説     教    詩篇40篇1〜5節   ガラテヤ書3章19〜22節

「律法が告げる福音」

 ガラテヤ書講解(23) 2013・05・05(説教13181482)  「人はただ信仰によってのみ義とされ(罪を贖われ永遠の生命に甦り)神の国の民とされる(神 の愛と祝福の内を歩む者とされる)」。これがガラテヤ書全体を貫く福音の喜びの告知です。そし てさらにガラテヤ書は、その福音の喜びの告知は、既に旧約聖書において「救いの約束(契約)」 としてアブラハムに与えられ、その「救いの約束」は新約において主イエス・キリストによって 成就したと語るのです。だからこそパウロは(意外に思われるかもしれませんが)「律法」を大 切にしています。何よりもパウロは「律法」は救い主キリストへと私たちを導く「養育係」なの だと語るのです。そこで、私たちが神の祝福の「相続」に与るのはただ「救いの約束」を信ずる 信仰、すなわち神の御子イエス・キリストを信じて教会に連なることによるのであり、「律法」 はこの「救いの約束」を私たちにはっきりと知らせる神の言葉なのです。  ここに、イエス・キリストによって成就した神の「救いの約束」を信ずるパウロ(すなわちキ リスト教会)と、「律法」をただ単に人間の行い(功績)だと理解する「偽教師たち」(福音的律 法主義者たち)との決定的な違いがありました。前者は神中心・キリスト中心であり、全ての人 を愛して独子イエスを世に賜わった父なる神の限りない愛と、全ての人に対する祝福と救いの約 束のみを語ります。それに対して後者は人間中心であり、ごく一部の能力と資格を備えた特別な 人間だけが救われると主張します。前者は贖い主なるキリストにおいて全ての人の救いを“恵み の賜物”として見いだし、後者は自分を神に祭り上げる傲慢さにおいて限られた者の救いを“肉 の義による特権”として見いだしたのです。  そこで今朝、私たちは、特にガラテヤ書3章19節の御言葉を通して、十字架の主イエス・キ リストによる福音の喜びの調べを聴きました。同時にそれは私たちが、パウロがこの手紙で明ら かにしている「律法」の真の姿に触れることです。「律法とは何か」という大切な問題です。私 たちはしばしばこう思うことはないでしょうか。「パウロはガラテヤ書の中でしきりに律法につ いて語るけれども、今日の日本に生きる私たちに律法は不必要ではないだろうか?」と。パウロ の時代のガラテヤ教会ならともかく、現代日本の葉山教会に連なる私たちにとっては『キリスト による救い』だけが大切なのであり「律法」は克服された過去の問題にすぎないという思いを私 たちは抱くのです。だからガラテヤ書に数多く「律法」が取り上げられていることに正直困惑す るのです。あんがい私たちは心の中で、このガラテヤ書を古文書のように扱っています。ここに は現代の私たちの実情とはかけ離れた、古代のガラテヤ教会の問題が描かれているに過ぎないと 思うのではないでしょうか。  もちろん、それは正しくありません。ガラテヤ書が「律法」において語ることも、まさに現在 の私たち一人びとりへの確かな「救い」の音信なのです。御言葉と聖霊によって現臨しておられ るキリストによる救いの御業が、いま私たちのただ中に現れています。キリストは過去のかたで はなく、今も後も永遠までも共にいましたもう「救い主」です。それならば『キリストによる救 い』のみを語るガラテヤ書もまた、今ここにおける救いの出来事のみを物語るのです。だからこ そ私たちは今朝の19節の御言葉に心をとめたいのです。これを私たちは3つの部分に分けて読 むことができます。第一に「それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから 加えられたものである」。第二に「(律法は)約束されていた子孫が来るまで存続するだけのもの であった」。そして第三に「(律法は)天使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたもので ある」。  まず第一の御言葉に心を留めましょう。「それでは、律法はなんであるか。それは違反を促す ため、あとから加えられたものである」。この御言葉こそ、まさに現代の私たちへの「福音」と して宣べ伝えられています。ガラテヤ書の中でこの言葉はもっとも難しいと言われます。原文の ギリシヤ語を直訳すると「それでは、律法とは何であるか。それは罪のために、追加されたもの である」という文章になります。するとパウロは「律法」は私たちの「罪」に基くものであって、 いわば「無いほうが良いもの」だと言いたいのでしょうか。すると「律法」(旧約聖書)が神の 言葉であるということがわからなくなります。矛盾の迷路をさまようことになるのです。  そうではなく、ここで言う「罪のために追加された」とは「(律法は)私たちの罪を明らかに するために、モーセを通して(救いの約束に)加えられたものである」という意味です。すると よくわかるのではないでしょうか。例えばこの社会には「法律」があります。日本語では「法律」 と「律法」は別の言葉ですが、外国語では区別がありません。そこでもし私たちの社会に「法律」 がなかったとしたら、それを冒す「違反」もないことになります。そのかわり社会は文字どおり 「無法地帯」に化すでしょう。ここにこういう法律がある、これを守らなければならない、そう してこそ人間の社会生活が成り立つ。そういう公共の了解(約束)のもとに人間の社会は造られ てゆきます。  つまり法律(律法)の目的は、私たちを“罪の自覚”へと導くことにあるのです。そのことを パウロはここで「律法はなんであるか。それは違反を促すため(のものである)」と見事に語っ ているのです。子供の頃の「しつけ」が大切だと言う意味はまさにここにあります。「しつけ」 という漢字は“身体が美しい”と書きます。この身体とは人間の生活です。だから「律法」はま さに人間の生活全体に関わるのです。主イエスは言われました「心の貧しい人たちは幸いである。 天国は彼らのものである」と。私たちは神の「律法」によってはじめて「心の貧しさ」すなわち 真の神を求める生活へと導かれるのです。ではユダヤ人ではない人間はどうなのか。パウロは語 ります。全ての人に「良心」(コンシャンス)があるではないか。生まれながらに魂の無法地帯 にある人間はいないのです。ユダヤ人ではなくても「良心」がその人の「律法」である。この「律 法」は全ての人をキリストに導く「養育係」なのだということ。それが19節の語る第一の福音 です。  第二の福音は「(律法は)約束の子孫が来るまで、存続するだけのものであった」ということ です。これは何を語っているかと申しますと、律法(良心)は私たちをキリストへと導くもので ある。それは言い換えるなら、キリストは「律法」(良心の要求)を守りえない私たちの破れ(罪) のただ中で私たちに出会って下さるかただということです。「律法」が神のご意思であるならそ れは絶対に守られねばなりません。しかしそれは私たちには不可能なのです。私たちには「律法」 (良心)の定めのままに生きる力はないのです。だからパウロはローマ書3章20節に「律法に よっては、罪の自覚が生じるのみである」と語っています。「罪の自覚」は「罪からの救い」と は別のものです。自覚しただけでは罪からの救いとはなりません。つまり律法は人を生かすもの ではなく、かえって殺す(絶望させる)ものなのです。  それならば、まさにこの「律法」の要求(律法の義)を満しえない私たちのために、神の御子 イエス・キリストは世にお降りになられたのです。ヨハネ伝3章16節「神はそのひとり子を賜 わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の 命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によっ てこの世が救われるためである」。もともと私たちは「罪」と聴くと抵抗感があるのです。自分 は何も「罪」などおかしていないと思うのです。しかしそれは私たちが新聞に載るような「犯罪」 と無関係だというだけのことです。眼に見える「犯罪」はなくても、眼に見えない神に対する「罪」 は厳然として在るのに、私たちはその大切な「罪」に気がつきません。英語では「クライム」と 「シン」を区別します。もし私たちが心のどこかで「自分は罪などおかしていない」(私はクリ ミナルな人間ではない)と居直っているなら「クライム」だけを考えて「シン」を考えていない のです。律法の目的はこの「シン」(神に対する罪、そしてそこから生ずる、全ての人に対する 罪)を明らかにすることにあるのです。  ローマ書5章6節以下に驚くべき御言葉が語られています。「わたしたちがまだ弱かったころ、 キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。正しい人のために 死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神 はわたしたちに対する愛を示されたのである。わたしたちは、キリストの血によって今は義とさ れているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう」。この御言葉が宣べ 伝える福音を言い換えるなら、今朝のガラテヤ書3章19節になるのです。神に立ち帰ろうとし ない(悔改めのない)私たちの姿があるのです。しかし最も大切なことは、まさにその「不信心」 な私たちのために「キリストは、時いたって…死んで下さった」という事実です。神の御子キリ ストのみが、私たちが「不信心」であった時にさえ黙って十字架を背負って下さった。「救い」 を明らかにして下さった。それこそ今朝の御言葉でパウロが語る「約束されていた子孫が来る」 その「時」のことです。その「約束されていた子孫」こそ「アブラハムのすえ」なる主イエス・ キリストのことなのです。  だから、ここでパウロがガラテヤ書を通して明らかにしている福音は、キリストは私たち全て の者を救うために「律法」を「成就」して下さった「救い主」であるということに尽きます。す なわち「律法」の審きにみずから打たれて十字架上に死んで下さった贖い主キリストは、本来な ら私たちが担うべき「律法」の審きを身代わりに担って下さったのです。そのことによって「律 法」は「成就」された。神の義が貫徹された。だからそのキリストを信ずる信仰によって全ての 人が「神の国の民」とされるのです。もはや罪と死は私たちの「主」とはなりえない。私たちの 絶望さえも担い取って下さった十字架の主によって、真の神との永遠の交わりの内に生きる者と されているのです。  パウロはさらに語ります。ローマ書5章6節以下です。私たちは人間の「正しさ」のゆえに自 分の生命を献げることはないであろう。しかし「善人」つまり恩義ある人のためには進んで死ぬ 者も「あるいはいるかもしれない」。しかしキリストは、正しくもなく恩義もない、あるのはた だ「罪」だけの私たちのために、私たちが「まだ罪人であった時、わたしたちのために…死んで 下さった」のだ。ここに福音の極みまでの深さがあります。天地万有の創造主なる神が、私たち のためにご自身の全てを与え尽くして下さった。そこまでして私たちを祝福して下さった。生命 を与えて下さった。教会に連なる者として下さった。神と共に神の愛の内を歩む者として下さっ たのです。  そこでこそ、今朝の第三の福音が結論として出てきます。「(律法は)天使たちをとおし、仲介 者の手によって制定されたものである」。この「仲介者」とはモーセのことです。ですからキリ ストをあらわす「仲保者」とは別の言葉です。どこまでも「福音」の約束(キリスト)が「本体」 であり「律法」はそれを証しする「影」にすぎないのです。大切なのは「本体」であるキリスト のみです。私たちのためにキリストが成就して下さった全ての御業、十字架による全き罪の贖い を、この私のための「救い」として感謝し受け入れ、信じて歩むこと、そのことによって私たち は何の値もなきままに、あるがままに「義」とされるのです。神の愛の内を勇気と平安をもって 歩む者とされるのです。  キリストの十字架は、天使も、いかなる人間の仲介もなしに行われました。ヨハネ伝1章17 節に「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてき たのである」とあるとおりです。イエス・キリストによる「義」(まことの救い)を受けるため には、人間の行いによる義(律法による義)に遥かにまさる義が必要です。その律法の義に遥か にまさる「神からの義」を十字架の主のみが私たちに与えて下さるのです。だからそこで私たち に問われることは「あなたは十字架の主を信ずるか?」ということだけです。そこにいかなる差 別もない。まさに今朝の3章22節にあるように「(救いの)約束が、信じる人々にイエス・キ リストに対する信仰によって与えられる」のです。  この信仰の上にのみ、まことの主の教会が建てられてゆきます。そして私たちの日々の生活も また、十字架の主イエス・キリストを信ずる真の信仰告白の上にのみ、真に自由で健やかな御国 の民の生活とされてゆくのです。