説     教       創世記2章7節    使徒行伝2章1〜4節

「生命を与える聖霊」

 ペンテコステ礼拝 2013・05・19(説教13201484)  ペンテコステを意味する「五旬節」は「過越の祭」「仮庵の祭」と並び、古代ユダヤにおけ る三大祭(三大節)のひとつでした。キリスト教のイースター、ペンテコステ、クリスマスの 「三大節」の中でペンテコステだけがユダヤ教伝来のものです。ペンテコステとはギリシヤ語 で「第五十日目」という意味です。まさにその言葉のように、この日は復活の主が弟子たちと 四十日間を過ごされたのち天に上られてから十日目、つまり復活後「第五十日目」にあたりま した。イエスは天に上られる前に弟子たちにこう言い残しておられました。「エルサレムから 離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは 水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるで あろう」(使徒行伝1:4〜5)。  ペンテコステとは、まさにこの主イエスの約束が実現した時です。「時が満ち、神の国が到 来した」のです。使徒行伝2章15節によれば、この日「朝の九時」ごろ弟子たちは「ひとつ の家」に集まり共に祈っていました。すると突然「激しい風が吹いてきたような音が天から起 こり、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった」(使徒行伝2:2)のです。それは聖霊な る神の救いの御力が弟子たちに働いた瞬間でした。この「家」とは私たちの「教会」のことで す。神は教会に聖霊をお与えになり、教会を通して私たちをキリスト告白へと導き、救いの御 業を現わして下さいます。  さて今朝の3節を見ますと「また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびと りの上にとどまった」とあります。聖霊なる神は教会を通して私たちに働きたまいますが、そ の聖霊の働きは私たち一人びとりの上に「とどまり」私たちに賜物を与えて下さるのです。こ の“聖霊の賜物”により、恐れに取り付かれていた弟子たちは慰めと平安と勇気に満たされ、 立ち上がって、聖霊が語らせるまま「いろいろの他国の言葉で(福音を)語り出した」のです。 神の言葉を全ての人々に宣べ伝える主の教会がそこに誕生したのです。これはいわゆる「超常 現象」などではありません。聖書が記しているペンテコステの出来事は「激しい」聖霊の御業 ですが、その「激しさ」とは「確かさ」という意味です。つまり「激しい」ほどに確かな神の 救いの出来事が「聖霊」によって私たちに与えられているのです。そこに十字架の福音のみを 宣べ伝え、全世界に祝福を宣べ伝えるキリストの教会が誕生したのです。  そこで、たいへん興味ぶかいことは、この出来事の「激しさ」(確かさ)を見たまだ信仰の ない人たちは、弟子たちのことを「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」(2:13)と言って いることです。「酒に酔った」人にはどんな特徴があるでしょうか?。第一に「くどいこと」。 第二に「大声であること」。第三に「体温が上がっていること」です。つまりここで弟子たち は聖霊に満たされて「くどい」ほどキリストの福音のみを語りはじめ、恐れることなく「大声 で」主の御業を証しし、溢れる「熱意」をもって主に従う僕とされたのです。そういえば英語 で「強い酒」のことを「スピリット」と申しますが、本来的には「スピリット」とは「聖霊」 のことです。なによりも弟子たちは、救いの生命を与える“Holy Spirit”(ホーリー・スピリ ット=聖霊)に満たされたのです。  そればかりではありません。聖霊に満たされた弟子たちは、キリストの福音を「いろいろの 他国の言葉で」語りはじめた。神が独子を賜わったほどに世を愛され、御子によって罪人を救 いたもう喜びの出来事を、くどいほど熱心に、大胆に繰返し「大声で」語り続ける器とされた のです。「喪家の狗」のごとく意気消沈していた弟子たちが、勇気と平安に満たされ、恐れず に立ち上がり、全ての人々の前で「いろいろの他国の言葉で」救いの恵みを証しする者とされ たのです。心を震わせつつ、喜び勇んで福音を、全ての人に通じる言葉で、宣べ伝える者とさ れたのです。  弟子たちは、自分たちが「いろいろの他国の言葉で」語れる“聖霊の賜物”をひけらかした のではありません。聖霊なる神もまた、弟子たちを通して不思議なわざができると誇示なさっ たのではないのです。そうではなく、そこに様々な言語を語る大勢の人々がいたからこそ「い ろいろの他国の言葉で」神の福音が語られたのです。つまり全ての言語の人々にキリストの福 音が宣べ伝えられたのです。これはとても大切なことです。  実は「激しい風が吹いてきたような音が天から」起こり、弟子たちがいた家じゅうに響いた とき、その物音を聞きつけて集まってきた人々のほとんどが、ユダヤ人以外の「他国の人々」 でした。使徒行伝2章9〜11節には彼らの出身国が記されています。パルテヤ、メジヤ、エラ ム、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプト とクレネに近いリビヤ地方、その他、ローマ人、ユダヤ人の改宗者、クレテ人とアラビヤ人も いたと記されています。当時のほぼ全世界が網羅されていたことがわかるのです。実に十四ヶ 国もの言葉で同時に、弟子たちによって、同じキリストの福音が宣べ伝えられたのです。幕末 にわが国に福音を宣べ伝えるために渡来した宣教師たちも、まず心がけたことは、正しい日本 語の習得に努めることでした。関西に伝道したヘール宣教師は漢文や候文まで読み書きできた そうです。あるところで「夏山に鳴く不如帰こころあらば」と人が語ったのを聞いて、すぐに 「ものおもふ吾に声な聴かせそ」と続けた話があります。  しかも、様々な他国の言葉で福音を宣べ伝えたのは、ガリラヤ出身のいわば「無学な普通の 人」であった弟子たちでした。だから自分たちの故郷の言葉で明瞭に福音が語られるのを聞い た「他国の人々」は非常に「驚いた」のです。7節をご覧下さい。「そして驚き怪しんで言った、 『見よ、いま話しているこの人たちは、みなガリラヤ人ではないか。……あの人々がわたした ちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか』」。神の御業はこの世的 には無力な者の謙遜の中により鮮やかに顕されるのです。だから人々は「神の大きな働き」と 語っています。弟子たち自身の力にではなく、この無力な弟子たちを通して語られた「神の大 きな働き」に人々は驚いたのです。だから2章41節によれば、この日「(福音を聴いて)仲間 に加わったもの(洗礼を受けた人々)が三千人ほどあった」と記されています。そして続く42 節にはこうも記されています。「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わり をなし、共にパンをさき、祈をしていた」。  これこそ聖霊なる神の御業です。キリストのみを唯一のかしらとする教会の変わらぬ基本的 な姿勢がこの日「神の大きな働き」によって確立したのです。私たちの教会もこのペンテコス テの喜びに生きて連なり、あずかり続ける群れとされています。与えられた喜びは同じなので す。すなわち「ひたすら、使徒たちの教を守り」とは、十字架の主の福音を聴き、救いの喜び に与る者とされ、主の教会に仕える者とされたことです。「信徒の交わりをなし」とは、御言 葉による真の交わり、キリストを中心とした聖徒の交わりに連なる者とされたことです。「共 にパンをさき」とは、聖餐の食卓に与る者とされたことです。そして「祈をしていた」とは、 まことの礼拝を献げる群れとして成長していったことです。  福音を聴いて信じ、洗礼を受けて主の教会に加えられた人々は、「ひたすら、使徒たちの教 を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をささげ」真の教会を形成し、主の御業に 使える僕とされるのです。そして福音の喜びと幸いを全ての人に告げる群れに成長してゆきま す。だから西暦381年のニカイア信条は聖霊について「(わたしたちは)主にして生命の与え 主なる聖霊を信じます」と告白しています。この「生命」とは「信仰」のことです。聖霊は私 たちに主イエス・キリストを信ずるまことの信仰を与えて下さり、その信仰において教会をお 建てになり、真の生命を与えて下さるのです。  すでにいま全世界において、14の言語どころではない、数百数千の「他国の言葉」により、 同じキリストの福音が、同じキリストの教会によって、同じキリストの弟子たちを通して宣べ 伝えられているのです。私たちこそ「神の大きな働き」に驚き打ち砕かれざるをえません。今 朝あわせてお読みした創世記2章7節に「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に 吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とありました。私たちは“神の息”である聖 霊によってのみ、はじめて生きた者となります。信仰によってキリストに結ばれ、教会によっ て復活の生命にあずかり、聖徒の交わりに生きる者とされて、私たちは「永遠の生命」にあず かる一人びとりとされているのです。  主イエスの十字架を、この私のための犠牲であり「救い」であると、心から受け止め信じる ことが聖霊なる神の働き(ペンテコステの出来事)です。この働きによって聖霊は、私たちを 根底から揺さぶり、打ち砕き、力と平安と勇気を与え、信仰を強め、教会を完成へと導いて下 さいます。私たちは救いの御業を完成して下さった神を信じ、礼拝する者とならせて戴いてい る。「生命を与える聖霊」なる神の救いの御業に、いまここにおいて豊かに与る者とされてい る。このペンテコステの出来事こそ、私たちがいつも堅く主に結ばれている徴なのです。