説    教    創世記12章1〜4節   ガラテヤ書3章6〜9節

「諸国民への祝福」

 ガラテヤ書講解(19) 2013・04・07(説教13141478)  今朝、私たちに与えられたガラテヤ書3章6節から9節の御言葉をもう一度、口語訳で心 に留めましょう。「このように、アブラハムは『神を信じた。それによって、彼は義と認め られた』のである。だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきであ る。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハム に、『あなたによって、全ての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを、予告したの である。このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである」。  使徒パウロはガラテヤの諸教会に対して、とても注意ぶかくこのことを書き記しています。 この箇所だけで5回ぐらい説教をすべきではないかと思われるほどです。ある意味でここは ガラテヤ書の中心部分であるとさえ言えるのです。そこで、私たちの信仰生活の要点は3つ であると言えます。第一に、日々聖書に親しむこと。第二に、祈りを献げること。そして第 三は、礼拝中心の生活をすることです。しかし私たちは、ともすると第三の「礼拝中心の生 活をすること」だけを教会生活に関連づけて考え、最初の二つは、ともすると個人的なこと だと考えてしまうのではないでしょうか。しかし日々聖書に親しむことも、祈りを献げるこ とも、教会というキリストの復活の身体に連なってこそはじめて成り立つことです。言い換 えるなら、聖書を読むにしても、祈りを献げるにしても、私たちは自分の「わざ」ではなく、 いつも「十字架の主の恵み」として生きる者とされている。しかもそれは絵空事ではなく、 実際にキリストの身体なる教会に連なることによって、私たちの日々の限りない慰めとなり 力となるのです。これはどんなに幸いなことでありましょう。  それは何より、旧約聖書の読みかたについても言えます。パウロは今朝の御言葉で旧約・ 創世記から2つの言葉を引用しています。すなわち今朝の6節では創世記15章6節を、そ して8節では12章3節を引用しています。これはともに「信仰の父」「諸国民の父」と呼ば れたアブラハムについて語られているところです。どうか私たちはこの2つのアブラハムの 称号(タイトル)を心に留めましょう。パウロはそれを順番に説き明かしています。第一に、 アブラハムが「信仰の父」と呼ばれることについて、パウロはここで端的に「信仰による者 こそアブラハムの子である」という音信(おとずれ)を宣べ伝えています。  当時、ガラテヤの教会に入りこみ人々を混乱させていた「偽教師たち」は、それとは全く 異なる教えを説いていました。彼らも自分たちが「アブラハムの子」であることを常に強調 していました。しかしそれは律法の掟を守ることによって「アブラハムの子」と呼ばれるの であって、キリストを信じることによるのではなかったのです。そうしますと「律法」と言 うのは結局は人間の功績です。人間の清さ、人間の正しさ、人間の資格です。つまり「偽教 師たち」が語っていたことは、自分たちは人間の清さ、正しさ、資格を究めることによって 「アブラハムの子」になれるのだという教えでした。これは道徳による救いです。完全な清 さと正しさを極めた者だけが神の救いにあずかることができるという教えです。言い換える なら、神は聖なるかたなのだから、私たちも神と同じ聖なる存在(完全な人間)になるべき だという教えでした。  まさにパウロはそこでこそ、ガラテヤの教会と私たち一人びとりに問いかけています。旧 約の語る福音は本当にそのようなものであろうか?。答えはもちろん「否」です。主なる神 がアブラハムを通して世に現わしたもうた福音は、私たちが自分の正しさによって救われる などという「律法」ではありません。もしそれが旧約の福音だとしたら誰一人として神の救 いにあずかりうる者はいないでしょう。そもそも私たちは、神が聖なるかたであるのと同じ 意味で、自分を聖なる者となすことなどできないからです。それが「できる」と考えなら、 それこそ傲慢の極致だと申さねばなりません。  パウロが宣べ伝えている教え、つまり聖書が語る福音は、そのような“人間の神格化”と はなんの関わりもないものです。そもそも「アブラハムは(神によって)義と認められた」 という場合の「義」とは、神が私たちを一方的な永遠の愛をもって救って下さったことです。 まず私たちが完全な人間になって、その後に救いがあるというのではない。そうではなく、 主はこう言われるのです「あなたの罪も弱さも汚れもあるがままに私のもとに来なさい。そ のとき私の「義」があなたを覆う。あなたの絶望をさえ私の手に委ねなさい。そのとき私の 愛があなたを堅く支える」。神の限りない愛と恵みの招きが先なのです。私たちの側の正し さや資格は何も問われません。大切なのは信仰のみです。信仰とは、神が御子イエス・キリ ストにおいてなして下さった全ての救いの御業を「アーメン」と受け入れることです。ただ そのキリスト信仰のみが、私たちに問われているのです。  なによりもの恵みを、パウロが引用する創世記15章6節の御言葉が証しているのです。 「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のです。ここにはアブラ ハムが自分の正しさや行いによって救われたとはどこにも書いてない。そうではなく、アブ ラハムはただ信仰によってのみ「義とされた」(救われた)のです。だからこそ彼は「信仰 の父」と呼ばれるのです。そしてそれは私たち一人びとりに、いま神が御子イエス・キリス トによって与えて下さる大いなる喜びの福音そのものなのです。私たちが救われるのはただ 一方的な神の限りない愛と恵みによる出来事です。そしてその神の無限の愛と恵みを知ると き、私たちはその恵みに応えて生きる者とされてゆくのです。すなわち主イエス・キリスト によって何の値もなきままに愛の御手に受け入れられ、神の国の民とされた恵みを知る私た ちは、たとえどんなに欠点の多い弱く愚かな者でありましても、そのあるがままにキリスト の恵みに生きる喜びの僕とされている。その全生涯を通して神の永遠の愛の証しに用いて戴 ける喜びに生きるのです。かくしてパウロにとって大切なことは、私たちが神のために何を なしうるかではなく、神が私たちのために何をなして下さったかを知ることです。それが福 音信仰の本質なのです。繰返し申します。私たちが何をなしえ、何をなしえないか、ではな く、神がこの世界の救いのために何をなして下さったか、それを知りその事実の中に生きる ことが大切なのです。  まさにその意味で、パウロはアブラハムの生涯こそ、キリストを信じて新たな生命に生き る者の「予告」になったのだと語ります。今朝の8節以下です。「聖書は、神が異邦人を信 仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、『あなたによって、すべ ての国民は祝福されるであろう』との良い知らせを、予告したのである」。アブラハムの生 涯はキリストによって義とされる者の「予告」(さきがけ)になったとパウロは言うのです。 それは旧約の世界にとどまらない。ガラテヤの教会にさえとどまらないのです。それはこの 8節が意味じくも告げているように「全ての国民への祝福」となるのです。福音とはそうい うものです。聖書に親しむ生活、祈りを献げる生活は、決して個人の信仰生活にとどまるこ とは無いのです。それはキリストの教会に連なる礼拝者の生活とひとつであるとき、主が約 束されたように「全ての人を潤す活ける生命の水となる」のです。「諸国民への祝福」とな るのです。  そればかりではありません。主は明確に約束して下さいました。ヨハネ伝16章33節です。 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世 に勝っている」。この「世に勝っている」とは「罪と死の支配に終止符が打たれた」という 音信です。私たちの底知れぬ罪の最底辺の、その最底辺にまで主は降りて来て下さった。そ して私たちの測り知りえぬ深みにおいて、黙って十字架を背負って私たちのために死んで下 さったのです。ここに私たちに対する神の愛が余すところなく現れているのです。まことの 神はこの世界を救うために御自分の全てを献げて下さったかたであること、それこそがアブ ラハムが見た神のお姿でした。その同じキリストの父なる神の救いの御業に、私たちはあず かる者とされているのです。  最後に今朝の8節には、神がアブラハムを通して私たちに示されたことは「異邦人を信仰 によって義とされること」だと告げられていました。もともと「異邦人」という言葉は「救 いに無縁であった者」のことです。自分の中に救いのためのいかなる根拠も持っていない者 のことです。全く無力な者のことです。その全く無力な者とは誰あろう私たちのことではあ りませんか?。それならば神は御子イエス・キリストによって、私たちの完全な無力さの中 に完全な救いを現わして下さった。つまりキリストによる救いの福音は百パーセント神の恵 みによるものです。讃美歌にもあります「御救いあらずば滅ぶべきわが身」なれども主はそ のような私たちをこそ十字架の贖いによって完全に救って下さったのです。だからパウロは 「誇る者はただ主を誇れ」と語ります。この「誇る」という字は「喜ぶ」という意味です。 私たちの中には永遠の喜びのいかなる根拠もありません。それはただ十字架のキリストの中 にあるのです。  それならば、ここに宣べ伝えられている福音は、いかに広大無辺な神のご計画でありまし ょう。まさに十字架のキリストによって、神は「全ての国民への祝福」を与えて下さいまし た。そして私たち教会に連なる礼拝者一同をして、そのあるがままに、全ての人々への(諸 国民への)祝福を告げる器として下さるのです。先週のイースター礼拝の後で、去る2月16 日に天に召された三橋姉妹の納骨式を行いました。三橋さんはその97年の全生涯を、ひた すらに礼拝者として生き、神の愛と恵みと祝福を周囲の人々に証する本当の主の僕として生 き抜いたのです。その信仰の歩みを心にとどめて姉妹と共に主の御名に栄光と讃美を帰する 納骨式でした。イースターに最もふさわしいことでした。主は十字架の死によりて最崖の死 をも打ち滅ぼし、墓を復活の門に変えて下さったからです。  この三橋姉妹の感謝と讃美の生涯を支え導いたもの、それは主の御身体なる教会に結ばれ ていたことに尽きるのです。既に復活の身体を教会において生きる者とされた姉妹の生涯は、 そのあるがままになんと豊かな「諸国民への祝福」の器とされたことでしょうか。私たちも またそのような祝福の器とされている。それこそどんなに感謝すべきことでありましょうか。 今朝の最後の9節にはっきり告げられているとおりです「このように、信仰による者は、信 仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである」。まさに私たちはアブラハムと同じ「祝 福の器」とされている。そのことによって私たちは、日々の生活の中で「諸国民への祝福」 を告げ証する主の僕とされているのです。主がなして下さった全ての救いの御業を「アーメ ン」と受け入れ、信じ、御言葉に日々親しみ、祈りを献げつつ、その豊かな恵みに生きる、 生かされてゆく、私たちであり続けたいと思います。