説    教     エレミヤ書32章39〜41節  ガラテヤ書5章1節

「解放と自由」

 ガラテヤ書講解(34) 2013・08・04(説教13311495)  今朝、私たちはガラテヤ書の中でも、特に喜ばしい御言葉を与えられています。ガラテヤ書 5章1節です。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。 だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」。この御言葉は私たちに 次の3つの音信(おとずれ)を伝えています。第一に「キリストは、私たちに真の自由を与え るために、私たちを罪から解放して下さった」ということ。第二に「それゆえ私たちは、堅く キリストの贖いのもとに立つ者とされている」ということ。そして第三に「私たちは主にある 真の自由に生きる者として、二度と奴隷のくびきに繋がれてはならない」ということです。  まず第一の音信(おとずれ)を顧みましょう。「キリストは、私たちに真の自由を与えるた めに、私たちを罪から解放して下さった」。パウロは愛するガラテヤ教会の人々に、これこそ 福音の中心であると告げているのです。ガラテヤ書が取り上げている最も大きな問題は“人間 の真の自由とは何か”という問題です。そこで、この問題を解く鍵を、パウロは人間論ではな くただ神の言葉に求めます。まず聴くべきは神の言葉なのです。幾ら人間を詮索しても、そこ から「本当の自由」は出てこないからです。  真の自由を失った私たちを魂の病人に譬えるなら、病人に対してどんなに治療方法を訊ねて も病人は困るだけです。病人は自分の症状(辛い、苦しい、痛いなど)を訴えることはできま すが、どうすれば治るかを知るのは病人ではなく医者です。病気の治療は専門医の手に委ねな くてはなりません。人間の「罪」を治療できる魂の専門医は神の御子イエス・キリストのみな のです。ただ主イエスのみが私たちの実情を知りたまい、正しい治療を行いたもうのです。そ れがこの5章1節に響き渡る第一の福音の音信です。「自由を得させるために、キリストはわ たしたちを解放して下さったのである」。この「解放」とは「罪」からの解放です。人間とし て生きるかぎり、本当の自由を求めない人はいません。不自由を本能的に嫌い、自由を求める のが人間です。しかしそうでありながら、私たち人間はみな例外なく“罪の奴隷”でしかない ことを、主イエスは明確にお示しになりました。すなわちヨハネ伝8章34節の御言葉です。「よ く、よく、あなたがたに言っておく、すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。そして、奴隷はい つまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたがたに 自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」。  ここに人間の根本的な矛盾と悲惨があるのです。求めている自由は少しも得られず、かえっ てますます“罪の奴隷”となっている私たち(また世界)の姿にこそ、人間の本質的な病があ るのです。それならば、主イエスは私たちをその病から癒し「罪の奴隷」状態から解放して真 の自由を得させるために、根本的な治療を施して下さいました。すなわち主は私たちの罪をこ とごとくご自分の身に担われ、十字架にかかられることによって、私たちが支払いえない「罪 の代価」を全て支払って下さり、主を信じて教会に連なって生きる私たちに「真の自由」を与 えて下さった。これを聖書で「あがない」と言います。「あがない」を意味する元々のギリシ ヤ語“アポルトローシス”は「代価を払って奴隷を解放する」という意味です。主が私たちの 全存在をかき抱くように守り、支え、祝福して下さるのです。「あがない」とはそういうこと です。  まさしくその、キリストによる「あがない」の限りない恵みを知る神の僕たるガラテヤ教会 の人々に、使徒パウロは第二の音信(おとずれ)を告げているのです。「それゆえ私たちは、 堅くキリストの贖いのもとに立つ者とされている」。聖書の言葉は全てそうですけれども「何々 しなさい、そうすればあなたは救われる」ではないのです。条件つきの救い、人間の行為を前 提とした救済ではない。そうではなく「あなたはキリストによって救われた者である、それゆ えに、いまこのように生きる自由と幸いを与えられている」というのが福音の内容です。キリ ストの恵みという直説法が、新しい生きかたという間接法の前提になっているのです。  そのように読みますと、このガラテヤ書5章1節に「だから堅く立って」とあるのは「堅く 立て」という誡めではなく、むしろ「堅くキリストの贖いのもとに立つ者とされている」とい う、主による救いの確かさなのです。旧約聖書の十戒も同じです。十戒は「何々すべからず」 という禁止条項(消極的道徳訓)などではなく「神の民とされたあなたは、真の自由の歩みが できる」という恵みの宣言なのです。今日の御言葉で言うなら、私たちのために「キリストは 十字架にかかって、贖いとなって下さった」その恵みのゆえに、いま私たちは「堅くキリスト の贖いのもとに立つ者とされている」のです。この今の救いが大切です。なぜなら「堅くキリ ストの贖いのもとに立つ」ことは具体的な「しるし」を伴うからです。それは、私たちがキリ ストみずから贖いたもうた、唯一の聖なる公同の使徒的なる教会に、いつも連なる者とされて いるという恵みです。もっと端的に言うなら、私たちがいまここに礼拝者として生かされてい ること、御言葉の祝福と養いのもとに一つとされていること、この事こそ、私たちが「堅くキ リストの贖いのもとに立つ者とされている」ことの明確な「しるし」なのです。礼拝は私たち が神の国の永遠の喜びと幸いに、いま歴史の中であずかる者とされていることです。人間が人 間たりうる本当の自由がそこにあるのです。世界が世界たりえ、歴史が歴史たりうる、本当の 祝福がここに輝いているのです。  それゆえにこそパウロは、最後に第三番目の音信を私たちに伝えます。それは「私たちはキ リストによる真の自由の喜びに生きる者として、二度と奴隷のくびきに繋がれてはならない」 という音信です。これは「(キリストによる贖いの恵みに)堅く立って」という御言葉とひと つの音信(おとすれ)であるゆえに、やはり同じように真の自由への喜びの告知なのです。不 思議なことがあります。この手紙を貰ったガラテヤの諸教会は、使徒パウロから伝えられた、 キリストのみを「主」とする真の福音から離れて「異なった福音」へと落ちてゆこうとしてい たのではなかったか。言い換えるなら、このときガラテヤの諸教会は、まさに“再び奴隷のく びきに繋がれそうになっていた”のではなかったでしょうか。  第二次世界大戦中、アウシュヴィッツの悲劇を経験したヴィクトール・フランクルという精 神病理学者が「夜と霧」という著書の中で自らのある経験を語っています。それは強制収容所 が解放されたとき、待ち焦がれていた自由が与えられたにもかかわらず、人々は「どうして良 いのかわからなかった」と言うのです。そしてなんと全ての人々が、日没と共に再び忌まわし い強制収容所の中に戻ってきたと言うのです。フランクルはそこで「人間は実は真の自由に耐 えられない存在なのだ」と語っています。それと同じことをガラテヤ教会はしていたわけです。 キリストによって罪から解放されたにもかかわらず、十字架の主の「贖いの恵み」から離れて、 再び律法の、人間の正しさや清さを誇りとする生活へと、逆戻りしつつあったのです。  それならば、パウロはここに理想と現実の衝突を語っているのでしょうか?…そうではあり ません。アウシュヴィッツの人たちは、解放されても行くあてがありませんでした。それはそ のまま現代社会の状況です。形式的な自由はありますが、そこでは人間は依然として魂の無政 府状態(あるじなき羊の群れ)のままなのです。しかし教会に連なる私たちはそうではないの です。私たちは十字架の主へと解放され、真の神に向けて自由にされた者たちなのです。罪か ら解放された私たちは、キリストに従う幸いと自由に生きるのです。キリストの身体に連なる 私たちは、もはや自由を「罪の働く機会」とはせず、キリストに従い神の栄光を現わす僕とさ れているのです。人間の、また世界の、本当の自由はそこにあるのです。キリストの身体なる 教会に連なって生きることによって、全ての者が新しい自由の生命を生きることができる。罪 からの解放とは、もはや死の力さえ私たちを支配しえないということです。生きるにも死ぬに も、私たちは主の贖いのもとに変わることなく立ち続けるのです。  たとえ信仰に無理解な人々の間にあっても、私たちはその人たちを愛し受け入れ、共に生き る幸いと喜びを与えられています。他の宗教の人々をも尊敬し、その違いを認めて尊重し、そ の人々のためにも神の祝福を祈る者とされています。試練や悩み、悲しみの中にあっても、な おそこで御国の喜びの歌声に、私たちの讃美の声を合わせる者とされています。いま私たちと 共にいまし、永遠までも贖い主でありたもう、主イエス・キリストの恵みのご支配から、私た ちは決して、永遠に、離れることのない者とならせて戴いているのです。主の復活の身体であ る教会に連なり、ここに本当に「キリストによる真の自由の喜びに生きる者として、二度と奴 隷のくびきに繋がれることはない」者とされていることを覚え、感謝と讃美をもって、新しい 一週間の旅路へと遣わされて参りましょう。