幸いに生かされたのです。この世のあらゆる出来事に、それが悲しみや試練で あっても、健やかな主にある信仰をもって対処してゆくことができる、そのような「柔和なる心」へと、 私たち全ての者が主にありて生きる者とされているのです。そこに私たちの変わらぬ幸いと喜びがある ことを思います。