説    教    創世記3章20〜21節  ガラテヤ書3章23〜29節

「キリストを着る」

 焼津教会主日礼拝 2013・06・23(説教13251489)  今朝のガラテヤ書3章23節以下の御言葉は、私たちに「キリストを着る」ことの幸いと祝 福を告げています。私たちは日ごろ服を「着る」ということをほとんど無意識にしています。 衣服を身にまとう(着る)ことは私たちの生活の一部です。よく人間の生活を「衣食住」と申 しますが「着る」ことは人類だけです。ですから「着る」ことは単に必要からだけではない。 仮に人類の歴史を100万年とするなら、むしろ「着ていない」時間のほうが長かったかもしれ ません。私たちにとって「着る」ということは、単なる人間の必要以上のものなのです。  そこで、聖書は創世記2章のアダムとエバの物語において、その25節に「人と妻は二人と も裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と記しています。この「人」とはヘブライ語で 「アダム」という言葉です。アダムとエバは人類の歴史そのものを現しているのです。彼らが 「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とは、そこに「神の愛」(神の言葉)に対する 明確な応答があったからです。彼らは「裸」でしたが実は「裸」ではなかった。神の愛(神の 言葉)にしっかりと覆われていたのです。ほんらい人間とはそういう存在であったのです。  ところが次の3章になると、がらりと調子が変わって来るのです。アダムとエバは神の言葉 (神の愛)に叛き「善悪の知識の木」を取って食べる「罪」をおかしました。その結果3章7 節にはこうあります。「(すると)二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はい ちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。この御言葉が告げていることは、私たち 人間が「罪」によって神との関係を決定的に失ってしまった事実です。だから自分たちが「裸 である」とわかったのです。神の愛に「覆われて」生きる幸いを失った私たち人間は、それに 代わって虚しい「いちじくの葉」で自分を覆わねばならなくなった。だからもし「着る」こと が文化の基本なら、文化もまた「罪」の支配を免れていないことを創世記の言葉は示していま す。  さて、物語はそこで終わってはいません。皆さんもご存じのとおり、私たち人間の罪によっ て「失楽園」の出来事が起こります。アダムとエバはエデンを追われ「地の放浪者」となりま す。しかし3章21節を見ますと「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」と あります。つまり「いちじくの葉」などとは比較にならない強くて上等の「皮の衣」を主なる 神は私たちに与えて下さった。この出来事こそ、十字架の主イエス・キリストによる罪の贖い の恵みの「しるし」(私たちに対する恵みへの招き)なのです。人間の文化・人間の生活は、 キリストによってこそ本当に完成するのです。これは同じ創世記4章15節に、最初に殺人(兄 弟殺し)の罪を犯したカインが、その罪によって死ぬことがないように、主なる神が彼に「ひ とつの徴」を与えられた出来事と関連してきます。この「ひとつの徴」こそ「キリストを着る」 ことなのです。つまり創世記はその最初において、すでに「キリストを着る」ことを救いの(生 命の)福音として私たちに語っているのです。  そこで、改めて今朝のガラテヤ書3章26節以下に心を留めましょう。「あなたがたは皆、信 仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあ なたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、 奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにお いて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、ア ブラハムの子孫であり、約束による相続人です」。これは、なんという限りない喜びと感謝の 告白でしょうか。なんと大胆率直な私たちの救いの宣言でありましょうか。まずパウロはここ に「あなたがた(ここにいる私たちのことです)は皆、信仰により、キリスト・イエスに結ば れて神の子なのです」と語ります。あのエデンにおける祝福、神との完全な永遠の交わりが、 ここに回復され、成り立っているではないかと語るのです。その「ここ」とは主の御身体なる 教会においてです。  ここでパウロが語る「キリスト・イエスにある信仰」とは、個人的な信仰ではありえません。 そもそも信仰は個人的なものではありません。「私はこう信じる」という個々の信仰が集まっ てそこに教会ができるのではない。その逆です。パウロはここにはっきり「キリスト・イエス にある信仰」と語っています。「信仰」とは私たちが教会の告白する「イエスは主なり」との 信仰に連なることです。それをパウロは「神の子とされる」喜びとして語るのです。「子とさ れる」とは、私たち一人びとりが父なる神との永遠かつ完全な祝福と交わりの内に生きる者と されることです。その喜びと幸いがいまここに、まさしく私たちの内に、キリストの身体なる 教会によって実現されているではないかと言うのです。  そして、その喜びと幸いの内容は続く27節において、まさに「キリストを着る」恵みとし て語られています。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている からです」とあることです。ここで私たちは改めて「着る」ことの本当の意味に心打たれます。 「着る」とはあるがままの私たちが「着る」のです。この裸の「身に纏う」のです。「わが身 を覆われる」のです。私たちは神から離れた罪人なる存在でした。自分で神との交わりを(神 の愛への応答を)回復しようとしても、せいぜい「いちじくの葉」を綴り合わせるのみでした。 そこに人間の文化的営みの破綻があります。平和を願いつつもただの一日も対立や戦争のない 日を実現しえない世界の脆さがあります。しかし私たちはその弱さ脆さのあるがままに「キリ ストを着る」(キリストの義を身に纏う)者とされている。決定的な「しるし」を、十字架の 主を与えられている。主なる神は私たちを「あるがままに」キリストの御身体なる「教会」へ と招いていて下さるのです。  そこにおいてこそ、もはや私たちは「裸のまま」ではいません。「キリストの義」(キリスト による神との永遠の交わりと祝福)が私たちを完全に覆って下さるのです。ここにキリスト教 の福音の本質があります。福音の本質は「キリストを着る」ことだと言ってよいのです。私た ちは日ごとに新たに「キリストを着る」者として生かされている。その恵みによって28節が 語るように「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、 男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と宣言さ れている、その幸いと祝福にいま共に生きる者とされているのです。  今からおよそ1600年前、アウグスティヌスという人が「キリストを着る」幸いにあずかり ました。アウグスティヌスは若き日に遊蕩三昧の生活をし、さまざまな宗教や哲学に救いを求 めましたが平安を得ませんでした。ついに彼は西暦386年8月、32歳のときイタリアのミラ ノにおいてローマ書13章11節以下の御言葉によって回心し、ミラノの牧師アンブロシウスか ら洗礼を受け、全生涯を通してキリストの恵みを証しする神学者になりました。そのローマ書 13章11節以下はこういう御言葉です。「あなたがたは時を知っている。…あなた(がた)の眠 りからさめるべき時が、すでに来ている。…夜はふけ、日が近づいている。それだから、わた したちは、やみのわざを捨てて、光の武具を撞けうではないか。…あなたがたは、主イエス・ キリストを着なさい。肉の欲を満たすことに心を向けてはならない」。  アウグスティヌスは「告白」という著書の中でこう語っています。「この御言葉を読んだと き、私の心の中にそれまで経験したことのない、言い知れぬ平安と喜びが満ち溢れるのを感じ た。『キリストを着なさい』これこそ主の招きであると確信した」。そのようにして一人の彷徨 える魂は平安の港(救いの家)を見いだしたのでした。アウグスティヌスにとって「キリスト を着る」ことは、主の教会に結ばれて、主の義(贖いの恵み)に覆われて歩むことでした。彼 はそこに全ての人間の「最大の幸福」があると語っています。いま、私たち一人びとりが、そ の「最大の幸福」のもとに招かれているのです。  それゆえにいま私たちは、同じ使徒パウロのエフェソ書4章22節以下にも心を向けましょ う。「だから、以前のような生き方をして情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ 捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け(ようではない か)」。この「新しい人」こそ、私たちのために十字架にかかりたもうたイエス・キリストなの です。また第二コリント書5章1節以下にも同じ祝福が告げられています。「わたしたちの地 上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知 っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。わたしたちは、天か ら与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえていま す。それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません。この幕屋に住むわたしたちは重 荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。 死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいから です。わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、 その保証として“霊”を与えてくださったのです」。  私たちは喜び、感謝をもって覚えましょう。いま私たち一人びとりが「キリストを着る」者 とされていることを。「最大の幸福」にあずかっていることを。歴史の主なるキリストに堅く 結ばれ、主が賜わる永遠の生命に覆われて生きる幸いを。私たちは「この幕屋」(歴史的世界) の中で「苦しみもだえている」時にも「キリストを着る」者として主の生命に覆われ「死ぬは ずのものが命に飲みこまれてしまう」幸いを世界に告げ知らせる真の教会に連なる者とされて いるのです。だからこそパウロは最後の18節でこう語ります。「あなたがたは、もしキリスト のものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です」と!。 私たちが「約束による相続人」(天に国籍を持つ者)とされていることは「十字架の主キリス ト」と「聖霊」みずから保障して下さるのです。主がかき抱くごとくに私たちを覆っていて下 さる。主の十字架の出来事こそ、私たちが「キリストを着る」者とされる唯一永遠の確かな保 障なのです。いま私たちは「キリストを着る」者とされています。この出来事こそ「最大の幸 福」であり、世界と歴史と文化に対する本当の揺るがぬ祝福であり救いなのです。