説    教    ヨブ記1章20〜22節   ガラテヤ書3章13〜14節

「生死事大」

 ガラテヤ書講解(21) 2013・04・21(説教13161480)  教会総会の主日を迎えるたびに思い起こすことがあります。教会総会の資料、これを作成 するのは本当に大変な奉仕です。その中に印刷と装丁の奉仕がある。7年前に40代の若さで 帰天された安倍三枝子姉妹が、この印刷と装丁の技術を覚えて下さいました。そうして執事 としてこれから、という矢先に病に冒され、2年間の闘病生活の後に帰天されたのです。そ の間いろいろなことがありましたが、一貫していたのは姉妹の揺るぎなき信仰の姿でした。 最後の数日間、私が南共済病院に参りますと、姉妹は私に「先生、どうか私のために、祈っ て下さい」と言われました。何を祈るのか。「私が最後まで、主に堅く拠り頼む者であり続 けように、そして残される家族のために祈って下さい」と言うのです。私はそこに、人間の 存在にとって最も大切なことが輝いていると思いました。そ私が祈ると安倍姉妹はこう言わ れました。「私は主なる神に拠り頼みます。私は贖い主なるキリストを信じます。主を待ち 望み決して離れません」。それが姉妹の最後の言葉となりました。  私たち人間の最も大切なことは何でしょうか。人間という字は「人の間に生きる」という 字です。しかし人間関係は人生のごく一部にすぎません。何よりも大切なのは主なる神との 関係です。譬えて申しますなら、樹木を眼に見えない根が支ているように、造り主なる神と の関係こそ私たちの本当の基礎なのです。それなくして私たちは人間たりえない、その根本 の部分こそキリスト・イエスにありて(結ばれて)罪の赦しと贖いの恵みの豊かさの中に立 ち続けることです。主なる神との関係を正しくして戴くことなのです。    旧約聖書にヨブ記があります。ヨブは主の前に「正しく信仰の深い人」でしたが、ある日 突然彼の上に信じられない悲劇が起こります。男の子7人と女の子3人、ヨブの子どもたち 十人揃って仲良く食事をしているとき、砂漠から吹いてきた猛烈な風によって建物の支柱が 折れ、全員が下敷きになって死んでしまった。最愛の子供たち全てを一瞬の内に失ってしま った。そのときヨブは「上着を裂き、頭をそり」「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でか しこに帰ろう。主が与え主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」と祈ったのでした。 言語に絶するのたうつような苦しみの中で、ヨブはなおそこで主なる神の御名を崇めた。不 条理な現実の中でこそ、ヨブは礼拝と祈りに立ち続けたのです。  私たちはこのことを、ヨブは特別に信仰の深い人だからそのような立派な態度が取れたの だ(つまり私たちとは無縁だ)と考えるでしょうか。それならヨブ記はそこで終わっている はずです。そうではない。むしろヨブ記はそこから始まっているのです。ヨブはこの不条理 の中で神の御名を崇めた、だからこそあたかも神の胸ぐらを掴むように「何故なのですか?」 と問い続けたのです。神の義を問うたのです。ヨブ記全体が人生の不条理に対するヨブの痛 切な問いに貫かれています。その問いの中でこそ、ヨブは「われは知る、われを贖う者は生 きておられる」と、キリストによる贖いこそ人間を人間たらしめる真の恵みであることを知 るのです。それは私たち葉山教会の者たちにとっても同じではないでしょうか。安倍姉妹の 帰天のわずか3ヶ月の間にご主人が天に召されました。その葬儀もここで行いました。あと に2人の兄弟が遺されました。その時まだ中学生と高校生でした。いまは立派に就職し、そ して大学生となり、ご両親の意志を継いで生きています。私たちはこの若き兄弟と共に、主 にある信仰の仲間として、私たちが生きるにも死ぬにもただキリストの永遠の御手に結ばれ ていることを信じます。「主よ何故なのですか?」と問わずにはおれない人生のあらゆる不 条理のただ中でこそ、今朝の御言葉を共に聴く者とされているのです。  旧約の詩篇32篇1節2節において詩人である預言者はこう語っています「そのとががゆ るされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。主によって不義を負わされず、その 霊に偽りのない人はさいわいである」。この言葉の意味はこうです。ここに死に打ち勝つ本 当の生命がある。それは私たち自身ではなく、造り主なる神の御手にあるゆえに、希望的観 測などではなく、生きた現実の救いの恵みなのです。その限りない生命の祝福の御手に私た ちは守られ支配されている。たとえ私たちの「とが」がいかに大きくても、それが主によっ て「ゆるされ」「(主にありて)おおい消される」恵みを私たちはいま与えられているので す。  あるがままの私たちが、主なるキリストの義によって「おおわれて」いる「さいわい」い に私たちはいま生かされています。だから詩人は続いてこう告白します「主によって不義を 負わされず、その霊に偽りのない人はさいわいである」と。この言葉もまた、私たちを生か しているキリストの贖いの恵みを告げています。私たちの「不義」(叛きの罪)が私たちの 存在を「死ののろい」の内に閉じこめようとするその時、主はその「のろい」の中から私た ちを十字架の死によって贖い出して下さった。だから幸いなのは(真の生命を生きるのは) 「霊に偽りのない人」です。そもそも「霊に偽りのない」人間など存在しません。しかし「偽 り」(罪の結果)が既定の事実として私たちを滅びに引きこもうとする時、その「滅び」を 主が私たちのために“担い取って下さり、勝利して下さった”という恵みの事実の中に、私 たちの全存在が「覆われている」だから「(主によって)その霊に偽りのない者とされた(あ なたは)さいわいである」と詩人は告白するのです。  そこで、この「さいわい」とは人を生かしめる本当の生命(キリストにある復活の生命) です。その生命は死の「のろい」をも打ち砕く神の恵みのご支配です。この神の恵みのご支 配のことを、新約聖書では「神の国」または「天国」と言うのです。それは単なる「来世」 ではなく、いまここにおいて私たちを生かしてやまない神の恵みです。私たちの全存在・人 生の全体を祝福する神の限りない愛です。私たちのために御子イエスをも賜わった愛が私た ちを覆い包んでいて下さる。「罪」(滅び)の塊のような私たちを、そのあるがままに、キリ ストの祝福が、キリストの生命が、今も後も永遠までも、私たちの存在を覆っているのです。  私たちは「神を神であるゆえに崇める」礼拝の厳粛さと素晴らしさを、人生が平安であり 波風が立たないから経験できると勘違いしていないでしょうか。あるとき「いま家庭の中に 悩みがあり、礼拝に出席する気持ちになれません」と言われたご婦人がいました。「家庭の 問題が解決したら礼拝に出席します」と言うのです。私はそのご婦人に「それは逆ですよ」 と申しました。「悩みがあるなら、その悩みを丸ごと抱えたままで礼拝に出席なさい。主は あるがままのあなたを招いておられる。優等生のあなたではなく、そのままのあなたを、主 は限りなく愛していて下さいます」と申しました。私たちと永遠に共にいて下さるかたはど なたか?…まさに「死に引導を渡されたかた」が私たちと共におられるのではないでしょう か。ここには、礼拝に出席して、暑いだの寒いだの、椅子が堅いだの、そんなことは吹き飛 んでしまう恵みの豊かさがあるのです。ここにこそ「人間がなしうる最後の行為」があり「人 間の語るべき最後の言葉」があります。永遠に失われることのない本物の生命が輝いている のです。  神を讃めたたえること。私たちがいまここで献げている礼拝は何であるかを忘れてはなら ないのです。人間が真に人間であることの自由と平和、喜びと平安が、復活の生命が、ただ 贖い主なるキリストのもとにのみあるのです。そのキリストに身も心も魂も結ばれた者とし て、贖われた者として生きること「キリストの内に自分を見いだす」ようになること、そし て世界をも全ての人々をも、キリストの無限の愛の内に新たに見いだす者となること。それ が私たちが献げている礼拝です。だからパウロは第二コリント書5章17節にこう語ってい ます「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ 去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。  聖書が語る福音の本質は、まことの神が、私たち全ての者を限りなく愛されるがゆえに、 私たちの救いのために、私たちのありとあらゆる不条理(罪の現実)に「天を押し曲げて」 (詩篇18篇9節)までも介入された(連帯して下さった)という事実にあります。この主 なる神の行為を別の言いかたで詩篇18篇は19節に「主は高い所からみ手を伸べて、わたし を捕え、大水からわたしを引き上げ」て下さったと語ります。この「み手を伸べて」という のは、私たち人間のあらゆる現実の不条理のただ中に来て下さったということです。私たち の底知れぬ罪の深みのどん底にまで主は降って来て下さったのです。そして「大水から」(つ まり誰一人としてそこから這い上がることのできない場所)から、私たちを救い出して下さ った。そのかたこそ、歴史の主なる神であられるのです。  まさに、その旧約の証言を明らかにする福音として、今朝のガラテヤ書3章13節に驚く べきことが告げられています。それは「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、 わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」という福音の真理です。これは新 約聖書の中で最も声高く十字架の主イエス・キリストの恵みを私たちに告げる御言葉です。 神は私たちを罪と死から贖い、永遠の生命に甦らしめ、父と御子と聖霊なる三位一体なる神 との永遠の生命の交わりの内に生かして下さるために(神の愛においてこそ私たちを人間た らしめて下さるために)堅い鋼(はがね)のような「天」をも引き裂いて私たちのもとに降 られ、私たちの「罪」の極みに連帯して下さったのです。それが十字架の主イエス・キリス トのお姿なのです。  神は並びなく聖にして清きかたであるからこそ「神」ではないのか…。ならば実にその「神」 が私たちの救いのために、私たちの「のろい」を十字架において徹底的に担って下さったの です。まさにパウロはその事実を「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって」と告 げるのです。ただ「身代わりになられた」などという生易しいものではない。キリストみず から神の義に打たれて死んで下さった。「のろい」を身に引き受けて下さった。「のろいの 木」そのものである十字架にかけられ、全ての人の罪の贖いとられた。そのようにして私た ちを「律法ののろい」すなわち罪と死の支配から贖って下さったのです。言い換えるなら、 永遠に聖なる神が神の外に出て下さった。神が神ではない者になってまで、私たちを救って 下さったのです。  キリストは神の外に出てまで、罪人なる私たちが担うべき究極の「のろい」である永遠の 死を死なれ、そのようにして私たちに復活の生命を与えて下さいました。この主なる神の御 業ゆえに、私たちはいかなる時にも神を崇め、礼拝を献げてやまないのです。礼拝を人間の なしうる永遠の究極の行為として献げるのです。それは限りない喜びであり厳粛な「わざ」 です。十字架と復活の生命の主・贖い主なるキリストが聖霊と御言葉においてここに現臨し ておられるのです。この主が私たち全ての者のために「天を引き裂いて」まで降って来て下 さったのです。ここに私たちの「生きるにも死ぬにも、永遠に変わることのない慰め(生命 の生命)」があるのです。  実にこの生命に支えられ、主が共にいて下さる限りない恵みのゆえに、私たちは臨終のき わにおいても、変わることなくキリストの御手の内にあり続けます。いかなる病も、どのよ うな臨終のさまも、私たちを堅く支えたもう主の御手から片時も離れていません。私たちは そのあるがままで良いのです。主はあなたの全存在をすでに御手の内に永遠に受け止めてい て下さる。決して私たちを離れたもうことはないのです。「私は贖い主なるキリストを信じ ます。私は主を待ち望み、決して離れません」と、私たちもまた日々に告白しつつ、十字架 の主に贖われた者として、心を高く上げて生きてゆく僕であり続けたいと思います。