説    教     詩篇18篇1〜3節   ガラテヤ書5章7〜12節

「十字架の福音に立ちて」

 ガラテヤ書講解(36) 2013・08・18(説教13331497)  「エホバの証人」(ものみの塔)と名乗る新興宗教団体から、ときどき勧誘を受けることがあります。普 通の家庭だけではなく、葉山教会にも勧誘が来ます。いつかも妻が外をホウキで掃いていましたら二人連 れの男性が来て「聖書についてお話がしたい」と話しかけてきたそうです。そこで妻が「ここは教会で、 主人は牧師です」と申しましたら、そのまま坂を下りて帰って行ったということでした。教会だとわかっ ていても勧誘に来るということは、教会は正しい教えを語っていない、自分たちだけが救われるのだと思 いこんでいるからでありましょう。  私たちは、西暦381年のニカイア・コンスタンティノポリス信条を「唯一の、聖なる、公同の、使徒的 教会」の具体的な「しるし」として告白する群れです。このニカイア信条の告白の上に立たない教会は、 たとえいくらキリスト教の一派を標榜していても、本物の教会(正統的なキリスト教)ではないのです。 そのように私たちは教会とカルト集団を区別する感覚を持っていますが、しかし世間の多くの人たちはそ うした区別ができませんから「キリスト教というのは、なんて独善的な団体だろう」と思われてしまう。 それはとても残念なことです。  正直に申しまして、私はこれが、葉山においても日本全体においても、侮るべからざる伝道の妨げにな っていると思います。キリストと三位一体を否定する「エホバの証人」はキリスト教ではなく、キリスト 教を装ったカルトです。教会ではないのです。しかし集団で家庭訪問をし、熱心に人々を勧誘しますので、 正統的な教会より遥かに“目立つ”存在になっています。そこでこそ私たちに問われていることは、私た ちがいつも、そのようなカルト団体にまさって「目立つ」キリストの福音の旗印を掲げているか否かです。  今日の御言葉・ガラテヤ書5章7節以下にも「勧誘」という言葉が出てきます。すなわち使徒パウロが ガラテヤの諸教会の人々に対して「あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそ むかせたのか。そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない」と語っていること です。ここでパウロが言う「勧誘」とは、キリストではないもの、私たち人間を救いえないものに人々を 誘いこむ悪しき勧誘です。言い換えるなら、キリストではなく自分を伝えることです。神の祝福を物語る のではなく、自分の考え・自分の思想を宣伝することです。  この少し前、同じガラテヤ書4章20節でも、パウロはガラテヤの人々に対して「わたしは、あなたが たのことで、途方にくれている」と申しました。キリストではない「異なる教え」に「勧誘」されて唯々 諾々として従い、キリストの福音から平気で離れてゆかんとしているガラテヤの人々に対して、パウロは 「そのような勧誘は、あなたがたを召されたかた(神)から出たものではない」と強く警告しているので す。キリストの身体なる教会に連なる喜びと幸いに留まり続けよと勧めているのです。  ですからパウロは、この「勧誘」をする者たちのことを続く10節に「あなたがたを動揺させている者」 と呼んでいます。この「動揺させる」とは「建物を壊す」という意味です。キリスト告白という唯一の土 台の上にガラテヤ教会は基礎を据え「イエスは主なり」との信仰告白によって建てられつつありました。 その教会を「動揺させている」とは、言い換えるなら、信仰告白を軽んじている、神の御言葉を軽んじて いる、ということです。御言葉より自分を上位に置いている。自分が御言葉の監督者であるかのように振 舞っている。それが、ガラテヤの教会に入りこんだ“福音的律法主義者”たちの姿でした。  ですから、これに対するパウロの姿勢は常に決然としています。「そのような勧誘は、あなたがたを召さ れたかたから出たものではない」とはっきりと語るのです。彼らは自分のシンパを作ろうとしているので あって、あなたがたをキリストへと導くものではないと言うのです。人間の浅知恵から出た虚しい知識に すぎない。そのようなものがどうして“真の教会”を建てることができるだろうか。だから10節におい てパウロは「あなたがたを動揺させている者は、それがだれであろうと、さばきを受けるであろう」と語 気鋭く語らずにおれませんでした。この「さばきを受ける」とは“みずから倒れる”という意味です。キ リストという唯一の土台を持たない教会は、もはや教会ではなく、人間の集団にすぎないのですから、そ れは“みずから倒れる”ほかはないのです。その意味では、パウロはここに確信をもって福音のみを宣べ 伝えています。いささかの揺るぎも無いのです。  さて、改めて今朝の御言葉の最初の7節を読みますと、パウロはそこに「あなたがたはよく走り続けて きたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか」と語っています。このことと、たとえば10節の 最初の言葉「あなたがたはいささかもわたしと違った思いをいだくことはないと、主にあって信頼してい る」という言葉は、いっけん矛盾していると感じられるのではないでしょうか。一方ではパウロは、ガラ テヤ教会の混乱に対して「途方にくれて」いる。しかしもう一方ではパウロは、そのガラテヤ教会を、キ リストという磐石の岩の上に立つ「揺るぎない群れ」として心からの信頼をもって観ている。どちらがパ ウロの本心なのでしょうか。ここでお世辞や願望を語っているのでしょうか?。  決してそうではありません。ガラテヤの諸教会にはパウロが「途方にくれ」ざるをえない厳しい現実が ありました。「偽教師」たちの「勧誘」に惑わされ、キリストの福音から離れてしまう人々が大勢いたので す。「あなたがたは、よく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか」と嘆かざるを えない厳しい現実があったのです。しかしそれにもかかわらず、否それゆえにこそ、ガラテヤの教会、そ して、ここに建てられている私たちの教会もまた、永遠にキリストの御手の揺るぎなきご支配のもとに建 てられていることを、パウロは(聖書は)しっかりと見据えています。教会の唯一の「かしら」は、十字 架と復活の主なるイエス・キリスト以外にありえないことを告白してやまないのです。  そのようにして改めて10節を見るとき、パウロがここに「あなたがたはいささかもわたしと違った思 いをいだくことはないと、主にあって信頼している」と語っていることの大切さを心に留めずにはおれま せん。パウロとガラテヤ教会の関係は「主にある信頼」でした。人間的な誼(よしみ)を機軸とする関係 ではなく、キリストのみを「主」と告白する聖なる公同の使徒的なる教会の交わり、すなわち「聖徒の交 わり」そのものでした。ですから「信頼している」というのは、キリストの恵みの確かさの中でのみガラ テヤの教会を観ているということです。それゆえにこそガラテヤ教会の諸問題と真正面から取り組みえた のです。神がなしておられる大いなる救いの出来事のもとにあって、いま私たち全ての者に豊かに与えら れている、キリストの限りない救いの御業のゆえに、その御業がいまガラテヤの諸教会において現われて おり、主が完成させて下さることをパウロは確信することができました。「主にあって信頼している」とは そのような意味なのです。  ガラテヤ教会の問題は、キリストのみを唯一の「かしら」とする教会の姿が揺らぎかけていた問題でし た。ガラテヤの人々にとって、教会から離れる理由は幾らでもありました。私たち人間は、自分を中心と するならば、教会の中に少しでも面白くないことがあれば、どんな些細なことでも教会から離れる理由に なるのです。どうもパウロ先生の説教は堅くて難しい、どうもガラテヤ教会の礼拝堂は暑くてたまらん。 そんなことも理由になるのです。家が遠いから教会に通うのが大変だとか、もっと交わりが欲しいとか、 そんなことも理由になりました。いわばそのような浮草のような教会生活をしていたガラテヤの人々でし たから「偽教師」たちの「勧誘」に乗せられたのも当然の成行きでした。  しかし、真の教会から離れることは、主なるキリストから離れることです。もしキリストから離れるな ら、信仰はもはや信仰ではなくなり、信仰生活も自己満足の手段となり、形骸化してしまうでしょう。母 なる教会を失うとき、父なる神が見えなくなるのは当然なのです。御言葉によって打ち砕かれ、変えられ るのではなく、自分の人間的な満足だけが中心になるとき、そこには喜びも平安も慰さめもありません。 まさにパウロが今朝の7節で語ったことはそれでした。「あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが 邪魔をして、真理にそむかせたのか」。  箱根駅伝をじかにご覧になったことがあるでしょうか?。選手たちはみな目標をめざして懸命に走りま す。区間ごとに襷を次の選手に渡してゆきます。この“襷を繋いでゴールをめざす”ランナーの姿に、私 たちの信仰の歩みも喩えられるのです。私たちは使徒伝来の「キリスト告白」という襷を主から受けた者 として、信仰の生涯を礼拝者として走り抜くのです。そして続く世代の人々に「キリストによる罪の贖い」 という永遠に確かな救いの喜びを受け渡してゆくのです。  パウロ自身、自分をそうした駅伝のランナーに譬え、ピリピ書3章13節にこう語りました。「兄弟たち よ、わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、 前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下 さる神の賞与を得ようと努めているのである。だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考え るべきである」。  このパウロが言う「全き人たち」とは、キリストのみを「かしら」とする教会に連なって生きる私たち のことです。私たちが完全なのではありません。パウロも「自分がすでに得たとか、達したとか言うので はない」と申しています。「ただ、捉えんとして身を伸ばしている」のです。キリストに贖われた喜びと自 由、幸いと感謝、勇気と希望のもとを、使徒的な信仰という襷を繋いで、永遠の御国と言う目標を目ざし て走るランナーに、私たちの姿は譬えられるのです。  そのランナーである私たちにとって最も大切なことは、目標を見失わないことです。正しい教理という コースを逸脱しないことです。もし箱根駅伝のランナーが「この道は嫌だ」と言って別の道に逸れたなら “襷を繋ぐ”ことはできません。そうではなく、私たちは“キリストにありて”使徒伝来の信仰の道を走 り抜くのです。「夏過ぎてカントヘーゲルなにかあらむ登るは古き十字架の道」(内村鑑三)。そこでこそ私 たちは本当の「伝道」のわざを担うことができる。この国の愛する同胞たちに、キリストの限りない恵み と祝福を担いつつ走る群れとされています。勧誘や折伏などではない。キリストの救いと祝福のみを宣べ 伝え、この葉山の地に、湘南の地に住む全ての人々に、ここに真のキリストの身体なる教会がある。あな たも、キリストの生命の祝福のもとに招かれていると、喜んで証しをしてゆく、そのような群れとして、 主は私たちをお立てになり、遣わして下さるのです。