説    教    レビ記19章18節   ガラテヤ書5章13〜15節

「律法の帰結」

 ガラテヤ書講解(37) 2013・08・25(説教13341498)  私たちキリスト者の「信仰と生活の基準(規範)」は神の御言葉である聖書にあります。私 たちは聖書が語る正しい信仰に、いつも堅く立ち続けているでしょうか。まさにその点におい て、ガラテヤの諸教会の人々は大きな誤りに陥っていたのです。  あるイギリスの聖書学者は、今朝のガラテヤ書5章13節以下について、このように述べて います。「ガラテヤの人々は、使徒パウロから正しい信仰の喜びを教えられていたにもかかわ らず、その正しい信仰の喜びに留まらずに、与えられた自由を悪用して、異なる教えに陥って しまった。それゆえにパウロは、彼らを正しい信仰のもとに、キリストにある喜びに立ち帰ら せるために、力を尽くして御言葉を宣べ伝えねばならなかった」。  このガラテヤ書の同じ5章1節において、すでに使徒パウロは、私たちキリスト者が、キリ ストの十字架の贖いによって「真の自由」を与えられた者であることを明らかにしています。 すなわち5章1節「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのであ る。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。ここにパウロは「二 度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と、それこそ「力を尽くして御言葉を宣べ伝え」 ています。この「奴隷のくびき」とは、私たちを支配しようとしている“罪と死の力”です。 私たちをキリストから引き離し、滅びに誘う諸々の力です。これはガラテヤ教会の時代だけで はりません。むしろこの21世紀の現代においてこそ、私たちの周囲や私たちの内側に、より 深くこの「奴隷のくびき」は入りこみ、私たちを再び“罪と死の支配”へと誘おうとしている のではないでしょうか。  最近のニュースを見ても、もはや「暗い」という言葉さえ追いつかない、まことに陰惨かつ 悲惨な、人間存在を根底から突き崩すような衝撃的な事件が社会に溢れています。子供が子供 を殺し、親が子供を殺し、子供が親を殺し、夫婦が憎悪の刃を向け、兄弟が兄弟を殺し、隣人 同士が裁きあい、他者をも自らをも、滅びへと突き進んでいる様相があります。「自由主義国 家」「国民主権国家」と言われますが、実は私たちの周囲を見るとき、本当の自由などどこに もない、むしろあるものは、私たちを根底から損なう「奴隷のくびき」ばかりであることに、 改めて気づかされるのではないでしょうか。「国民主権」ではなく、“罪と死の主権”のもとに、 私たちは捕われているのではないでしょうか。  かつてある作家が「私の中の地獄」という文章の中で「地獄の地獄性は、その根底が測り知 れない点にある」と語りました。まさにそのように、私たち人間の内側にある「奴隷のくびき」 の恐ろしさは、その「根底が測り知れない」(どこまで行き着くのか見当がつかない)恐ろし さです。表面的な自由なら、たしかに巷に溢れているのです。現代社会はある意味で自由を持 て余した社会です。しかしその自由をどのように用いるべきか、その方法を知らぬまま、人間 が人間であることを失ってゆく「地獄の地獄性」だけが勢いづいている現実があるのです。  パウロは、かつてパリサイ人であり、キリストを知らなかったときの姿をローマ書7章23 節においてこう語っています。「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対 して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを 見る」。まさに私たちはパウロと共に「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれ が、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(7:24)と叫ばずにはおれないの です。  それならば、まさしくそのような私たちとこの現代社会全体に、今朝のガラテヤ書5章13 節以下の御言葉は、本当の“解放のおとずれ”(キリストの福音)を語り告げてやみません。 パウロは主にある勝利の喜びをもってガラテヤの人々にこう宣べ伝えています。「兄弟たちよ。 あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会 としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣 り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである。気をつけるがよい。もし互にかみ合い、 食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」。  私たちは、キリストが十字架にかかって下さった、そのことによって私たちに本当の自由が 与えられた、この「福音」には無条件で感謝するのではないでしょうか。しかしその感謝が生 活の中に現れない私たちの弱さがあるのです。信仰がただ“頭の中の出来事”にとどまってし まい、古き私たちは依然として変わらず「奴隷のくびき」のもとにあるという悪循環は、決し てガラテヤの人々だけの問題ではありません。それは信仰の生活において、キリストのみを中 心とせず、自分が中心になってしまうことに原因があるのです。教会を中心とせず、自分の思 いがいつも中心になってしまう危険です。そのときどういうことが起るか…。パウロは、それ こそ私たちが、キリストから賜わったその「自由」の喜びをはきちがえ「肉の働く機会」とし てしまうことだと言うのです。そのことに私たちを気付かせるために、パウロはここに「あな たがたが召されたのは…」と語っています。召したもうかた(主なる神)が私たちの人生の永 遠に変わらぬ「主」であられる。そこに人間の真の自由と幸いがあるのです。言い換えるなら、 この神の「召し」を知らない人生は、自由をはきちがえて「肉(罪)の働く機会」としてしま う人生にらざるをえない。  何よりも私たちは、私たちを恵みの御座へと(召された者の喜びの人生へと)お招きになる ために、神はその独子を(つまりご自身を)犠牲として与えて下さったという事実を忘れては なりません。ガラテヤの人たちは、神に“召された”ので神を信じ、教会に連なり、洗礼を受 けて、キリスト者となりました。そのことは私たちと全く同じです。ただ彼らは、否、私たち もまた、その神の「召し」を「当然のこと」としてしまって、その背後にあるキリストの計り 知れない贖いの恵みを思わない(その恵みに応えない)生活をしてしまった。その結果、せっ かく与えられた自由が「罪」の働く機会となってしまった…。罪に対して全く無力な私たちで あるにもかかわらず、キリストを中心とせず、自分を中心とするとき、その私たちを「奴隷の くびき」が再び繋ぐことになるのです。  それではいけない、私たちがキリストの贖いによって「真の自由」を与えられたのは、私た ちが“罪に機会を与えるため”ではなく、むしろ「愛をもって互に仕えるため」であるとパウ ロははっきり語るのです。この「愛をもって互に仕える」という字は元々のギリシヤ語では「私 たち一人びとりがキリストの愛に生かされ、キリストの身体なる教会に結ばれた僕として、キ リストの愛をもって互いに生命の祝福を共有する者となる」という意味です。死に打ち勝つま ことの生命、キリストにおける神の限りない愛のみが、私たちの内にある「地獄の地獄性」を 打ち滅ぼすのです。そして私たちに「(キリストの)愛をもって互に仕える」本当の自由をえ させるのです。  この福音を宣べ伝えるパウロが引用しているのが、今朝あわせて拝読した旧約聖書レビ記19 章18節です。そこにはこう記されています。「あなたはあだを返してはならない。あなたの民 の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなの隣人を愛さなければならない。 わたしは主である」。これはただ単に、私たちに、より素晴らしい社会を造るための“倫理道 徳”を命じている言葉ではありません。そうではなく、この中心は「わたしは主である」とい う神ご自身の恵みの宣言にあります。倫理道徳なら、私たちはその要求の高さの前に挫折する か、あるいは虚無に陥るか、絶望するか、その3つのいずれの道しかありません。しかしこの 御言葉の中心は「わたしは主である」という、私たち全ての者に対する罪の贖い主なる神の絶 対的な恵みの宣言なのですから、私たちのうち誰一人としてこの御言葉から(ガラテヤ書で言 うなら5章13,14節から)落ちている者はいないのです。私たちの誰一人として今朝の生命の 祝福から漏れている者はいないのです。  どうか改めて心をとめましょう。「愛をもって互に仕えなさい」とは「私たち一人びとりが キリストの愛に生かされ、キリストの身体なる教会に結ばれた僕として、キリストの愛をもっ て互いに生命の祝福を共有する者となる」ことです。言い換えるなら、ここに真のキリストの 教会を建ててゆく群れとなりなさい、キリストの身体の枝となり、キリストの賜わる永遠の生 命に結ばれて生きる群れとなりなさいということです。その限りない祝福において、互いにキ リストの愛をもって「愛し合う」群れをここに建ててゆく私たちとされているのです。その私 たちは、そのキリストの愛に生かされ、支えられた者として、世の旅路に遣わされてゆく幸い に生きるのです。  ですから、ここには、どんなに素晴らしいことが語られているか!。それは私たちの想像を 遥かに超える喜びのおとずれです。ガラテヤの人々はそこから離れてしまっていたゆえに、パ ウロは「力を尽くしてキリストにある喜びの福音のもとに、彼らを立ち帰らせねばならなかっ た」のです。旧約聖書で「わたしは主である」と神が宣言されるとき、それはこういうことを 意味します。「わたしは、あなたの全ての罪を贖った。わたしはあなたのために十字架にかか った。わたしは永遠に、あなたを支え、あなたを守り、あなたと共にあり、あなたを導く主で ある」。すなわち「わたしは主である」とは、十字架の主イエス・キリストの贖いの恵みとひ とつの祝福の宣言なのです。それは私たち全ての者の“救い”そのものなのです。  そればかりではありません。私たちはいますでに、そのキリストの祝福の生命から決して離 れることのない者とされているではないか。その群れがこの教会ではないか。互いにキリスト の愛をもって、生命の祝福を告げるところの真の教会として、私たちはここに「召されて」い る者たちではないか。その祝福、喜び、幸いを語り、明らかにし、証して、パウロはここに全 ての人々に対して、人間を人間たらしめる本当の自由はただキリストにのみあることを明確に しているのです。そして主なる神に感謝と讃美を献げているのです。  「律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽き る」とパウロは語ります。レビ記19章18節に律法全体の中心があると言うのです。私たちは そこでこそ、ルカ福音書10章25節以下の「善きサマリヤ人の譬え」を思わしめられます。あ そこで「誰がわたしの隣り人ですか?」と問うパリサイ人に対して、主はユダヤ人とは犬猿の 仲であったサマリヤ人が、傷ついたユダヤの旅人の生命を自分を犠牲にして救った話をなさい ました。そして、改めてこのパリサイ人に、こんどは主イエスが問いたもうのです。「誰が、 この傷ついた人の隣り人になったか」と。  キリストが贖い主であられるとき、私たちはもはや自分を中心にして「誰が隣り人であり、 誰がそうでないか」を判断する罪から贖われている(自由な者とされている)のです。人間は 自分を基準とするかぎり「誰が味方で誰が敵か」を定式化する自己中心的価値観の奴隷にすぎ ない。主イエスはそのような私たちに「誰がこの傷ついた人の隣り人になったか」と告げて下 さる。自分が誰の隣人になったか、なりえているか、ただそれだけが大事であり、そこにこそ 私たちの「キリストの生命の祝福を共有する喜び」があるのです。これからの社会においても、 私たちの個々の人生においても、本当の自由、本当の幸いは、そこにしかありえないのです。 だからこそ「律法の全体(律法の帰結)は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』 というこの一句に尽きる」のです。