説    教     詩篇17篇15節    ガラテヤ書3章23〜29節

「最も幸いなる呼称」

 ガラテヤ書講解(24) 2013・05・12(説教13191483)  今朝の御言葉ガラテヤ書3章23節以下、特に26節に改めて心を留めたいと思います。「あ なたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである」。使徒パウロ はここに「あなたがたはみな、神の子である」と喜びの宣言をしています。「キリスト・イ エスにある信仰によって」というのは、私たちがみな「イエスは主なり」と信ずる信仰によ ってキリストの復活の生命に堅く結ばれている恵みの事実です。この恵みの事実に基づく限 りない喜びの告知が今朝の御言葉なのです。  そこで、新約聖書の原文はギリシヤ語ですけれども、ここの原文を見ますと「わたしたち」 「あなたがた」という代名詞はなく、動詞の形が変わるので、いま誰のことを言っているの かがわかる、そういう文章になっています。つまり23節以下25節までずっと「わたしたち」 が主語で語っていたのに、26節では突然「あなたがたは」に主語が変わっている。いわばパ ウロはここでがらりと語調を変えている。それはなぜでしょうか。今までは「わたしたち」 が中心だったけれど、これからは「あなたがた」のことを語るのだ、ということなのでしょ うか。そうではありません。  実はこの26節には、口語訳では訳されていない、ひとつの大切な言葉が含まれています。 それは「なぜなら」という言葉です。つまり26節は25節の説明なのです。「しかし、いっ たん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育係のもとにはいない」とあることです。 この「信仰」とはキリストのことであり「養育係」とは律法をさしています。つまりパウロ はこの25節の音信(おとずれ)がどうして私たちの喜びなのか、それは26節が語る恵みの 事実があるからだと宣言しているのです。その恵みの事実こそ「(なぜならば)あなたがた はみな、神の子である」という事実です。このことを聖書は限りない喜びをもって語ってい ます。25節と26節との繋がりに、すでに大きな福音の喜びが告げられているのです。  ガラテヤ書の終始一貫した主題は「正しいキリスト告白に生きる教会」です。言い換える なら「正しい信仰とは何か」ということです。その信仰にいま私たちが生きているかどうか が問われています。それは今朝の3章23節以下において、今は“信仰の時”なのだと語ら れていることによってもわかります。私たちのためにキリストが世に来られ、十字架におか かり下さった、確かな“恵みの事実”がある。私たちはこの“恵みの事実”の中に生きてい るのです。だからこそパウロは語ります。私たちはもはや「養育係(律法)のもとにはいな い」と!。「養育係」は私たちをキリストへと導く役目を果たすものです。その救いの「本 体」であるキリストが世に来られた以上、私たちはもはや「養育係」(律法)という影のも とにはおらず、キリストの恵みのご支配のもとにある者たちなのです。    そこで、この26節の喜びの宣言は、さらに続く27節で説明されますが、十字架のキリス トという確かな唯一の主語(保障)を持っています。「キリストに合うバプテスマを受けた あなたがたは、皆キリストを着たのである」。まさにこの喜び溢れる救いの事実によって、 私たちはいま確かに「神の子」とされているのです。過日、私たちは信仰の友・三橋敏代姉 妹を天に送りました。私たちはこう思います。教会の本当の祝福(教勢)はいまここに何十 人の人たちが集まっているかということ以上に、何十人何百人の本当の「主の僕」が天の“勝 利の教会”で共に主の御名を讃美しているかで決まるのです。私たちは悲しみの中にも、姉 妹によって、姉妹と共に、救い主なる神の御名を讃美します。「キリストに合うバプテスマ を受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」からです。ここに、生にも死にも決し て変わることのない、私たちの慰めと喜びと生命があるからです。  私たちは洗礼によって「キリストを着る者」とされたのです。「キリストを着る」とはそ のまま“アーメン”と告白せざるをえない恵みです。キリストが、罪の塊のような滅びの子 である私たちを、あるがままに覆って下さったこと。「キリストの義」が私たちの生命その ものとなったことです。だからこそ洗礼の恵みにより、私たちはあるがままに「神の子」と ならせて戴けるのです。なぜか。ここ27節でパウロははっきりと語っています。「キリスト に合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである」と。  実はこの「キリストに合うバプテスマ」とは、実に驚くべき御言葉なのです。これに驚か ずして何に驚くのかと思うほどです。原文のギリシヤ語を直訳するなら、これは「キリスト との永遠の交わりの内に生きる者とされる」という意味になります。もうずいぶん前ですが、 ある姉妹の葬儀のあと、火葬場でその娘さんが「母は迷わず天国に行けるでしょうか?」と 私に訊かれました。そこには仏教的な「四十九日」という考えがあったのかもしれません。 そこで私は即座に「たとえお母さまが天国への道を迷っても、キリストはお迷いになりませ ん」と答えました。ハイデルベルク信仰問答には、私たちは死によって直ちに(すなわち煉 獄などを経ずに)キリストのもとに迎えられると告白されています。この「直ちに」という 言葉はドイツ語で“ウンミッテルバール”というのですが、これは“いかなる障害物もなく” という意味です。  どうぞ私たちは思ってみたらよい。私たちが「神の子」と呼ばれることは自然なこと(当 然のこと)なのか? そうではないでしょう。そこには想像もつかないような無限の「障害 物」があるのではないでしょうか?。何にもまして私たちの「罪」が、私たちが「神の子」 であることを無限に妨げる。「あなたは決して“神の子”とは呼ばれえない」というのが私 たちの自然な成り行きなのです。日本人は名刺が(肩書きが)好きです。人によってはたく さんの肩書きを持っています。しかし私たちがたとえこの世でどんな肩書きを持とうとも 「神の子」という肩書きを持つことは絶対にできない。言い換えるなら「肩書き」は全て死 ぬまでのものです。死んだら肩書きの意味も効力も消滅します。しかし死によってもなお決 して消滅しえない唯一の肩書きがある。それこそ「神の子」という肩書きなのです。主に贖 われた者の幸いの生命です。  私たちのこの世のどんな肩書きも、私たちを「神の子」とすることを阻む無限の“障害物” を取り除くことはできません。私たちの力、つまり「律法の義」によっては決して「罪」は 贖われないのです。どんな肩書きも行いも、聖なる神の前には無に等しいのです。では何が 私たちを「神の子」けとなすのか?。私たちはただ「キリストを着る」ことによって「神の 子」とならせて戴けるのです。たとえ私たちは御国への道を迷っても(事実、迷うほかはな い私たちですが)キリストは絶対に迷いたまわない。私たちは罪と死に対して限りなく無力 ですが、キリストは十字架によって罪と死に永遠に勝利して下さったのです。私たちのため に、主が、私たちをあるがままに覆って下さる。「キリストを着る」者とならせて下さるの です。  私たちは毎週の礼拝において、また自宅においても「主の祈り」を献げます。「主の祈り」 の最初の言葉はなにか? 「天にましますわれらの父よ」です。どうして私たちはこの祈り を献げうるのか。まことの天の父の独り子なるキリストが、私たちの無限の罪の贖い主であ られるからです。この恵みによって、神と私たちとの関係は“父と子の交わり”としか呼び えぬほどに確かな、深い愛の関わりとなりました。詩篇27篇10節「たとえ父母われを捨つ るとも、主われを迎えたまわん」この信仰こそ私たちの信仰です。ルターはこれを「父なる 神の発見」であると呼びました。私たちは言葉(観念)では「父なる神」を知っていても、 実は身に沁みて知ってはいなかった。しかしいまキリストによって、身に沁みて「神の子」 とされる喜びに生きる私たちとされているのです。  今朝の御言葉の23節には「信仰が現れる前には」とあり、また「やがて啓示される信仰 の時」とあります。そして24節に「このようにして律法は、信仰によって義とされるため に、わたしたちをキリストに連れて行く養育係となったのである」と続きます。パウロはこ こに「律法」が「わたしたちをキリストに連れて行く養育係」であることを明らかにすると 同時に、いま私たちは「信仰の時」に生きている、つまり「キリストの時」にあることを明 確にします。どうぞ気を付けて下さい。23節の最初に「信仰が現れる」という言いかたがさ れている。これは「あなたの救いのためにキリストが世に来られたこと」を意味します。私 たちは「信仰」と聞くとき、すぐにそれは「自分の心の中のある状態のこと」だと思ってし まいます。パウロははっきりと「そうではない」と語るのです。「信仰」は私たちの心の状 態のことなどではない、そうではなくて「キリストが世に来られたこと」なのだと言うので す。  そうすると私たちにとって「信仰」そのものの意味が大きく変わってくるのです。「信仰」 とは、私たちが自分の意思で、持ったり、持たなかったり、あるいは、強めたり、弱めたり、 気に入らなければ捨てたりできるものではない。そうではなく、私たちのため、この世界の 救いと完成(平和)のために世に来たりたもうたキリストの愛の御業を、そのままに受け入 れることが「信仰」なのです。だから「信仰」の本体は私たちの心の状態ではなく、生きて 私たちと共にいましたもうキリストにあるのます。キリストのみが信仰の「主語」なのです。 これはとても大切なことです。だからこそパウロは「信仰が来た」と言っているのです。そ れは「あなたの救いのためにキリストが世に来られた」という意味です。  あなたを愛し、祝福し、死から生命へと甦らせるために、あなたを「神の子」として下さ るために、いまキリストはあなたのために来られた。…ある意味でガラテヤ書の語る福音は この“来たりたもうキリスト”の恵みに尽きていると言ってよい。ただこの恵みのみを明ら かにするために、パウロは時に厳しい口調で、ガラテヤ教会の人々に福音を語っているので す。それはこの手紙の3章13節に明らかにされている救いの恵みを明らかにするためです。 3章13節以下。「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法のの ろい(障害物)からあがない出して下さった。聖書に『木にかけられる者は、すべてのろわ れる』と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦 人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである」。  そうです、キリストは、私たちのために、まさにあなたのために世に来られました。そし て私たちの救いのため、呪いの十字架を身に背負われ、贖いの死をとげて下さいました。そ れはアブラハムを通して主なる神が、全人類に約束なさった救いの恵みが「異邦人に及ぶた め」です。すなわち「神の子」でありえなかった私たちが「神の子」とされ「御国の民」と ならせて戴くためです。私たちがキリストと共に、キリストの愛と祝福の内を、心を高く上 げて歩む者とされるためです。私たちは「約束された御霊(聖霊)」を神から賜わっていま す。そして「神の子」とされた私たちは、聖霊の揺るがぬ慰めと導きのもとを歩むのです。 もはや私たちは迷いません。聖霊によって生けるキリストが共にいまし、私たちを永遠に確 かに「神の子」としていて下さる。その恵みは決して変わることはないからです。