説     教    レビ記18章4〜5節   ガラテヤ書4章1〜5節

「真の自由を与える主」

 ガラテヤ書講解(26) 2013・06・02(説教13221486)  今朝のガラテヤ書4章1節から5節までの御言葉を、もういちど口語お読みいたしましょ う。「わたしの言う意味は、こうである。相続人が子供である間は、全財産の持ち主であり ながら、僕となんの差別もなく、父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置 かれているのである。それと同じく、わたしたちも子供であった時には、いわゆるこの世の もろもろの霊力のもとに、縛られていた者であった。しかし、時の満ちるに及んで、神は御 子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。それは、律法の下 にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであった」。  今朝のこの御言葉は、私たちが特に丁寧に読み解くべきところです。ここに記されている 事柄は、私たちと全世界に対する確かな救いの音信(おとずれ)だからです。なによりもこ こでパウロは私たち一人びとりに、今ここに生きて救いの御業をなしておられる主イエス・ キリストを指し示しています。単なる“キリストについての教説”ではなく、まさに活ける キリストが御言葉によって私たちに直面して、救いの御業を現しておいでになるのです。そ れが教会であり、この礼拝なのです。  そこで、まずパウロはこの4章1節において「わたしの言う意味は、こうである」と語り、 3章全体を通して語ってきた「律法と福音」の問題をさらに詳しく解き明かしています。そ のときパウロは「相続人」という言葉を敢えて用います。この言葉こそ特別な意味を持つか らです。なぜならこの「相続人」とは「子供」のことだからです。すなわちパウロはこう語 ります「相続人が子供である間は、全財産の持ち主でありながら、僕となんの差別もなく、 父親の定めた時期までは、管理人や後見人の監督の下に置かれているのである」。  これは、良くわかることではないでしょうか。父親の財産を相続する権利があっても、ま だその「相続人」たる子供が幼い場合には、相続の権利はそのままに「管理人や後見人の監 督の下に置かれる」のではないでしょうか。しかもここには「父親の定めた時期までは」と あります。古代ローマの法律(ローマ法)にはこのままの規定がありました。これは現代で もそのまま通用するであろう法的解釈です。つまりパウロはここで主なる神を、私たちに財 産を相続させようとする「父親」に譬え、私たちを、財産を相続する未成年の「相続人」に 譬え、そして律法を、成人するまで(つまり主イエス・キリストへと)私たちを養育する「管 理人・後見人」に譬えているのです。  そこで、私たちは「法律」と聞くと、もうそれだけで堅苦しい。「そういう話は苦手」と 思うのですけれども、パウロが(ガラテヤ書が)ここで語る事柄はむしろ、神の約束の不変 性(決して変わらない恵み)であることがよくわかるのではないでしょうか。しかもそれは 相続の法律のように、かならず私たちの上に成就する(事実として現れる)“救いの恵み” なのだということ。そのためにこそ、ガラテヤ書は福音の解釈にあえて法律の言葉を当ては めるのです。これは決して動くことのない“救いの恵み”なのだということを私たち全ての 者に示すためです。まさにこの動かぬ“救いの恵み”の事実(イエス・キリストの十字架) の上に立ってこそ、パウロは今朝の3節に「それと同じく、わたしたちも子供であった時に は、いわゆるこの世のもろもろの霊力の下に、縛られていた者であった」と語っています。 この「それと同じく」とは、主なる神を「父親」に、私たちを「相続人」に、そして律法を 「管理人・後見人」に譬えていることです。そこでこそパウロは、私たちは「相続人」(神 の国を受け継ぐ者)であるにもかかわらず、律法の支配の下にあっては「いわゆるこの世の 霊力の下に、縛られていた」と言うのです。では「この世の霊力」とはいったい何でしょう か?。  こういうことがありました。身体に重い障碍を持つお子さんのお母さんがいた。そのお子 さんの障碍は時に世間の人たちの無遠慮な視線を惹きつけたのですが、そのお母さんはどん な時にも微笑(ほほえみ)をもって耐えて来られた。しかしついに耐えきれずに、わが子を 抱きしめて泣いてしまったことがあると語られました。それは何かと言いますと、あるとき 電車の中で同じぐらいの年齢の母親が自分の子供に「悪いことをするとああいう子になっち ゃうのよ」と話すのが聞こえてしまった。私たちは「この世のもろもろの霊力」などと聴き ますと「そんなものがこの21世紀の現代の社会にあるのか」と思いますけれど、案外こう したところに厳然と存在しているのではないでしょうか。  私たちは分別も教養もあるから、この母親のような無神経なことは言わない、特に現代は 人権意識の高い時代ですから、このような無神経な発言は滅多に聞かれないのかもしれませ ん。しかしそれはただ口に出さないというだけのことで、あんがい私たちもなお旧態然とし た価値観・人生観に凝り固まっていることはないでしょうか。たとえば一例として、冠婚葬 祭の日を決めるとき、普段は気にも留めない暦などを急に気にし始め、やれ日だ方位だ風水 だと騒ぐことは現代でもあるのです。このガラテヤ書4章10節でもパウロはガラテヤの人々 に「あなたがたは(もろもろの霊力に逆戻りして)日や月や季節や年などを守っている」と 非難しています。旧約聖書イザヤ書65章11節にこういう御言葉があります「しかし主を捨 て、わが聖なる山を忘れ、机を禍福の神に供え、混ぜ合わせた酒を盛って、運命の神にささ げるあなたがたよ」。他の誰彼ではなく、まさに私たち一人びとりの罪の姿なのです。特に 「運命の神」に「供え物をささげる」という言葉は強烈です。預言者イザヤはそこにも私た ちの罪の結果が現われていると言うのです。  キリスト教信仰のもっとも大きな幸いと祝福は「運命」を信じないことにあります。まこ との神を信ずる者は運命の支配から完全に自由になるのです。キリストを信じて生きるとき、 人は「運命」から解放されるのです。人間の本当の自由と幸いはそこにあります。私たちの 人生、私たちの存在は、暗く冷たい「運命」の支配の下などにあるのではない。そうではな く、私たちを限りなく愛され、私たちのためにご自身の独子イエス・キリストをさえお与え 下さった「父なる神」の限りない祝福のもとにあるのです。それを聖書は「摂理」と申しま す。「摂理」は「運命」とは全く違います。「運命」は冷たく機械的な支配の法則ですが「摂 理」は神の極みなき愛のもとに自分と世界を新たに見いだすことです。「運命」は因果応報 を人生の価値観としますが「摂理」は神の愛の永遠の勝利を信じます。「運命」は人間を常 に過去に引き戻すしますが「摂理」は私たちを常に未来へと前進させます。  私たちはヨハネ伝9章1節以下に記された、生まれつき眼の見えない人を巡る弟子たちと 主イエスとの対話を思い起こします。あそこで弟子たちは主イエスに「先生、この人が生ま れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」 と訊ねます。それに対して主イエスは「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯 したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現われるためである」と言われました。そし てこの眼の見えない人は、主イエスを信ずることによって弟子たちよりも先に御国の民とさ れたのです。そこに運命からの解放と私たちの真の自由と救いが現れているのです。  そこでこそ今朝の4節の御言葉ははっきり私たちに告げています。「しかし時の満ちるに 及んで、神は御子を女から生まれさせ、律法の下に生まれさせて、おつかわしになった。そ れは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたちに子たる身分を授けるためであっ た」。なんと慰めに満ちた音信でありましょう。この「しかし」とは、私たちのあらゆる罪 の現実(死の支配)という歴史の「運命」にもかかわらず(しかし)ということです。ここ に「もろもろの霊力」(運命)を虚しくする恵みと祝福をもって、私たち一人びとりを極み まで愛して下さり、私たちのために十字架を担って下さったかた(主イエス・キリスト)が おられる。私たちを「運命」の死の力から贖い出して下さったかたが、変わることなく私た ちと共にいて下さるのです。  それが「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ」ということです。 この「女から」とは処女マリアのことです。つまりキリストご降誕(クリスマス)の恵みで す。私たちの測り知れぬ罪のどん底にまで、神みずからが降りて来て下さった恵みです。主 が来られた恵みによって、どん底(陰府)さえも復活の生命に満たされたのです。キリスト の救いの御手が及ばない人間の現実は存在しないのです。キリストの恵みに打ち勝つ罪の力 は存在しないのです。主は私たちのために測り知れぬ御苦しみをお受けになり、ご自分のい っさいを献げ尽くして下さったからです。そのかたが私たちと永遠に共にいて下さり、私た ちの人生全体を祝福して下さり、真の自由を与えて下さるのです。  だからパウロは続く5節に「それは、律法の下にある者をあがない出すため、わたしたち に子たる身分を授けるためであった」と語ります。限りない喜びがそこにあるから、パウロ はこれを全ての人に告げざるをえないのです。「律法の下」にあって「運命の神」に支配さ れていた私たちを救うために、キリストはご自分を虚しくしてベツレヘムの馬小屋に降誕せ られ、全人類のいっさいの罪を担って十字架にかかって下さった。「わたしたちに子たる身 分を授けるため」です。いまここに主の身体なる教会に招かれ結ばれて、私たち一人びとり が確かに永遠に「神の子」たる喜びに生きる者とされているのです。少しも私たち自身の力 ではなく、ただキリストの溢れる贖いの恵みです。だからこそその“救いの恵み”は確かで あり、変わることがなく、いま私たちのただ中に現れているのです。  キリストはまことに、私たちに真の自由を与えるために十字架におかかりになったのです。 だからガラテヤ書は「律法主義対自由主義か」という単なる二者択一の問題ではない。そう ではなく、まさに「律法」を全うしえない罪人なる私たちのために、キリストみずから律法 によって撃たれて、審かれて、死んで下さった。それこそ3章13節が語るように「キリス トは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して 下さった」。ここにガラテヤ書が語る福音の本質があります。この福音にこそ人間の本当の 自由があり、幸いがあり、平和があり、救いがあるのです。その十字架のキリストのもとに、 あらゆる「運命」から解放され「神の子」たる自由に満たされた私たちの新しい生活、「天 国の相続人」としての感謝と喜びの生活が始まるのです。