説     教    詩篇89篇24〜28節   ガラテヤ書4章6〜7節

「祝福の相続」

 ガラテヤ書講解(27) 2013・06・09(説教13231487)  主イエス・キリストは私たちの罪のために十字架かかりたもう前の晩、ゲツセマネの園で 血の汗を流して祈られました。そのとき主は父なる神に対して「アバ、父よ」と呼びかけを なさいました。この「アバ」とはアラム語で「わが父よ」という意味です。これと同じ言葉 が今朝のガラテヤ書4章6節にも出てまいります。  そこで、新約聖書の福音書には、主イエスが父なる神に対して「わが父よ」(アバ)とい う呼びかけを実に16回もなさっています。この言葉はもともと主イエスの時代、幼い子供 が自分の父親を呼ぶときに用いた言葉でした。つまり「アバ」という言葉は父と子の親しい 純粋な関係のみを現わす、深い信頼と尊敬のこもった大切な言葉なのです。  これを主イエスは祈りのたびごとにお用いになり、また「主の祈り」においても弟子たち に「父なる神」を「アバ」と呼ぶべきことをお教えになったのです。しかしそれはパリサイ 人や律法学者から見ればとんでもない神聖冒涜でした。なぜなら「アバ」は“本当の父と子 の関係”でのみ用いられる言葉だったからです。だから神を「アバ」(わが父よ)と呼ぶこ とは、すなわち神を“まことのわが父”とすること、すなわち自分を“まことの神の子”と することです。だからパリサイ人にとって、それは不謹慎きわまりない神聖冒涜だと考えら れたのです。  そこでこそ、よく考えてみたらよいのです。いったい私たち人間にすぎないものが、どう して、何の資格があって、真の神を「アバ」(わがの父よ)とお呼びすることができるので しょうか。その意味ではパリサイ人の驚きこそむしろ当然だと申さねばなりません。事実、 神を「アバ」と呼んでいる具体的な例は、主イエスの時代以前にはひとつもないのです。す なわち「アバ」は純粋に主イエスだけがお用いになった言葉なのです。言い換えるなら、た だ主イエスの十字架の恵みによってのみ、私たちキリスト者が喜んで用いることができる信 仰告白の言葉(神の祝福の相続人とされた者の自由と信頼の呼びかけ)が「アバ」なのです。  幼い子供が自分の父親を「アバ」と呼ぶとき、そこには完全な信頼と深い安らぎがありま した。ちなみに母親のことは「インマ」と呼びました。神は“父なる神”ですから「インマ 母よ」ではなく「アバ父よ」です。ドイツのある神学者はこう申しています「(主イエスの) 神への呼びかけの言葉“アバ”のうちには、主イエスの使命のもっとも深い神秘が表現され ている」と。このたったひと言のうちに、主イエスがキリスト(全世界の救い主)であられ る最も深い証拠が「表現されている」のです。だからこそパレスチナの地から遠く隔たった ローマやガラテヤの教会においてさえ、信仰者(キリスト者)は「アバ」を神への呼びかけ (祈りの言葉)として、その原文のアラム語のままで語り伝えたのでした。  そこで、ローマ書8章15節から17節を見るとこのように記されています「あなたがたは 再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのであ る。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである。御霊みずから、わたし たちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。もし子であれば、相 続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしてい る以上、キリストと共同の相続人なのである」。  これは今朝のガラテヤ書4章6節7節の御言葉とほとんど重なり合う内容です。それは何 を現すかと申しますと、この「アバ」という言葉が告げる祝福の豊かさは、ただ主イエスが 父なる神を「アバ」と呼びたもうたことにとどまらない。主に贖われて教会に連なり信仰に 生きる私たち一人びとりが、真の神を「アバ」(わが父よ)と呼ぶ喜びと幸いにいま生きる 者とされている。それこそ今朝のガラテヤ書が告げる祝福の中心なのです。「アバ」は過去 の言葉ではなく、現在の私たちに与えられている祝福の事実なのです。  もちろん、パリサイ人らが「神聖冒涜」だと感じたように、私たちは本来まことの神を「ア バ」と呼びうる存在ではありません。私たちは「神の子」どころか神に叛き続けている「罪 人」にすぎません。それにもかかわらずパウロは、私たち一人びとりに「あなたがたは再び 恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。 その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」と言い切っているのです。 どうしてそう宣言できるのでしょうか?。  それを解く御言葉(福音の告知)が2つあります。それは今朝のガラテヤ書4章6節「『ア バ、父よ』と呼ぶ御子の霊」すなわち「聖霊」であり、もうひとつは7節にある「相続人」 という言葉です。そして実はこの2つは主イエス・キリストにおけるひとつの恵み(私たち が全ての罪を贖われて神の子とされる恵み)の2つの側面を現わしています。  まず第一に「聖霊」なる神の祝福に心をとめましょう。私たちは特に聖霊が今朝の御言葉 で「『アバ、父よ』と呼ぶ御子の霊」と告げられていることに驚くのです。少しも私たちの 力や資格や相応しさではありません。ただ聖霊によって永遠に私たちと共にいて下さる神が、 私たちを「アバ父よ」と真の神を呼ぶ幸いに生きる者として下さるのです。聖霊による新し い生命と自由です。第2に「相続人」とあることです。これは既に同じ4章の1節以下にも 記されていました。私たちが真の神の子とされること、すなわち「御国の民」(天に国籍を 持つ者)とならせて戴く恵みです。それこそ聖霊によっていま私たちに現実に与えられてい る祝福です。私たちの存在・私たちの生涯がそのあるがままに、キリストの満ち溢れる恵み と愛を証しするものとされることです。私たちの朽ちるべき身体がキリストの復活の身体に 結ばれて新たな生命に生かされる喜びです。  初代教会(最初に誕生した教会)において「アバ父よ」という言葉は洗礼のときの喜びの 歌声でした。洗礼志願者が洗礼を授けられたあとで、会衆一同とともに「アバ父よ」と感謝 の唱和をしたのです。恐らく何らかの旋律で歌ったものと考えられています。それは信仰告 白そのものでした。罪によって死んでいた者がキリストの贖いによって甦り、永遠に滅びる ことのない御国の民とされて生きる喜びと感謝を、初代教会の信徒たちは「アバ父よ」とい う言葉を歌うことで現わしたのです。これは私たち一人びとりがキリストの身体なる教会に 連なることにより「祝福の相続人」とされていることを現わします。私たちは誰に対しても 「キリストの祝福」を告げる僕とされているのです。「主はあなたと共におられる」と告げ る者とされているのです。ここに極みなき神の愛があること、その愛の中でこそ、私たちは 隣人に、たとえ対立する者に対してさえも、キリストの祝福を告げる器とされている。この 事実にまそる奇跡がどこにあるでしょうか。  まことの神を知らず、死に打ち勝つ祝福と幸いを語りえなかった私たちが、いまやキリス トの身体なる教会に堅く結ばれ、キリストの「祝福の相続人」とされているのです。それは 私たち全ての者のために、キリストみずから十字架の道を歩んで下さったからです。ご自分 のいっさいを与え尽くして下さったからです。限りない愛によって私たちを生かしめて下さ ったからです。主が私たちを限りなく愛して下さったのは、私たちに何か価値があったから というのではない。もしも私たちの価値に応じて主の愛が与えられるのなら、私たちは愛を 受けるべき僕ではありませんと言うほかはないのです。  キリストの愛はそのようなものではないのです。むしろ「神の子」と呼ばれる価値の全く 無かった私たちのために、否、もし価値を問われるなら「罪人」というマイナスの価値しか 持ちえなかった私たちのために、主は私たちをその無価値(反価値)なるがままに、極みま でも愛して下さったかたなのです。主はまさにその愛によって、私たちにかけがえのない価 値を与えて下さったのです。私たちを「祝福の相続人」として下さったのです。この愛をも って主は私たちを贖って下さった。そこに私たちの、またこの世界の、本当の唯一の永遠の 救いがあることを、私たちは世々の聖徒らと共に信じ告白し、ただ神にのみ栄光あれと讃美 を歌いまつる者であります。  ローマ書8章17節の御言葉にいまいちど心を注ぎましょう「もし子であれば、相続人で もある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、 キリストと共同の相続人なのである」。この言葉は現在形です。いま私たちは事実として様々 な苦しみや悩みの中にあるかもしれない。恐れがあるかもしれない。重荷を背負っているか もしれない。人に言えない悩みがあるかもしれない。しかし主は、そのあるがままの私たち を「祝福の相続人」としてここに立てて下さいます。パウロにも戦いがありました。キリス トの救いを全ての人々に伝えるために、伝道と教会形成のための大きな苦しみがありました。 しかしそれは、私たちが地上においてあずかるべき「キリストと栄光を共にするため苦難を も共にしている」ことなのです。そこにこそキリスト者の新しい生活の幸いがあるのです。 だからパウロは第二コリント書1章5節でこう語っています「それは、キリストの苦難がわ たしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満 ちあふれているからである」。  キリストのための苦しみがあるならば、私たちはそこに、キリストの測り知れぬ慰めにも あずかっているのです。それは私たちが「キリストと共同の(祝福の)相続人」とされてい る幸いであり喜びです。その慰めは私たちが復活のキリストの勝利の生命に堅く結ばれてい る(合わされている)福音の事実に基くものであり、それゆえに、その慰めは決して変わる ことはなく、死を超えてまでも私たちを生かしめ、勇気と平安を与え、支え続けるのです。