説     教      創世記2章7節    ガラテヤ書5章16〜24節

「聖霊による生命」

 ガラテヤ書講解(38) 2013・09・01(説教13351499)  今朝の聖書の御言葉は、愛するガラテヤ教会の人々、そして私たち一人びとりに次のように命じています。 「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。これが今朝 のガラテヤ書5章16節の御言葉です。私たちに「御霊によって」(聖霊によって)歩むようにと勧めている のです。  私たちキリスト者は、洗礼を受けて、聖霊による新しい生活をするようになったのです。真の神を知り、 救主キリストを主とし、神と隣人とを愛する新しい生活をする者となったのです。しかし、現実の私たちの 生活を振返るとき、自分の生活が本当に「新しいものになった」と心から言いきれる人は、おそらく多くは いないのではないでしょうか。むしろ、洗礼を受ける前とあまり変わっていない自分を見いだし、これで良 いのだろうかと戸惑うことが多いのではないかと思うのです。  いま、ガラテヤ教会の人々は「違った福音に落ちてゆこうとしている」(1章6節)ことで使徒パウロから 「福音に立ち帰るように」と厳しく勧められています。彼らはキリストによる永遠の救いの喜びに招き入れ られたにもかかわらず、その救いの恵みを軽んじ蔑ろにして、主なるキリストから離れ、古き律法による「人 間の正しさ」にしがみつく生活に再び舞い戻ろうとしていたからです。このガラテヤの人々の「違った福音 に落ちてゆく」姿は、実は私たちの姿でもあるのではないでしょうか。それは、ガラテヤの人々もちょうど 私たちと同じような信仰生活の“戸惑い”に直面していたからです。  それはどういうことかと申しますと、ガラテヤの人々が、自分の信仰生活の「あるべき姿」と「現実」の 違いに戸惑い、熱心にその解決策を模索していたことが、律法主義者たち(偽教師たち)がガラテヤの教会 に忍び込む契機になったのです。まさにパウロは2使用4節に律法主義者たちのことを文字どおり「忍び込 んできたにせ兄弟たち」と申しています。この「忍び込む」という言葉そのものが、ガラテヤの人々が積極 的に「偽教師」たちを歓迎していた事実を示しています。つまりガラテヤの人々は「偽教師」たちの教えの 中に、信仰生活の行き詰まりを克服する解決策を見出し、みずからの意思で積極的に律法主義へと傾いてい ったと思われるのです。  それではガラテヤ教会の人々は、古い“肉による生活”を律法によって克服し、キリストに従う新しい生 活を築くことができたのか?。答えはもちろん「否」でした。そのことは今朝の16節以下24節の御言葉を 読めば一目瞭然です。何よりも5章15節には「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているな ら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」とあります。さらに26節には「互にいどみ合い、互にね たみ合って、虚栄に生きてはならない」とあります。実はこれこそが、律法に(人間の義に)救いを求めよ うとしたガラテヤ教会の人々が陥った罪でした。キリストではなく人間の正しさや清さの上に救いを求める 生活は、けっきょくは「互にいどみ合い…ねたみ合う」「虚栄」の生活をしか生み出さないのです。  ですから、使徒パウロがこの手紙によって「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決 して肉の欲を満たすことはない」と語るのは、まことに喜びに満ちた自由への宣言なのです。パウロは言う のです「愛するガラテヤの兄弟姉妹たちよ、あなたがたは古き肉の生活を一掃して、神に喜ばれる者になり たいという一心から律法主義に傾いた。しかしキリストのみが律法の完成者であられるのだ。それゆえあな たがたは、初めに召されたキリストの福音、キリストの義の喜びの内に、立ち帰る者になりなさい」そのよ うにパウロは言葉を尽くして勧めているわけです。  逆に申しますなら、人間というのはまことに強情かつ自己中心で頑なな存在でありますから、どうしても 律法のほうに魅力を感じてしまう。ようするに「自分も捨てたものではない」という虚栄心・自尊心・名誉 心を満足させたいといつも願っているのが私たちなのです。西暦4世紀にアタナシウスのニカイア信条に反 対したアリウス派がその後も大きな影響力を持ったのは、キリストのみを「主」と呼ぶことを「面白くない」 としたローマ皇帝の自尊心からでした。キリストのみを「主」と告白するアタナシウスよりも、キリストは 神ではなく人間だとするアリウスのほうが、ローマ皇帝の尊厳を守ってくれたからです。それでアタナシウ スはローマ皇帝によって5回もスカンディナヴィアに幽閉された。そこにも「キリストによる義」ではなく 「律法による義」を求める人間の罪が現れているのです。  さて、パウロは「律法」(人間の義)が神に喜ばれる生活を築けない理由を、今朝の5章17節に少し不思 議な表現で説明しています。「なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反 するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うこ とを、することができないようになる」。これこそ私たちの罪の姿でもあるのではないでしょうか。ヤコブ書 4章2節はさらにこのことを「あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手 に入れることができない。そこで争い戦う」と表現しています。まさに現代人の矛盾と苦悩が現れているの です。  ここで「肉」と言われているのは、精神と肉体を対立するものとして見た場合の「肉」ではなく、旧約聖 書・創世記2章7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた」とある、まさ に“神の息”(ルーアハ・聖霊)によって存在へと呼び出された、私たち人間の生活全体のことです。それを 聖書は「肉」と呼んでいるのです。つまり聖書ははっきりと語るのです。「肉」は創造主なる神から離れては 「生命の息」を持つことはできないと。「肉」なる人間は、実は神の「命の息」である聖霊(御霊)によらな ければ、本当に生きたものにはならないのです。言い換えるなら、聖霊に導かれていない「肉」は「土のち り」に過ぎないのです。  だから「肉の欲するところ」はどうあっても「御霊の欲するところ」に一致するはずがない。なぜなら「肉」 はこの地上のことだけを思い、自分の利益のみを求め、ついには「互にかみ合い、食い合う」ようになるか らです。しかし「御霊」は私たちを真の救い主であるキリストに導きます。私たちのためにご自分の全てを 贖いとして献げたもうたかたの、生命をかけた祝福と救いのもとに、ただ聖霊のみが私たちを導いて下さる。 私たちはこの聖霊に導かれてこそ、はじめて律法から(すなわち、自分の正しさにしがみつく古き生活から) 自由な者とされるのです。「自分でしようと思うことを、することができない」者ではなく、まことの神に仕 え、神と人を愛する新しい生活へと、導かれてゆくのです。  だからパウロはここに明確に、喜びをもって「もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいな い」と言い切っています。自由の旗印を掲げています。私たちはキリストの聖霊によってはじめて、律法の 掟(律法によって審かれる恐れ)から自由な、神の国の喜びの民とされるのです。そこにこそ神の嘉したも う真の自由と平安、喜びと感謝の生活が造られてゆくのです。聖霊によってこそ私たちははじめて「自分で しようと思うことをすることができる」者となるのです。  そしてパウロは、このガラテヤ書の全体を通して、聖霊の導きを受ける新しい生活は、それは礼拝者とし ての教会生活の中にあるのだ、すなわち礼拝者として御言葉に養われてゆく生活こそ、聖霊なる神の導きの もとにあり続ける生活であることを明らかにしているわけです。そこで、人によっては、御言葉を聴くだけ では不十分ではないか、やはり「行い」も大事ではないか、と言う人もいるかもしれません。しかし、実は それは、御言葉を聴くことがどういうことか、正しくわかっていないことから来る疑問です。御言葉の本当 の力を知らないから、自分自身を御言葉に、キリストに委ねようとはせず、けっきょくは自分の正しさに拠 り頼んでしまうのです。ガラテヤの人々が律法主義に舞い戻ったのと同じことになってしまうのです。  御言葉を正しく聴くことは、ただ耳で「聴く」だけに終わらないのです。それこそガラテヤ教会の人々が 最初にパウロのもとで経験した、キリストに結ばれた喜びの生活でした。御言葉を正しく聴くことにおいて 聖霊が与えられ、キリストに堅く結ばれて、私たちが信仰をもって御言葉に従う者になるとき、そこには必 ず神の喜びたもう力あるわざ(証しの生活)が生まれてゆくのです。先ほどの創世記2章7節に「主なる神 は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者になった」と告げられてい る喜びの出来事(身体のよみがえり)が、御言葉によって私たちの内に起こるのです。だからこそ、愛する 僕の癒しを願ったあの百卒長は「ただ、御言葉を下さい」と、主イエスに御言葉のみを求めたのです。  さらに具体的に申しますなら、御言葉を聴くことにおいて、私たちのこの死すべき古き肉の身体は、キリ ストの復活の勝利の御身体に接木されるのです。キリストに堅く結ばれ、キリストの祝福の生命が(救いそ のものが)私たちの日々の生活の原動力となるのです。私たちは肉の身体において生きていますが、もはや 肉に拠り頼む者ではなく、聖霊によってキリストのものとされた、復活の勝利の身体である教会に結ばれ、 キリストの枝として生きる者とされているのです。  神に対する平和は、ただこのキリストから来ます。私たちのために、その全ての罪を担って十字架にかか られ、贖いを成し遂げて下さった十字架の主から、私たちの全生涯を支えてやまぬ真の平安と喜びが来るの です。その確かな保証として、主は私たちに聖霊を与えていて下さるのです。このことは私たちにとって、 どんなに大きな慰めであり希望であり続けることでしょうか。聖霊によるキリストの現臨の恵みのもとに生 かされ、支えられ、導かれている私たちは、もはや律法を恐れません。なぜなら、神は「死人を生かしめ、 無から有を呼び出されるかた」(ローマ書4:17)であることを私たちは知っているからです。