説    教     箴言30章7〜9節   ガラテヤ書5章25〜26節

「聖霊なる神の導き」

 ガラテヤ書講解(40) 2013・09・15(説教13371501)  主イエスが人々の病を癒しておられたとき、それを見ていた律法学者たちが「あれは悪霊の力によって 病気を追い出しているのだ」と非難しました。それに対して主イエスは「わたしが神の指によって悪霊を 追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来たのである」(ルカ伝11:20)とお答えに なり、いま私たちの世界のただ中に、神の恵みのご支配が確立していることをお示しになったのです。  私たち教会に連なるキリスト者の信仰生活は“聖霊による新しい生活”です。それゆえに“キリストの みを主とする生活”であると言えるでしょう。それは律法学者たちのように、単に“超自然的な霊の力” を認める生活などではなく、主イエス・キリストによってご自身を私たちに現わして下さり、この世界を 限りなく愛したもうて、救いの御業をなさっておられる真の神を「アバ、父よ」と呼ぶ「御子の霊」すな わち「聖霊」によって生きる新しい生活をすることです。  今朝ご一緒に拝読したガラテヤ書5章25節には「もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また 御霊によって進もうではないか」と、使徒パウロによる力強い勧めが語られています。私たちはこの御言 葉から、まず私たちには「御霊(聖霊)による新しい生活が与えられている」という恵みの事実を改めて 明確に知らされるのです。私たちは“キリストの霊”である「聖霊」の導きのもとに生きることにより、 はじめてキリストが私たちのため、また全世界の救いのためになして下さる御業の全て(言い換えればキ リストそのもの)を“この私のための救いの出来事”として信じ受け入れ告白する者とならせて戴けるの です。  そういたしますと、「聖霊」は実に大きな、ダイナミックな、素晴らしい救いの出来事をこの世界に(私 たちのただ中に)行っておられるかたである、ということがわかるのではないでしょうか。実はこの「ガ ラテヤ人への手紙」を皆さんと一緒に講解説教を通して読み続けて参りまして、今朝はその40回目にな るのですが、私はひとつとても不思議に感じることがあります。皆さんもまた同じ印象を抱かれるのでは ないでしょうか。とても単純なことです。どうしてこの「ガラテヤ人への手紙」をガラテヤ教会の人々は 捨てなかったのだろうか、という疑問です。新約聖書の中に残されたパウロの手紙は、たぶんパウロが書 いた手紙の半分ぐらい、あるいはそれ以下であろうと言われています。あとの手紙は全て失われてしまっ たのです。意図的に破り捨てられ、焼き捨てられた手紙もあったと思います。しかし、このガラテヤ教会 への手紙は残りました。ルターが「黄金の手紙」と呼んだように、新約聖書の中で最も大切な手紙のひと つになりました。それはなぜなのでしょうか。  この「ガラテヤ人への手紙」を読むとき、私たちの心に一様に迫る想いは「これはなんと厳しい手紙で あろうか」という想いです。ここにはガラテヤ教会に対する使徒パウロの、率直かつ大胆な、そして厳し すぎるとも思える数々の叱責が記されています。ガラテヤの人々にとっては「聴きたくない言葉」「読みた くない手紙」であったはずです。それが聖書の中に残されたという事実は、逆に申しますと、ガラテヤ教 会の人々がいかに真剣にこのガラテヤ書の言葉に耳を傾けたかを示します。ガラテヤの人々は、まさにこ のパウロの厳しい手紙によって、キリストの福音による感謝と喜びの生活に立ち帰ることができた。いわ ばこのガラテヤ書という苦い薬によって死の病から立ち直ったのです。キリストの福音の喜びから離れて いた群れが、再びキリストの福音のもとに立つ真の「教会」へと成長していったのです。  初代教会の時代、パウロから送られた手紙は単なる手紙ではなく、なによりも説教壇の上から、毎週の 主日礼拝のたびごとに、まさに“説教の言葉”として会衆に読み聴かせられました。ガラテヤの人々は最 初は、その言葉に対して頑なであったでしょう。しかし次第に彼らは、その説教の言葉に耳を傾けるよう になったのです。ついにはその説教(キリストの福音)によって本当に打ち砕かれ、変えられて、ガラテ ヤ教会は古代社会における有数の、キリストの福音に堅く立つ健やかな教会へと成長してゆきました。ニ カイア信条が制定された西暦4世紀頃になりますと、このガラテヤの教会は“カパドキア学派”という有 力な正統的聖霊論に立つ神学者たちを生み出してゆきます。そのような「聖霊によりて歩む」福音に生き る喜びに溢れた教会へと成長していったのです。  私たちの教会で洗礼志願者の試問会が行われるとき、そこで志願者に必ず問うひとつの問いがあります。 「あなたが聖霊なる神の導きのもとに生きるために、もっとも大切なことは、なんですか?」という問い です。これに対して洗礼志願者の兄弟姉妹たちは、それこそ聖霊なる神の導きによってこのように答えま す。「それは、毎週の主日礼拝を大切にし、教会に連なって生きることです」と…。いつもごく自然に、洗 礼準備の教理の学びの中から、このような素晴らしい答えが導かれていることを私たちは主に感謝せずに おれません。洗礼を受けてから神の恵みによって幾十年を経た人々も、この喜びを忘れてはならないので す。この“信仰生活の初心”を忘れてはならないのであります。  聖霊なる神は、私たちに教会生活の喜びを与え、私たちをキリストにいよいよ堅く結ばれた者として下 さいます。それは私たちがそのあるがままに、キリストの復活の生命に堅く結ばれて、キリストの愛と祝 福のもとを心を高く上げて生きる者とされている幸いです。たとえどのような試練や悩みの日にも、私た ちから聖霊による祝福が奪われることは決してないのです。何よりも主イエスご自身がお教え下さいまし た。ヨハネ福音書7章37節です。「祭の終りの大事な日に(つまり礼拝において)、イエスは立って、叫 んで言われた、『たれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書 いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。これは、イエスを信じる人々が受 けようとしている御霊をさして言われたのである』」。  そうなのです、主イエスご自身がまず明確に私たちに約束していて下さる。神は聖霊によって私たちの 信仰の全生涯を、限りない祝福の生命をもって常に覆い、守り、導いていて下さることを。私たちがこの 人生の歩みの中で、どのような「飢え渇き」の現実に直面しようとも、私たちが苦しみや悲しみの中で、 自分の存在を自分で背負いきれなくなっても、いやその時にこそ、主はご自身の聖霊をもって、私たちの 存在を祝福の生命のもとに生き返らせて下さる。新しい生命に生きる者として下さるのです。「その腹から 生ける水が川となって流れ出る」とは、私たちの人生全体が神の限りない愛と祝福のもとに支えられ、私 たちがその弱きままにこそ神の栄光を現わす僕とされてゆく祝福の事実です。枯れ果てた砂漠のような人 生の現実の中に生命の川が流れ、私たちばかりではなく、私たちに接する人々をも潤し、同じ生命の祝福 へと導いて下さるのです。それが「聖霊なる神の導き」に歩む私たちの幸いなのです。  そうしますと、私たちは次の5章26節にもごく自然に導かれてゆくのです。聖霊による新しい生活の 喜びは、私たちを26節に示された新しい生きかたへと導くからです。それは「互にいどみ合い、互にね たみ合って、虚栄に生きてはならない」とあることです。これは「ねばならない」という「律法」ではな く、キリストに結ばれて聖霊によって生きる私たちの「喜びの応答」です。ここで私たちはハイデルベル ク信仰問答・問64を思い起こします。すなわち、聖霊によって新たにされるということ(キリストの贖 いによって義とされ、永遠の生命を受けるという福音)は、私たち人間を善き行いに対して怠惰なものに するのではないか、という問いに対して、こう答えていることです。「そういうことはありません。なぜな ら、まことの信仰によって、キリストに結ばれた者が、感謝の実を結ばないということは、ありえないか らであります」。  そこでこそ、ローマ書6章1節以下もこのように語っています「では、わたしたちは、なんと言おうか。 恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたし たちが、どうして、なおその中に生きておれるだろうか」。また同時に私たちは、改めてこのガラテヤ書5 章1節の言葉に導かれるのです「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったので ある。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。また同じガラテヤ書5章13 節にはこうも告げられていました「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためであ る。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい」。  「虚栄に生きてはならない」と聴いて、私たちはどのような感想を持つでしょうか。多くの場合「自分 は“虚栄”などに生きてはいない」と思うのではないでしょうか。しかしここで「虚栄」と訳された元々 のギリシヤ語は「自分を愛する生活」「自己中心の生活」という意味です。すると、私たちのいったい誰が 「自己中心の生活」から無関係でありうるでしょうか。寝ても覚めても、無意識のうちにさえ、いつも自 分が人生の主になっている、価値判断の中心になっている、審きの中心になっている、それが私たちの偽 らざる姿なのです。ですから、ある外国語の聖書はここを「うぬぼれ」と訳しました。「うぬぼれ」とは「自 分に惚れる」と書きます。ピリピ書2章3節に「何事も党派心や虚栄からするのではなく、へりくだった 心をもって…」とありますが、その正反対の生きかたが「自惚れ」であり「虚栄」なのです。  先週、私は東北の石巻など、東日本大震災の被災地を訪ねる機会を与えられました。多くのことを感じ させられ、多くの課題を与えられたと思います。とても深刻な現実がありました。しかしその中で、私た ち主の教会に連なる者たちは、ひとつの志を新たにさせられます。それは、ただキリストの教会だけが、 あの被災地の現実の中に生きる全ての人々に「揺るがぬ確かなもの」を語ることができるということです。 キリストによる罪の赦しと復活の生命、救いの福音を、ただ教会だけが世に宣べ伝えることができる。逆 に申しますなら、この中心性が明確でないところには、たちまち人間の「虚栄」が「自惚れ」が噴き出す のです。まさにヨハネが言うように「多くの人の愛が冷える」のです。  それはそのまま、キリストの福音から離れたガラテヤの人々の姿でした。否、過去のことではありませ ん。聖霊(キリスト)によらず、自分を中心にして「うぬぼれ」を満たそうとするとき、私たちもまたい とも簡単に「互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きる」者になってしまうのです。4世紀の教 父アウグスティヌスは「自分を誇ることが全ての異端の母であり、すべての罪と混乱の源である」と語り ました。言い換えるなら、キリストの福音、キリストの贖いの恵みによらず、自分の正しさ、自分の清さ を、救いの根拠に置き換えてしまう私たちの罪が、被災地の人々をも苦しめ続けるのです。それこそ聖書 の語る「高慢」の罪を犯すのです。  そのような私たちが「虚栄」の罪から自由な者とされ、キリストの限りない愛と祝福のもとに健やかに 生きる喜びと幸いの生活を、パウロは(聖書は)明確に示しています。それが同じガラテヤ書5章5節で す。「わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている」とあることで す。この「望み」とは、いま私たちのただ中に現実の出来事となったキリストの救いの御業を現わしてい ます。律法(自分の力)によらず、ただキリストの測り知れない愛と恵みに、私たちの新しい生活があり、 この世界の真の平和と喜び、自由と幸いがあり、唯一永遠の救いがあるということを、私たちは聖霊によ ってはっきりと知らしめられ、そしてここに集う私たちが、いま、そこに生きる者とされている事実を示 すのです。私たちはいまここに「御霊によりて進む」者とされているのです。  私たちは、いまここに、教会に結ばれ、キリストに結ばれて、聖霊による真の「自由」に生きる者とさ れ、感謝と讃美をもって、私たちの全存在を主の限りない愛の内に見いだす者とされています。私たち一 人びとりの生活と存在そのものが、聖霊なる神の導きにあずかる、主の教会に堅く結ばれているのです。 キリストの測り知れない贖いの恵みのもとに、生命の限り、否、死を超えてまでも主と共に生きる者とさ れているのです。今朝あわせて拝読した旧約聖書・箴言30章7節以下の御言葉、特にその「ただ、なく てならぬ食物でわたしを養ってください」との祈りが、いま教会の主なるキリストによって世界に、被災 地に、私たち一人びとりに、豊かに実現していることを知らしめられるのです。私たちはいつも、どこに あっても、「なくてならぬ食物」であるキリストご自身と、聖霊によって堅く結ばれ、共に御言葉によって 成長してゆく一人びとりとされているのです。