説    教    創世記21章8〜13節   ガラテヤ書4章28〜31節

「汝らは約束の子なり」

 ガラテヤ書講解(33) 2013・07・28(説教13301494)  使徒パウロは愛するガラテヤの諸教会に、否、ここに連なっている私たち全ての者に、力強く主イエ ス・キリストにある救いの音信(福音)を語り告げています。今朝のガラテヤ書4章28節です。「兄弟 たちよ、あなたがたは、イサクのように、約束の子である」と。これは、これまでガラテヤ書4章21 節から語り続けてきた事柄の、まことに慰めに満ちた結論であり、恵みによって神の子(御国の民)と された者たちへの真の自由の宣言なのです。  「兄弟たちよ、あなたがたは、イサクのように、約束の子である」。パウロはすでに4章21節以下の 御言葉の中で、旧約聖書創世記16章の“アブラハム物語”を引用しつつ、大胆適切な聖書解釈をして います。すなわち奴隷の女ハガルとその子イシマエルを「律法主義者」になぞらえ、自由の女サラとそ の子イサクを「キリストに贖われた全ての人々」になぞらえていることです。これはアブラハムを自分 たちの祖先だと主張していた「律法主義者」たちにとって耐え難い屈辱の言葉でした。それを敢えて承 知の上で、パウロはここに21節に「律法の下にとどまっていたいと思う人たちよ。わたしに答えなさ い」と、悔改めを促す鋭い問いを投げかけているのです。  それならばその問いは同時に、ここに連なる私たちにも同様に投げかけられているのではないでしょ うか。つまり私たちはこれらの御言葉を読むとき、迂闊にも当然のごとく自分たちは「自由の女サラと、 その子イサク」に連なる者であると考えてしまうのではないか。言い換えるなら、ガラテヤ書に現われ ている律法主義の問題は遠い2000年前の過去の出来事であって、いまの私たちとは何の関係もないの だと嵩を括り、自分を御言葉の外に置いていることはないでしょうか。  もしそうならば、今朝の御言葉はその私たちに鋭い悔改めの言葉として投げかけられています。「兄弟 たちよ、あなたがたは、イサクのように、約束の子である」。私たちはこの恵みの宣言をいまどのように 聴いているのかということです。当然のごとくに聴きうる私たちではないはずです。ただ私たちのため に人となりて世に降られ、全人類の罪を一身に担われて十字架にかかりたもうた主イエス・キリストの 恵みによってのみ、私たちは「イサクのように、約束の子」(贖われた神の民)とならせて戴けるのです。 キリストの贖いの恵みに連なることなしに(主の教会に結ばれ、主の生命に与ることなくて)いかなる 意味においても私たちは“自由の民”ではないからです。  最後の預言者バプテスマのヨハネはこのことを荒野においてこう宣べ伝えました。マタイ伝3章7節 以下です。「ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼 らに言った、『まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教 えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中 で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すこ とができるのだ』」。まことに洗礼者ヨハネらしい、大胆にして力強い福音の告知ではありませんか。私 たちは「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみる」こともできない者たちな のです。  私たちはみな例外なしに、ハガルの子イシマエルに連なる者でしかない。罪と死の支配から逃れうる 存在ではないのです。先日の新聞に考えさせられる記事がありました。最近発表されたある調査によれ ば、全世界の人口の僅か1%の人間が全世界の富の約半分を独占しているというのです。それを2%に まで拡大すれば富の独占率は6割以上に達するそうです。その逆に全世界の人口の90%と言われる貧困 層が所有する全ての富を集めても全世界の富の僅か1%にしかならないというのです。これは統計上の 数字ですから、これだけで具体的な問題の全てが明らかになるわけではないのですが、やはり私たちは 考えずにはおれません。ここにもまた私たちの罪の姿が現われているのではないか。おのれのみを富ま しめ、他者に与えんとしない私たちの姿が、この数字を生み出しているのではないでしょうか。  そこで、あの取税人ザアカイのように、富の独占所有だけを人生の目的としていた人が、招きたもう キリストに出会い、キリストを自分の家に賓客として迎え入れたとき、恵みの御言葉によって根底から 打ち砕かれ、キリストを信じ、喜んで主に従う者に変えられてゆきました。エリコの町の人々は主イエ スが罪人の頭・取税人ザアカイの家の客となったことを非難しましたが、主イエスはザアカイを祝福さ れて「今日、救いがこの家に来た。この人もアブラハムの子なのだから。人の子が来たのも、失われて いた者が見いだされ、死んでいた者がよみがえるためである」と言われたのです。このザアカイは罪と 死に支配されていた罪の奴隷でしたが、キリストの贖いによって真の自由に生きる者とされたのです。 アブラハムの子(約束の子・イサク)に連なる者とされたのです。  その一方で「自分たちの先祖はアブラハムである」と誇り、律法による義すなわち自分自身の清さと 正しさに固執していた律法主義者たちは、キリストを信じることを拒み、聖書の言葉を我田引水に解釈 し、自分たちこそ人生と世界の「主」であることを誇示しました。すなわちヨハネ伝8章58節に「よ く、よくあなたがたに言っておく。アブラハムの生れる前からわたしは、いるのである」と言われた主 イエスの御言葉を彼らは信せず、逆に主イエスを石で打ち殺そうとしたのでした。彼らは自分たちが「ア ブラハムの子」であり自由な者であると豪語しつつ、実は罪と死の支配の下にある奴隷に過ぎなかった のです。  そこで、今朝の御言葉は改めて私たち一人びとりに問うています。否、今朝の御言葉は私たちを唯一 の救いの御名へと導きます。問いたもうのはこの唯一の御名を持ちたもう主イエス・キリストです。「兄 弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である」これをいま、あなたに与えられている測 り知れぬ真の自由の福音として信じるか否かと、主が私たちに訊ねておられるのです。私たちは主のこ の問いに対して「主よ信じます。信仰なきわたしをお助け下さい」(主よわれ信ず。信なき我を助けたま え)と心からなるキリスト告白をなす者でありたいと思います。来たりたもう主をあのザアカイのよう に、私たちの心の玉座にお迎えする者でありたいのです。  さらに使徒パウロは、今朝の29節以下で驚くべきことを語ります。「しかしその当時、肉によって生 れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である」と言うのです。パウロが語るの はこういう意味です。かつて「肉」によって(罪の内に罪をもって)生まれたイシマエルが「神の霊」 によって生まれた「約束の子」イサクを迫害したように、いまでも同じ迫害が続いているのではないか と言うのです。言い換えるならこういうことです。もし現代において、私たちが信仰による多くの困難 を経験しているのなら、それは私たちが「約束の子」イサクに連なる者とされていることの確かな証拠 なのだということです。  これを語るパウロの心には「苦しみに遭いたるは我によきことなり」との詩篇119篇71節の御言葉 がありました。同じようにパウロはピリピ書1章29節において「あなたがたはキリストのために、た だ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている」と語っています。この「賜 わっている」とは「恵みとして戴いている」という意味です。私たちはキリストを信じる幸いを与えら れているだけではなく、キリストのゆえに御国の戦いに参加する喜びと光栄をも「恵み」として賜わっ ているのだとパウロは言うのです。  誕生して間もないガラテヤの諸教会は、律法主義という真に困難な問題に直面していました。その問 題によって教会は多くの試練を受けました。しかしパウロは、それはガラテヤの教会が本当のキリスト の教会であること(キリストに贖われた群れであること)の証拠であるとはっきり語っているのです。 それならば、そこには神の約束が「約束の子」たちの上に必ず実現するではないか。第一ペテロ書4章 12節以下にこうあるとおりです「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のよ うな試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦 しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあ ふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。その時には、 栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである」。また、同じ第一ペテロ書4章16節にはこうもあ ります「クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によっ て神をあがめなさい」。5章10節にはこうもあります「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き 入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不 動のものとして下さるであろう。どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン」。  パウロは、十字架の主イエス・キリストの救いの権威を持って明確に告げています。今朝の4章30 節です。いまもなお私たちは歴史の中で様々な困難の内にあるかもしれない「しかし、聖書はなんと言 っているか。『女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない』 とある。だから兄弟たちよ、わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである」。この率直な 御言葉のうちにいかに限りない慰めと自由の福音が宣べ伝えられていることでしょうか。「女奴隷とその 子とを追い出せ」とあります。この「女奴隷とその子」とは私たちの「罪」のことなのです。罪人なる 私たちのことなのです。古き罪のおのれです。まさにその私たちを贖って「神の民」として下さるため に、主は十字架にかかって下さった。「女奴隷とその子」を「追い出し」て下さったのです。そこに確か な救いがあるのです。  それならば、今や十字架の主キリストの贖いの恵みによって、私たちはいまそれら全てのものに「勝 ち得て余りがある」(ローマ書8:37)と宣言しているのです。私たちが罪と死に勝利するのではない、 そんな力は私たちのどこにもありません。ただキリストの絶大な勝利と復活の生命に、私たちはあるが ままに連なる者とならせて戴いている。いま私たちがそのような群れとしてここに建てられ、生かしめ られ、困難の中にありましても、祝福を受けて世に遣わされているのです。だからここには実に朗らで 青天白日のごとき勝利の宣言が響きわたっています。すなわち「だから、兄弟たちよ、わたしたちは女 奴隷の子(罪と死の支配を受けている者)ではなく、自由の女の子(キリストに贖われた自由の民)な のである」。  パウロはいま、自分と愛するガラテヤの全ての人々、そしてここに連なる私たち全ての者を「わたし たち」と共通の言葉で結びつつ、ともに同じキリストの救いの恵みにあずかり、真の自由、罪からの自 由と勝利の生命を与えて下さった主なる神の御名を讃美してやまないのです。私たちはみなここに神の 霊によって「約束の子」とされている者たちなのです。「追い出される」べき罪は主が十字架で滅ぼして 下さいました。私たちはいまその十字架の主にありて、永遠の祝福のうちに堅く守られ、立てられ、支 えられているのです。隣人にも神の愛と祝福を告げるために世に遣わされる私たちとされているのです。 主にある喜びと自由と朗らかな心をもって、愛のわざに生きうる私たちとされているのです。なぜなら 「わたしたちは自由の女の子」(教会に連なる者たち)だからです。私たち全ての者がこの福音のもとに 堅く立つ者とされていことを感謝をもって覚えつつ、この新しい一週間の日々へと遣わされて参りまし ょう。