説    教    詩篇27篇10〜11節   ガラテヤ書4章12〜18節

「我に倣うべし」

 ガラテヤ書講解(29) 2013・06・30(説教13261490)  今朝はガラテヤ書4章12節から18節までの御言葉を拝読しました。かなり長いところです が、今朝はその12節のみに焦点を合わせて、ともに福音の真理にあずかって参りたいと思い ます。すなわち12節に「兄弟たちよ、お願いする。どうか、わたしのようになってほしい」 とあることです。ここにガラテヤの諸教会の全ての主にある兄弟姉妹たちに対する、使徒パウ ロの心からの願いがありました。「どうか、わたしのようになってほしい」という願いです。 私たちはこれをどのように聴くのでしょうか。「わたしのようになってほしい」という言葉を どう受け止めるのでしょうか?。  「学ぶ」という日本語は「真似をする」という意味の「まねぶ」という言葉から来ているそ うです。漢字で書くなら「模倣」の「倣」という字を当てます。今日ではあまり用いられない 漢字ですが、これは本来「ある人に自分を委ねて正してもらうこと」を意味します。ある人の 言葉や行いをそのまま、自分の生活にあてはめてゆくことです。文字どおり「模倣」する。理 屈抜きに「真似をする」のです。  そこで、キリスト者である私たちの生活においても、このことは非常に大切なのではないで しょうか。私ごとですが、私は高校生の時にはじめて教会に通い始めました。そこで最初に出 会った森下徹造という牧師先生の姿に私は非常に感動し、決定的な影響を受けました。とても 地味な先生でした。いまから思い返しても、あれほど端正で地道な講解説教をなさる牧師先生 に私は未だかつて出会ったことがないように思います。御言葉のみを淡々と語り続けられた先 生でした。御言葉の力(神の御業)に信頼しきっておられた先生でした。  その森下先生がまだご存命中、私の後輩のある牧師が森下先生と同じ教区の教会に赴任しま した。その地区の牧師会の席上その後輩の先生は、自分はこれからこういう伝道をして教勢を 伸ばしてゆきたいという抱負を語った。それを黙って聴いておられた森下先生は最後に静かに こうおっしゃったそうです。「伝道に王道なし。伝道というものは人間の手練手管でなされる ものではありません。ただひとすじに御言葉のみを語り続けること、神の御言葉に絶対に信頼 すること、本当の伝道・牧会はそこからしか生まれません」。  私はこの話を森下先生の葬儀のとき、そり後輩の牧師から直接聴きました。そしていかにも 森下先生らしい言葉だと思いました。ちなみにその後輩の牧師先生は、いまでもその街の教会 で立派な伝道をなさっています。「自分はあのとき森下先生から、傲慢な心に鉄槌をくらった ように思った。牧師たる者の本当の姿を示されたと思います」とおっしゃっておられました。  私は今でも思う。もし私が最初に森下先生に出会っていなかったなら、私は今日牧師になっ ていなかったと思います。最初から最後まで謙遜かつ地道に伝道者たる道を歩み抜かれたこの 先達の姿を、私はいつも心の中に宝物のように秘めています。そしてこの先生に少しでも倣う 者になりたいと願っています。これは私だけではない、みなさんにもそれぞれに、そのように 心に仰ぐ信仰の先輩たちの姿があるのではないでしょうか。「倣いたい」と思う人がいるので はないでしょうか。  だからこそ、今朝の御言葉で使徒パウロが語っていることは、読む私たちをいささか戸惑わ せずにはおかない。パウロはここではっきりと「兄弟たちよ、お願いする。どうか、わたしの ようになってほしい」と語っているからです。いささか傲慢とも受け取れる言葉です。大胆だ と言ってもよい。パウロははっきりと「わたしに倣いなさい」と勧めている。では私たちは同 じように言えるでしょうか?。信仰の模範は自分の外にあると思っていた私たちが、一転して 「わたしに倣いなさい」と言うことは、非常に勇気のいること、否、ほとんど不可能だという 思いさえするのです。逆に「わたしに倣ってはいけない」というのだったら言える気がする、 それが私たちの偽らざる思いではないでしょうか。  しかし私たちの聞き違いでもなければ、聖書の翻訳の間違いでもありません。パウロはここ に確かに「どうか、わたしのようになってほしい」と心から願っているのです。ここに全ての ガラテヤの諸教会に対するパウロの心からの“祈り”がありました。これはどういうことなの でしょうか。パウロは無神経で傲慢な人間だったのでしょうか?。 自己評価が高い人間だっ たのでしょうか?。そうではありません。それを解く鍵は同じ新約聖書・使徒行伝26章29節 にあります。  使徒行伝26章は、使徒パウロがローマの総督フェストとユダヤの王アグリッパの前で、イ エス・キリストが「主」(救い主)であられることを証する場面です。パウロはここで創世記 から始まるかなり長い説教をしています。そして十字架にかかりたまいしキリストこそ全世界 の唯一の救い主であることを証しています。24節を見ますと、これを聞いていたフェストは大 声でパウロの説教を遮り申しました。「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえ を狂わせている」。これに対してパウロは静かに答えます。25節以下です「フェスト閣下よ、 わたしは気が狂ってはいません。わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです。王は これらのことをよく知っておられるので、王に対しても、率直に申し上げているのです。それ は、片すみで行われたのではないのですから、一つとして、王が見のがされたことはないと信 じます」。そしてパウロは、フェストの隣にいたアグリッパ王に対して信仰を問いました。「ア グリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」。これはこういう 意味です「もしあなたが旧約の預言者を信じているなら、まさに預言者を通して証されたキリ ストを、あなたは信じはずではないか」。  アグリッパは敬虔なユダヤ教徒で預言者を信じる人でしたが、もしここで「キリストを信じ る」と言えば、王たる地位をフェストに剥奪されるでしょう。そこで自分の社会的地位の失墜 を恐れたアグリッパは、逆にパウロを問い詰めることで自分を擁護しようとしました。すなわ ち28節に「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」と申し たのです。そこでパウロが答えたのが、今日の御言葉の鍵となる29節の言葉です。「説くこと が少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、 わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別で すが…」。  たった一度の説教で、パウロはその場にいる全ての人々に「わたしのようになってほしい」 と願っているのです。この説教のあとでパウロは処刑されるかも知れないのです。そんなこと は全く意に介していないのです。ただひたすらに願うことは、自分の説教を聴いた人たちがみ な一人残らず“クリスチャンになってほしい”ということです。それがパウロの言う「わたし のようになること」なのです。パウロはここに「このような鎖は別ですが…」と語っています が、実際にパウロの手足には鎖がはめられていたことでした。パウロは「このような鎖のつい た姿は別として、ここにいる全ての人たちが、みんな私のように、キリストを信じて生きる人 になってほしい」と語っているのです。  もはや、ここにいるまことの王は、フェストでもアグリッパでもありません。鎖に繋がれた 囚人パウロこそ本当の「王」でした。否、それさえも違うのです。まことの「王」はパウロが 証している“十字架の主イエス・キリスト”のみであります。パウロはここに、全ての人々に 「その唯一の王たる主を信ぜよ」と証しているのです。そのために「みな、わたしのようにな ってほしい」と願っているのです。「わたしを見て、わたしに倣いなさい」と願っているので す。パウロという人間・個人に「倣う」と言っているのではありません。パウロを生かしめて いるキリストの限りない恵みにまなざしを注いで欲しい、そして私と共に(わたしのように) キリストを信ずる者になって欲しいと願っているのです。パウロの祈りはそこにありました。  それと同じパウロの祈りに、私たちは第一コリント書4章16節でも接することができます。 愛するコリントの教会の人々、様々な困難の中にあり、信仰の確信を持てないでいる兄弟姉妹 たちに、パウロははっきりと告げています。「そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう 者となりなさい。このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、 あなたがたの所へつかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わ たしが至る所で教えているとおりに、あなたがたに思い起こさせてくれるであろう」。  ここでパウロが語っている「キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかた」とは「キリ スト・イエスに結ばれたわたしの新しい生活」という意味です。キリストの贖いのもとに立つ 者とされ、キリストの義を身に纏って生きる喜びの内に、キリストの御身体なる教会に堅く結 ばれて生きる、新しい喜びの生活です。その喜びを共にしていたコリントの教会の人々が、そ の喜びの中心であるキリストから離れてしまった。その人々に対してパウロは、私と共にキリ ストに堅く結ばれて生きる者になりなさいと勧めているのです。それが「キリスト・イエスに おけるわたしの生活のしかた」であり、今朝のガラテヤ書4章12節の御言葉で言うところの 「どうか、わたしのようになってほしい」という祈りなのです。  私たちは、キリスト者であるならば、誰でもが隣人に、親しい人に、家族に、友人に、キリ ストを紹介したいと願います。ようするに「伝道」したいと素朴に願っています。しかしその 願いはしばしば失望に変わってしまう。隣人や親しい友人にはもちろん、自分の家族にさえ伝 道ができない自分の無力さ、破れというものを、嫌というほど味わう経験をします。そのよう にして私たちはいつの間にか「わたしのようになってほしい」という言葉を発しえない消極的 クリスチャン、いわば「隠れクリスチャン」になってしまうのではないでしょうか。そしてそ の反動から、私たちはよく有名人の名を挙げて伝道の肩代わりをしてもらったりします。  以前にはよく“アフリカの聖者”アルベルト・シュヴァイツァーの名が挙げられたものです。 ごく最近ではマザー・テレサの名が用いられました。つまり私たちはそのようにして「私のよ うな駄目なクリスチャンではなく、マザー・テレサのような立派な人を見て下さい」と隣人に 対して言っているわけです。それは逆に言えば、私たちが隣人に対してこういっているのと同 じです。「私を見たってキリストは見えません。マザー・テレサやシュヴァイツァーを見れば、 キリストが見えるようになります」。それで良いのでしょうか?。パウロは、聖書は、そうで はないとはっきりと語っているのです。  隣人に、友人に、家族の人たちに、見てもらうのは、あなたという一個の弱い破れだらけの 人間で良いのだ。まさにその弱く、破れだらけのあなたを、どんなにキリストが愛し、贖い、 ご自分の生命を注いで生かしめて下さったか、そのキリストの満ち溢れる恵みを見てもらうな ら、そこに立派な伝道のわざが起こるのではないでしょうか?。パウロが「どうか、わたしの ようになってほしい」と語っているのはそういう意味です。そしてこの驚くべき言葉が私たち 一人びとりの「伝道の言葉」になる幸いを告げているのです。あなたも、あなたも、その「伝 道の言葉」を持つ人(キリストに結ばれ、キリストの贖いに生かされている人)ではないかと 告げているのです。  それは、マザーテレサやシュヴァイツァーも全く同じだったのです。彼らもまた私たちと同 じ人間です。決して特別な強い存在などではありません。主の御前には私たちと同じ罪人なの です。彼らはただ、自分の全生涯をそのあるがままに、キリストの御前に明け渡しただけです。 私の尊敬する森下先生もそのように生きた人です。キリストに「まねぶ」者となった。その彼 らの生涯、その存在そのものを通して現わされたキリストの溢れる恵みにこそ、私たちは心捉 えられるのです。目を見開かされるのです。そこにまごうかたなきキリストの愛の確かさを見 るのです。その姿を通してキリストを知る者とされるのです。そこにこそ私たちが喜んで生き うるキリストの証し人の姿がある。その道を、私たちもまた同じように歩むことができる。あ るがままに、弱く、脆く、破れ多きままにこそ、主が永遠に変わることなく、私たちの贖い主 でいて下さる。主がご自身の御業を現わして下さる。その道を私たちも歩むことができるので す。  「兄弟たちよ、お願いする。どうか、わたしのようになってほしい」。これこそ私たち一人 びとりに、主がいま与えて下さる祝福の言葉です。たとえ嘲られても、罵られても、鎖で繋が れても、キリストの祝福を伝えることができます。たとえいま愛する家族に信仰が理解されな くても、神はかならず私たちを通して、限りない祝福を家庭に、地域に、隣人たちに、現わし て下さるのです。だから心配しないで良い。主は私たち一人びとりを通してご自身の恵みを、 祝福を、神の愛の確かさを世に現わして下さるのですから。主の御手から私たちは決して離れ ことはないのです。  第一コリント書15章10節を読んで終わりましょう。「しかし、神の恵みによって、わたし は今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、 わたしは彼らの中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、わした自身ではなく、わたしと 共にあった神の恵みである」。