説    教   イザヤ書25章6〜9節   ヨハネ福音書20章26〜29節

「復活の福音」

 復活日主日礼拝 2013・03・31(説教13131477)  主イエス・キリストが復活されて弟子たちのまえに現れたもうたとき、トマスただひとり がそこに居合わせていませんでした。しかし今朝の御言葉・ヨハネ福音書20章26節を見ま すと「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた」と記され ています。この「八日ののち」とは、主が復活された日曜日の、そのすぐ次の日曜日という 意味です。つまりこの出来事は、最初のイースターに連なる私たちのこの礼拝での出来事な のです。  さて、トマスはその一週間以上の日々を、どこで、どのように過ごしていたのでしょうか?。 トマスは、自分が見た主イエスの十字架の惨さ痛ましさに打ちのめされていたのです。余り にも悲惨な主イエスの十字架の死を前にして、それがイザヤの告げた「世を救うまことの神 の子・キリスト」のお姿だと信じられる者は、トマスだけではなく、おそらく一人もいなか ったでしょう。十字架は神に呪われた者の永遠の滅びの徴でした。このことはトマスの魂を 粉々に打ち砕いたのです。大きな恐れと疑いが彼の心を支配していたのです。  主イエスを裏切ったのが、仲間の一人、イスカリオテのユダであったということも、真面 目で正直なトマスにとって許しがたいことでした。何よりもトマスは自分を許すことができ なかったのです。自分もまたユダと同じように、十字架の主イエスを裏切り逃げ去った一人 だからです。そして残された11人は全く無力です。いまや世界中でキリストの弟子たちほ ど、惨めで無力な存在はありませんでした。惨めさと無力さと恐れの中で、トマスは孤独に 彷徨い続けていたのです。他の弟子たちが「戸を」全て閉ざして一室に閉じ籠っていたのも、 まさにその「恐れ」のゆえにでした。  そこにトマスは帰ってきました。うなだれ、絶望して帰ってみると、意外なことにそこに は輝かしい喜びがありました。待ちかねたように弟子たちがトマスを迎えて申しますには 「主イエスはよみがえられた」「復活の主がここにおいでになった」「私たちは主にお目に かかった」そのように喜びに満ちて語るわけです。その中でトマスは、いくら主イエスが復 活したと言われても、自分が見たあの十字架の事実を覆すわけにはゆかない。私は実際にそ の脇腹の傷にこの腕をさし入れ、またその掌の釘跡に指をさし入れてみなくては「決して信 じない」と言い張った。正直と言えば正直ですが、乱暴と言えばこれほど乱暴な言葉はあり ません。ともかく、そういうことをトマスは申したのでした。  そのトマスに対して、復活の主イエスはどうであられたでしょうか。主イエスは、最初の イースターに続く次の日曜日、まさに礼拝のために弟子たち皆が集まっているところに「入 って」来られました。26節には「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中 に立って『安かれ』と言われた」とあります。これが私たちが主日礼拝のたびごとに戴いて いる祝福です。何よりも主は「安かれ」と、弟子たち(私たち)に限りない「平安」を告げ られました。「恐れ」しかないところ、絶望の支配するところ、私たちの惨めな無力さのた だ中に、主はご自身の「平安」を与えて下さり、現臨の恵みを与えて下さるのです。  この「平安」とはヘブライ語で「主なる神の生命に満たされること」という意味の“シャ ローム”という言葉です。主はご自身の生命による真の救いを私たちに与えて下さいます。 しかもここで主イエスは、他の11人の弟子たちにまさって、まずトマスただ独りに向き合 われて言われました。今朝の27節です。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさ い。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者 になりなさい」。  主イエスは、私たちひとり一人にかけがえのない「あなた」として御声をかけて下さるか たです。この場面で申しますなら、いちばん信仰の弱いトマス、最も大きな恐れに取り付か れていたトマスに、主はまっすぐに向き合って下さるのです。復活の主は、信仰の確信の満 ち溢れたところよりも、自分はいちばん信仰が弱いと思っている、その人を目指して来て下 さるのです。このときの主イエスの御心は、どんなに激しかったことでしょう。「戸はみな 閉ざされていたが」と26節にありますが、私たちは「主イエスは神の子だから、全て閉ざ されていた部屋に、すっとお入りになれたのだ」などと安易に考えてはならないのです。こ れは主イエスが、どんなに私たちを限りない愛をもって愛して下さったかを示しています。 どのような障壁も、復活の主イエスの愛と御業を妨げることはできないのです。  私たちにいちばん身近なことで申しますなら、私たちのいちばん弱い気持、私たちのいち ばん疑う思い、いつまで経っても信仰に進まない鈍い心、そういうもので自分の魂を鎧って しまっている私たち、そういう「疑いの部屋」に堅く閉じ籠り、自分の中に蹲って、そこに 小さな安心を見つけ出し「自分の人生はこれで良いのだ」と自己満足している、そういう私 たちの堅く閉ざされた「疑い」という名の「戸」を主イエスは打ち破って、私たちの中にお 立ち下さるのです。そこで「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と仰せにな るのです。  トマスは、この復活の主にお目にかかって、もう主イエスに触れる必要などありませんで した。むしろトマスは主イエスの御前に、喜びと感謝をもって跪いたことでした。トマスの 口から出た言葉は「わが主よ!わが神よ!」というものでした。私たち人間は愚かなもので すから、主イエスが復活したのなら、何か確かな証拠が欲しいと考えるのです。科学的な常 識、あるいは医学的な常識、あるいは人間一般の常識に照らし合わせ、納得のゆく説明が欲 しいと考えるのです。けれども復活の主の現臨より大きな証拠などどこにあるでしょうか?。 更に言うなら、いまこの教会が存在し、私たちが礼拝に与る者とされている、この救いの出 来事それ自体が、主の復活のいちばん確かな証拠なのです。教会は十字架と復活の主の御身 体だからです。復活のないところにどうして身体があるでしょうか。  使徒行伝26章には、使徒パウロがローマの総司令官アグリッパに説教を語っている場面 があります。その8節でパウロは「神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたに は、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」と言っています。実に堂々たる説教 です。神が死人を甦らせたまわないなら、そういうかたが真の神でないなら、私たち人間に は決して「救い」はないのだと言うのです。この「死人」とは、ただ肉体において死んだ者 のことではなく「罪」によって死んでいた全ての人間をさしています。神は御子イエス・キ リストの復活によって、罪に支配されていた私たちに「永遠の生命」(まことの神との永遠 の交わり)を与えて下さるかたなのです。  ボンヘッファーという、ナチス・ドイツの時代に殉教者となった優れたドイツの神学者が、 今朝の御言葉についてこういうことを語っています「トマスは、主イエスに触れようとしな かった。それは、トマスはもはや、自分の手も、自分の目も、信じなかったからである。ト マスはただ、イエス・キリストだけを信じたのである」。トマスは復活の主の前に、もはや 自分の手の確かさも、自分の目の確かさも、虚しいものに過ぎないと知ったのです。いま自 分に相対していて下さる復活の主こそ、どんなに確かな「救い」であるかを知ったのです。 だからトマスは跪いて告白したのです「わが主よ!わが神よ!」と。  私たちは、自分の日常生活の中で、同じ経験をするのではないでしょうか。どうにもなら ない苦しみや悲しみに出会うたびに、私たちは今まで確かだと思っていたものが、実はどん なに不確かであったかを思い知らされるのではないか。頼りにしていたものが、実は虚しい ものであったことを知り、信じていたものに裏切られる経験をするのではないでしょうか。 しかし何と言っても、いちばん頼りにならないものは実は「私という人間そのもの」なので す。確かなものを求めようとする、その大本の自分自身がいたばん不確かなのですから、全 てに「疑い」が起こるのは当然なのです。  言い換えれるなら、私たちの手で確かめたものも、目で確かめたものも、なにひとつとし て確実なものは何もないのです。だから、聖書がこの復活日主日の朝、私たちに語っている ことは、教会だけに通用する事柄ではない。そうではなくて、このあるがままの世界、人間 の世界全体が射程に入っているのが「復活の福音」なのです。アグリッパに対するパウロの 問いは、まさに私たち一人びとりへの問いなのです。「あなたはどちらを選ぶのか?」と問 われているのです。ヨハネ黙示録3章20節に主イエスは私たちに告げておられます「見よ、 わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聴いて戸を開けるなら、わ たしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。この 「食を共にする」とは「神の生命に与る者とされる」ということです。御国の祝宴に連なる 者とされることです。  トマスがこの10人の「信ずる者たち」のところに帰ってきたということは、言い換える なら「教会に帰ってきた」ということです。そこでは「わが主よ!わが神よ!」という信仰 告白と共に礼拝が献げられています。私たちがここに礼拝を献げているとは、復活の主にい まお目にかかっていることです。復活の主による救いの確かさの中に、自分自身も、他の全 ての人々をも、そして世界をも、新しく受け取る者とされているのです。このことについて 第一ペテロ書1章8節に、たいへん美しい大切な言葉があります「あなたがたは、イエス・ キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言 葉に尽くせない、輝きに満ちた喜びにあふれている」。これは、やはり弟子の一人であった ペテロが、教会におけるキリストの現臨の確かさを驚きをもって告白している言葉です。そ の「輝きに満ちた喜び」の中に、私たちもまた入れられているのです。  「わが主よ!わが神よ!」というトマスの告白は、それ以降の教会のあらゆる信仰告白の 原型となりました。私たちもこの礼拝においていま、このトマスの信仰告白に連なっている のです。何よりもトマスはこれを「主よわれ信ず。信なきわれを助けたまえ」との祈りと共 に告白しています。いちばん弱く疑い深かったトマスが、世々の教会を代表する信仰告白の 原点となった、私たちはここに神のなさる驚くべき救いの御業を観るのです。これは聖霊な る神の導きにより起こった奇跡です。教会は復活の主が全世界に対して建てられた「救いの 宮」なのです。  伝説によれば、トマスは遠くインドにまで伝道したと伝えられています。今日でもインド の教会はトマスの名を冠した「使徒トマスの教会」と呼ばれているのです。インド合同教会 は「トマスの伝えたるキリストの教会」と呼ばれるほどです。いちばん弱かった人間が、い ちばん主に用いられる器となったのです。主の復活はいつでも、弱い者、躓く者、確かさを 求めて彷徨う者、そういう人たちを、まさに私たち全ての者を、救い、限りない生命を与え る、救いの福音なのです。