説     教     箴言27章18節   ガラテヤ書5章16〜24節

「聖霊の九つの果実」

 ガラテヤ書講解(39) 2013・09・08(説教07041150)  私たちキリスト者は、キリストの霊、すなわち聖霊によって、古き肉の身体に仕える「罪」の支配から 贖われ、キリストの御身体なる教会に結ばれた者となり、神の栄光を現す生活をする僕に変えられた者た ちです。しかしその私たちは、それでもなお肉体において生きているという現実はあるわけでして、この 地上においてはなお「肉の身体」を持ち、この世の生活をしているわけです。  ですから、私たちにはなお様々な形での「罪」の誘惑があります。これは避けがたいことです。そして 罪の誘惑はいつでも、私たちの思惑を超えた巧妙な仕方で日常生活の中に忍びこんで来ます。ときに私た ちはその誘惑に屈し、罪の力に負けてしまって「これでも自分はキリストの僕なのだろうか」と、無念の 思いに囚われることがあるかもしれません。ある意味で私たちの生活は、キリストによって新しくされた 喜びと同時に、なおも古き罪の「おのれ」を引きずっている現実の間とのギャップに苦しみ、自問自答し、 戸惑いを覚え、躓きを感じる、そういうものだと言えるのではないでしょうか。では私たちは、いったい どのようにすれば、古き罪の生活に支配されることなく、キリストによって新たにされた者の喜びに生き 抜くことができるのか。ここに、とても大切な問題があると思います。言い換えるなら、私たちは罪の誘 惑と支配に対して、どのような武装をして抵抗すべきなのか。どうすればそれに打ち勝てるのでしょうか?。  そこでこそ、私たちはもう一度ガラテヤ教会の人々のことを思い起こす必要があります。ガラテヤ教会 の人々は「罪」の誘惑に対してなんとか負けまいとする余り「律法」の力によって武装しようとしました。 ガラテヤの人々には「十字架の主イエス・キリスト」という武装は(守りは)いかにも頼りなく見えたの です。それでは勝利はえられない、そう考えて、再び「律法による義」へと逆戻りしていったわけです。 そこにいわゆる「にせ教師」(律法主義者)が「忍びこむ」口実が設けられました。ガラテヤの人々は使徒 パウロから受けた「主イエス・キリストによる永遠の救いの喜び」を捨て、再び人間の力による救いへと 逆戻りしようとしていたわけです。  では、その結果はどうであったかと申しますと、ガラテヤの人々が経験したのは、実に惨憺たる敗北で しかなかった。すなわち、今朝の御言葉5章16節以下、特に19節以下にその混乱ぶりが余すところなく 現われています。「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、 争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである」。この現実 を直視しつつ、使徒パウロは実に明確で具体的なことを語っています。それは21節に「わたしは以前に も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない」とい うことです。  このあたり、パウロの言葉はまことに厳しく率直でして、容赦なき叱責のように響くかもしれません。 しかし私たちは時として、このように率直に言われなくてはわからないことがたくさんあるのではないで しょうか。否、このように率直に言われても、なおあれこれと弁解や言訳をし、自分の行いを正当化する のが私たちなのではないでしょうか。そしてしまいには「そんなに厳しいことを言われても困る」などと 言い出すのが私たちなのです。私たち人間は、自分にとって都合が悪い事には開き直ったように自己弁護 を始めるのです。他人の悪いことは些細なことでも容赦しないくせに、自分の悪事は大きくても正当化し ようとするのです。そこにも私たちの罪があります。  なによりも、いちばん大きな問題は、そのようにして時に私たちは御言葉を正しく聴く耳を塞いでしま うことです。ガラテヤ教会の人々は、キリストから離れて律法の力(人間の正しさを誇る立場)に救いを 求めようとしたのですが、当然のことながら、それは教会の分裂と混乱、人々の道徳的な破綻を引き起こ しました。そこで、彼らの問題点はどこにあったかと申しますと、彼らは「罪」に誘惑される弱い肉なる 自分の存在に気付き、心を痛め変革を願いながらも、なおその「肉」を捨てることをせず、かえって肉の 力に拠り頼む生活に逆戻りしてしまったことにあるのです。それこそパウロがピリピ書3章で語る「肉を 頼みとし」また「律法による自分の義に拠り頼む」虚しい生活なのです。  これは、他人事ではありません。2000年前のガラテヤ教会の出来事ではなく、私たちもまたしばしば、 同じ過ちを繰り返すのです。つまり、自分の肉に拠り頼むこと(自分の義に頼ること)の限界を知りつつ、 なおそこから頑なに離れようとせず「律法」に固執せんとする私たちの「罪」があるのです。そのように して私たちは、あの主イエスの弟子たちのように、あたかも主イエスの責任でもあるかのように開き直っ て、呟きながら「私たちには何が足りなかったのでしょうか?」などと問い始めるのです。  信仰とは、強いか、弱いか、という次元の問題ではありません。まさに主が教えたまいしごとくに「か らし種一粒ほどの信仰」が大切なのです。それで十分なのです。それは、自分の正しさや清さなどにいっ さい拠り頼まず、ただ与えられた主イエスの恵みと導きに自分を委ね切ることです。この「からし種一粒」 の「一粒」とは十字架の主イエスのことです。つまり「からし種一粒ほどの信仰」とは、どこまでも十字 架の主イエスを「わが主キリスト」と告白し、主イエスにのみ拠り頼む信仰のことなのです。それは「強 いか、弱いか」などという、私たちの“心の状態の問題”ではなく、自分を顧みずにただ十字架の主を仰 ぐことです。神の言葉を正しく聴き、その恵みの力に自分を委ね切ることです。主イエスの御手に自分を 委ねること、主イエスに自分を明け渡してしまうことです。  聖書には「悔い改め」という言葉がたくさん出てきます。今朝のガラテヤ書5章16節以下には出てき ませんが、ここで扱われている問題は明らかに“悔い改めの問題”です。ところが、この「悔い改め」と いう言葉ほど誤解の多いものはありません。私たちはそれを、反省すること、自分の行いを糺すこと、つ まり“自分が強くなること”だと考えてしまう。そうではありません。聖書が語る「悔い改め」とは“自 分を捨てて神に立ち帰ること”です。“神に向きを変えること”です。自分を中心に歩んでいた私たちが、 主なる神の測り知れない愛と恵みに方向転換することです。さらに言うなら“私たちを招いて下さる主に お従いすること”それが本当の「悔い改め」なのです。ここで私たちは、宗教改革者ルターの言葉を聴き たいと思います。「すなわち、人はまず自分自身の力に絶望して、信仰の言葉に聴き、聴いて信じ、信じて 神に呼び求め、呼び求めることによって聞き届けられ、聞き届けられることによって愛の御霊を受ける。 人は御霊を受けて御霊によって歩み、肉の欲を遂げずして、かえってこれを十字架につけ、キリストと共 に十字架につけられた者として甦り、神の国の世嗣となる…(中略)我々は自選のわざと規則とをもって 心(肉)の要求を押さえようとする。そこで我々は(愚かにも)常に(人生の)師匠のごとくに装う。実 に、我々は神を畏れる代わりに、みずからの自由意志に拠り頼み、また我ら自身の徳を建ててこれに拠り 縋らんとする。そして我々は、人々にもこのような誤った自負心を吹聴し、かくして愚かにも見栄を張り、 虚しい功績を我らの周囲に拡散せんとする。かくして我らはついに、キリストの認識を全く無となし、人々 に大いなる良心的悲惨を増し加えるに至るのである」。  この最後の言葉は激烈です「かくして我らはついに、キリストの認識を全く無となし、人々に大いなる 良心的悲惨を増し加えるに至るのである」。この「キリストの認識」というのはルター独特の表現ですが「信 仰」のことをさしています。なぜ「律法」(人間の義)が「罪」を生じるに至るのか、それは信仰を「全く 無となす」ものだからです。私たちのために十字架にかかって下さったキリストの測り知れない愛の御業 ではなく、虚しく頼りにならない私たち自身の義(人間の力)に救いを見出そうとさせるからです。それ はついに「人々に大いなる良心的悲惨を増し加えるに至る」とルターは語ります。まさしく今朝のガラテ ヤ書5章16節以下が宣べ伝えているとおりなのです。  使徒パウロは、それに対して「御霊の実」こそが、私たち全ての者に永遠の喜びと平安を与えることを 明らかにします。今朝の御言葉の22節です。「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、 忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、 その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」。この22節は「聖霊による九つの果実」と言われる 御言葉です。そしてこの「九」という数字はイスラエルにおける完全数でして、主イエス・キリストの救 いが完全な恵みであることを物語るものです。「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」 です。これは何よりも、私たちの救い主イエス・キリストのご人格そのものです。  まず「愛」とは、私たちのために人となられ、ご自分の全てを私たちの罪の贖いのために献げ尽くして 下さった、キリストの測り知れない「愛」そのものを意味します。比類なき“永遠の愛”です。すなわち 第一ヨハネ書4章10節以下。「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたち を生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わ たしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがない の供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。  第2の「喜び」とは、聖霊によって私たちを、永遠に御国の民として一つにして下さったキリストの御 業、そのキリストの御業に与る者とされた私たちの「喜び」です。すなわちピリピ書2章17節。「そして、 たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜 ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい」。  第3に「平和」とは、私たちの測り知れない罪を贖い、神との平和を与えて下さったキリストの十字架 による平和です。すなわち、主は言われました、ヨハネ福音書14章27節です。「わたしは平安をあなた がたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものと は異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。     第4に「寛容」とは、真の神による救いを知る私たちが、世のあらゆる人々に対して示す慰めと祝福 を現わしています。すなわち、ピリピ書4章4節。「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り 返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い」。  第5の「慈愛」とは、私たちとこの世界全体に対する、神の救いの御業と祝福そのものをあらわしてい ます。すなわちヤコブ書5章11節。「偲び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなた がたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛と あわれみとに富んだかたであるかが、かるはずである」。  第6の「善意」とは、キリストの教会を御言葉に従い、御言葉の岩の上に形成し、そこから始まってゆ く私たちの、主に従う喜びの生活を現わしています。すなわち、ローマ書15章14節。「さて、わたしの 兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあ ることを、わたしは堅く信じている」。  第7の「忠実」とは、とりもなおさず、キリストに対して私たちが生涯、否、死を超えてまでも忠実な 僕であり続ける喜びです。すなわち、ヨハネ黙示録2章10節。「(なんじ)死に至るまで忠実であれ」。  第8の「柔和」とは、みずからの虚しい力に拠り頼まず、ただひたすらにキリストの贖いの恵みの内に みずからを見いだす、私たちの信仰を現わしています。すなわち、主イエスみずからお教えになりました。 マタイ福音書5章5節。「柔和な人たちは、幸いである。彼らは地を受けつぐであろう」。  最後に、9番目の「自制」とは「節制」とも訳されますが、主によって真の自由を与えられた私たちが、 神の栄光を現わす者として、召され、遣わされている幸いを現わします。すなわちテトス書1章8節。「か えって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、教えにかなった 信頼すべき言葉を守る人で(ありなさい)」。  いま、聖霊なる神が、御教会によって私たち全ての者に、この「御霊による九つの果実」を豊かに与え、 世の旅路へと遣わして下さるのです。  我らを聖霊によりて支配したまい、聖霊の果実を与えて下さる恵みの神に、世々とこしえに栄光と讃美 あらんことを。アーメン。