説    教      詩篇62篇1節    ガラテヤ書5章2〜6節

「信仰によれる義」

 ガラテヤ書講解(35) 2013・08・11(説教13321496)  本日の礼拝にあたり、私たちはガラテヤ書5章2節以下の御言葉を与えられました。ガラテヤ書の中で も特に大切な箇所のひとつです。パウロは愛するガラテヤ教会の人々に対して、私たちが救われて新たに されるのは、それはただキリストの贖いの恵みによるという福音の奥義を明らかにし、律法主義の功績論 に対して明確な「否」を唱えているのです。  よく歴史の書物などで、私たちプロテスタント教会は16世紀半ばに誕生した「新しい教会」であると 書かれています。それは正しくありません。なぜなら宗教改革運動とは、教会本来のルーツである初代教 会(古カトリック教会)という根に、教会を再び復帰させようとした「教会復帰運動」であったからです。 新しい教会を作ろうとしたのではなく、教会を本来のキリストの教会に修復しようとした「教会修復運動」 でした。だから宗教改革のことを英語で「リフォーメーション」と言うのです。教会をリフォームしたの です。  そこで、信仰の本質を巡って中心になった事柄も、今朝のガラテヤ教会が直面したのと同じ「信仰によ る義」の問題でした。ごく単純化して申しますなら、私たちプロテスタント教会(特に改革長老教会)が 主イエス・キリストによる「信仰のみ」を“救いの根拠”として掲げたのに対して、ローマ・カトリック 教会は「いやそれは違う、聖人の功徳が人間を救うのだ」と反論した、そこから宗教改革が始まったわけ です。このあたりの神学議論はかなり複雑ですが、要するにローマ・カトリックの主張は、人間の救いは 神の側からの恵み(つまり「信仰のみ」)では不十分であって、その上に人間の「功績」が加わってはじめ て「救い」になるのだという、一種の「神人協力説」でした。  そうした議論において大切なのは何度でも聖書に立ち帰ることです。聖書が語る福音は「神の恵み」と 「人間の功績」(メリット)の二本立てなのか?。答えは否です。つまりローマ・カトリック教会は聖書に は無い余計なもの(間違った教え)を教会の中に持ちこんでしまった。それが皆さんも良くご存じの「免 罪符」に繋がったわけです。免罪符の正式名を「贖宥券」(しょくゆうけん)と申します。「贖宥」とは「人 間を救うのは最終的には人間の功績である」という間違った教えです。この福音に反する功績至上主義 (meritocracy)に対して、ルターやカルヴァンは「それは聖書の福音ではない」と厳しい非難の声を上げ たわけです。  さて、そこでこそ私たちは、聖書が語る救いの道を(救いの教理を)正しく信じ告白する群れであらね ばなりません。聖書が語り、今朝のガラテヤ書5章2節以下が告げている「信仰による義」つまり、私た ちはただキリストを信ずる信仰によってのみ「義とされる」(救われる)という福音は、言い換えるなら、 主なる神は、私たちを救おうとなさるときに、私たちの状態(私たちの功績)を判断材料とはなさらない、 計算に入れたまわない、ということなのです。つまり聖書が語る「福音」は、私たち人間は功績や状態や 外面によってではなく、神ご自身の恵みによってのみ救われるという音信であり、この救いに対する応答 が「信仰」なのです。  これは、まことに有難いことであり、私たちはこの救いによって、はじめて本当の自由と平安を得るの です。安心立命を得るのです。逆に申しますと、人間は自分の「功績」を問われる限り決して安心立命を 得ることはない。アウグスティヌスが申しますように、私たちは「ただ神に立ち帰ってのみ平安を得る」 のです。  なによりも、今朝のガラテヤ書5章2節以下の福音が明確に私たちに語っています。主イエス・キリス トにおいては、神は私たち人間の「功績」を全く問題となさらず、たとえ私たちがどうあろうが、私たち をその存在のままに徹底的に愛したもう。それが聖書が語り告げている神の愛(アガペー)です。言い換 えるなら、私たち人間の愛(エロース)が「価値追求的な愛」であるのに対して、キリストにおける神の 愛は「価値創造的な愛」なのです。ルターはそのことを、宗教改革が始まった1518年の「ハイデルベル ク宣言」第28条においてこう語っています。「神の愛は対象を価値判断せず、むしろ愛の対象を創造する ものなり」。  これは大変な洞察でして、これを語っただけでもルターは偉大な神学者です。神の愛は、私たち人間の 愛とは違い「対象への価値判断」によって成立するものではないというのです。つまり対象に誘発される 愛(受動的な愛)ではなく、完全な自由な(主体的な)愛をもって、私たちを極みまでも愛したもう、そ れが私たちに対する神の愛です。そこで、私たちがキリストの福音を信じるとは、この神の愛の確かさを 信じることなのです。私たちがキリストの福音に生きるとは、この神の愛の確かさに生かされた人生を歩 むことなのです。  そこでこそ「福音」によって示されたキリストの愛は、私たちが真の「愛の行い」に生きる原動力とな るのです。ですから信仰は、今朝のガラテヤ書5章6節にあるように、かならず「愛によって働く信仰」 となるのです。この「愛によって働く信仰」の「愛」とは、キリストにおける神の永遠の愛です。対象(の 状態)によって変化する受動的な愛ではなく、私たちをあるがままに愛し、私たちに限りない価値を与え て下さる、神の永遠の愛であります。この神の愛を「福音」として、すなわち「神の義」(救い)として、 私たちは与えられているのです。  それならば「信仰は信仰、行いは行い」というように、別個に扱うこと自体が間違いなのです。信仰に よってキリストを受け入れ、キリストに結ばれ、キリストの愛に生かされたなら、私たちはそのとき、本 当にエゴイズムを打ち砕かれ、たとえ人の目には小さくても、本当の愛に生きる勇気を与えられるからで す。相手の状態によって誘発されたり消えたりする愛ではない。相手が自分にとって「どれだけ価値があ るか」ではなく、相手そのものを愛し続ける愛へと、私たちは変えられてゆくのです。  私たち人間にとって、偽りなき真実の愛に生きることほど難しいことはありません。しかし、キリスト における神の限りない愛に生かされ、そのキリストを信じて教会に連なり、礼拝者として生きるとき、私 たちはいまここにおいて、キリストにおける神の永遠の愛に堅く支えられつつ生きる者とされるのです。 実はそれ以上に大切なことはないのです。まず神の永遠の愛を信じ、その愛に生かされてこそ、はじめて 私たちは真実な愛のわざに生きうる者とされるからです。そのために、キリストご自身が、私たちの罪を 負うて十字架の道を歩まれ、私たちのためにご自分のいっさいを献げ尽くして下さったのです。このキリ ストの事実こそ福音そのものなのです。  マタイ福音書18章21節以下に、主イエスが語られた「一万タラントの借金の譬」があります。あると ころに「一万タラント」の借金をしている者がいました。「一万タラント」とは今日の通貨で600億円に もなる途方もない金額です。とうてい私たちの「功績」で返済できる額ではない。それは神に対する私た ちの罪の負債を現しています。そこで王はこの人が負債を返せないのを憐れみ、この莫大な負債を帳消し にしてやった。つまり600億円の負債を王が代わって返済してゼロにしてくれた。普通なら喜び感謝せね ばなりません。ところが借金を帳消しにして戴いたこの人は、その帰り道に自分が「百デナリ」(5万円) を貸している友人に出会い、友人がその5万円を返せないのに腹を立て、友人に乱暴狼藉を働き、裁判所 に訴えたのでした。  主イエスは問われるのです。それは正しいことであろうか?。あなたは神の前に膨大な負債を赦された 者ではないか。何よりも私たちは、はっきりと覚えねばなりません。この慈悲ぶかい「王」こそ十字架の 主キリストなのです。キリストが十字架において私たちの膨大な「負債」を代わって返済し、全て帳消し にして下さった。私たちの「功績」など到底追いつかない「負債」を、十字架の主キリストが代わって弁 済して下さった。この事実を「主よ、われ信ず、信なきわれを助けたまえ」と祈って「アーメン」と受け 入れることが「信仰」なのです。「信仰によりて義とせらる」とはそういうことです。  それならば、まさに「信仰によりて義と」せられたる私たちが、その「義」(十字架の主による救い)を 感謝し有難いと思うなら、友の負債を許しすのは当然のことではないでしょうか。私たちは「主の祈り」 において「われらに罪をおかす者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈ります。これ は、自分が他の人の罪を許すから、その許しの量に応じて私の罪をも許して下さいという、神さまと天秤 棒の取引きをする祈りではありません。自分が許した功績の目盛に応じて私の罪をも許して下さいという 祈りではない。そうではなく、私はまずキリストにおける無限の罪の赦しを戴いている。キリストの十字 架による全き罪の贖いに生かされている。その私が「信仰によれる義」に生かされて、他者をも赦す真の 赦しに生きることができますように、という祈りなのです。主よ、この私をして、あなたの限りない赦し の恵みに応えて生きる僕として下さいという祈りなのです。  私たちは十字架の主がなして下さった救いの御業を「この私のための救いの福音」すなわち「神の義」 として信じ、受け入れ、そこに生かされて、はじめて私たちもまた、本当の「愛の行い」に生きる者とさ れてゆく、その喜びと感謝を使徒パウロは、ガラテヤの教会にはっきりと示しつつ、そこにあらゆる律法 にまさる本当の「義」があることを、喜びをもって告げているのです。