説    教    創世記3章20〜21節  ガラテヤ書3章23〜29節

「キリストを着る」

 ガラテヤ書講解(25) 2013・05・26(説教13211485)  今日は先々週に引き続き、ガラテヤ書3章23節以下を拝読しました。この御言葉は私た ちに「キリストを着る」ことの幸いと祝福を継げています。この福音に共に心を傾け参りま しょう。  私たちは日ごろ服を「着る」という行為を、ほとんど無意識の内にしています。衣服を身 にまとう(着る)行為は私たちの生活の一部です。よく人間の生活全体を「衣食住」と申し ますが「着る」ことは人類文化の基本中の基本です。しかしよく考えてみますと「着る」と いうことはそれほど単純ではないことがわかります。人類の歴史を100万年とするなら、む しろ「着ていない」時間のほうが長かったのです。今でも夏は服を「着ない」ほうがむしろ 快適かもしれません。それなのに服を「着る」ということは、そこに人間の文化的な営み以 上のものがあるからです。  さて、聖書はすでに創世記2章のアダムとエバの創造の物語において、その25節に「人 とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」と記しています。 この「人」とはヘブライ語で「アーダム」という言葉です。アダムとエバは人類史そのもの です。彼らが「裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」とは、そこに「神の愛」(神 の言葉)に対する明確な応答があったことを示しています。彼らは「裸」でしたが、実は「裸」 ではなかった。神の愛(神の言葉)にしっかり覆われていたのです。ほんらい人間とはそう いう存在であったのです。  ところが次の3章になりますと、がらりと調子が変わって参ります。アダムとエバは神の 言葉(神の愛)に叛き「善悪を知る木の実」を取って食べる「罪」をおかしました。その結 果3章7節を見ますと「すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったの で、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた」と記されています。これをもって「なる ほど、人類最初の衣服は“いちじくの葉”であったか」と合点するのは御言葉の淺読みです。  むしろこの御言葉が告げている事柄は、私たち人間が「罪」によって神との関係を決定的 に失ってしまった事実です。だから自分たちが「裸であることがわかった」のです。神の愛 に「覆われて」生きる幸いを失ってしまった私たち人間は、それに代わって虚しい「いちじ くの葉」で自分を覆わねばならなくなったのです。だからもし「着る」ことが文化の基本な ら、文化もまた「罪」の支配を免れてはいないことを創世記の御言葉は示しているのです。  しかも物語はそれで終わってはいません。むしろそこから聖書は始まっているのです。皆 さんもご存じのとおり、私たち人間の罪によって「失楽園」(パラディース・ロスト)の出 来事が起こる。アダムとエバはエデンを追われて「地の放浪者」となるのですが、3章21 節を見ますと「主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた」と あります。つまり「いちじくの葉」などとは比較にならない、強くて上等の「皮の着物」を 主なる神は私たちに与えて下さったのです。  そしてこの出来事こそ、十字架の主イエス・キリストによる罪の贖いの恵みの「しるし」 (私たちに対する恵みへの招き)なのです。人間の文化・人間の生活は、キリストによって こそ本当に完成するのです。どうかこれを私たちは心に留めたいと思います。これは同じ創 世記4章15節に、最初に殺人(兄弟殺し)の罪を犯したカインが、その罪によって死ぬこ とがないように、主なる神は彼に「ひとつの徴」を与えられた出来事と関連してきます。こ の「ひとつの徴」こそ「キリストを着る」ことなのです。つまり創世記はその最初において、 すでに「キリストを着る」ことを救いの(生命の)福音として私たちに語っているのです。  そこで、改めて今朝のガラテヤ書3章23節以下、特にその26節以下に心を留めたいので す。「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリ ストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ 人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・ イエスにあって、一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラ ハムの子孫であり、約束による相続人なのである」。  これは、なんという限りない喜びと感謝の告白でしょうか。なんと大胆率直な私たちの救 いの宣言でありましょうか。まずパウロはここに「あなたがたは(私たち全ての者のことで す)みな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子(とされている)のだ」と語りま す。あのエデンにおける祝福、神との完全な永遠の交わりが、ここに回復され、成り立って いるではないかと語るのです。その「ここに」とは主の御身体なる教会においてです。  ここでパウロが語る「キリスト・イエスにある信仰」とは、個人的な信仰ではありえませ ん。そもそも信仰とは個人的なものなどではありえません。「私はこう信じる」という個々 人の信仰が集まってそこに教会ができるのではない。その逆です。パウロはここにはっきり 「キリスト・イエスにある信仰」と申しています。「信仰」とは私たちが教会の告白する「イ エスは主なり」との信仰によってひとつとされることです。それをパウロは「神の子とされ る」喜びとして語るのです。「子とされる」とは、私たち一人びとりが父なる神との永遠か つ完全な祝福と交わりの内に生きる者とされることです。その喜びが、幸いが、いまここに、 まさしく私たちの内に、キリストの御身体なる教会によって実現されているではないか。  そして、その喜びと幸いの内容は続く27節において、まさに「キリストを着る」恵みと して語られているのです。「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリスト を着たのである」とあることです。ここで私たちは改めて「着る」ことの本当の意味に心打 たれます。「着る」とは、あるがままの私たちが「着る」のです。この裸の「身に纏う」の です。「わが身を覆われる」のです。私たちは神から離れた罪ある存在でした。自分で神と の交わりを(神の愛への応答を)回復しようとしても、せいぜい「いちじくの葉」を綴り合 わせるのみでした。そこに人間の文化的営みの決定的な弱さがあります。平和を願いつつも、 ただの一日も対立や戦争のない日を実現しえない世界の脆さがあります。しかし私たちはそ の弱さ脆さのあるがままに「キリストを着る」(キリストの義を身に纏う)者へと招かれて いる。決定的な「しるし」を、十字架の主を与えられている。主なる神は私たちを「あるが ままに」キリストの御身体なる「教会」へと招いていて下さるのです。  そこにおいてこそ、もはや私たちは「裸のまま」ではいません。「キリストの義」(キリス トによる神との永遠の交わりと祝福)が私たちを完全に覆って下さるのです。ここにキリス ト教の福音の本質があります。福音の本質は「キリストを着る」ことだと言ってよいのです。 私たちは日ごとに新たに「キリストを着る」者として生かされている。その恵みによって28 節が語るように「もはや、ユタや人もギリシヤ人もなく、奴隷と自由人もなく、男も女もな い。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって(キリスト・イエスに堅く結ばれて)一つ だからである」と宣言されている、その幸いと祝福にいま私たちは生きる者とされているの です。  今からおよそ1600年前、いま友愛会でも学んでいますが、アウグスティヌスという教父 が「キリストを着る」幸いにあずかりました。アウグスティヌスは若き日に遊蕩三昧の生活 をし、さまざまな宗教や哲学に救いを求めましたが平安を得ませんでした。ついに彼は32 歳の西暦386年8月、イタリアのミラノにおいてローマ書13章11節以下の御言葉によって 回心し、ミラノの牧師アンブロシウスより洗礼を受け、全生涯を通してキリストの恵みを証 しする神学者になりました。そのローマ書13章11節以下はこういう御言葉です。「あなた がたは時を知っている。…あなた(がた)の眠りからさめるべき時が、すでに来ている。… 夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具 を撞けうではないか。…あなたがたは、主イエス・キリストを着なさい。肉の欲を満たすこ とに心を向けてはならない」。  アウグスティヌスは「告白」という著書の中でこう語りました。この御言葉を読んだとき、 私の心の中にそれまで経験したことのない、言い知れぬ平安と喜びが満ち溢れるのを感じた。 『キリストを着なさい』これこそ主の招きであると確信した」。そのようにして一人の彷徨 える魂は平安の港(救いの家)を見いだしたのでした。アウグスティヌスにとって「キリス トを着る」ことは、主の教会に結ばれて、主の義(贖いの恵み)に覆われて歩むことでした。 彼はそこに全ての人間の「最大の幸福」があると語っています。いま、私たち一人びとりが、 その「最大の幸福」のもとに招かれているのです。  それゆえにいま私たちは、同じ使徒パウロのエペソ書4章22節以下にも心を向けましょ う。「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ 捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき 人を着るべきである」。この「新しき人」こそ、私たちのために十字架におかかり下さった イエス・キリストにほかなりません。また第二コリント書5章1節以下の御言葉にも同じ祝 福が告げられています。「わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただ く建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは 知っている。そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋 の中で苦しみもだえている。それを着たなら、裸のままではいないことになろう。この幕屋 の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからでは なく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれて しまうためである」。  喜び、感謝をもって覚えましょう。いま私たち一人びとりが「キリストを着る」者とされ ているのです。「最大の幸福」にあずかっているのです。歴史の主なるキリストに堅く結ば れ、主が賜わる永遠の生命に覆われて生きる幸いを、いま私たちが与えられているのです。 私たちは「この幕屋」(歴史的世界)の中で「苦しみもだえている」時にも「キリストを着 る」者として主の生命に覆われ「死ぬべきものがいのちにのまれてしまう」幸いを世界に告 げ知らせる真の教会に連なる者とされているのです。  だからパウロは最後の18節でこう語っています。「もしキリストのものであるなら、あな たがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」と!。私たちが「約束に よる相続人」(天国に国籍を持つ者)とされていることは、誰が保証して下さるのか?。聖 書ははっきりと「それは十字架の主キリストである」と告げているのです。主がかき抱くが ごとくに私たちを覆っていて下さる。主の十字架の出来事こそ、私たちが「キリストを着る」 者とされる唯一永遠の確かな保障なのです。いま私たちが「キリストを着る」幸いに生きる 者とされている、この出来事こそ「最大の幸福」であり、世界と文化に対する本当の揺るが ぬ祝福なのです。