説    教    エズラ記5章1〜2節  ガラテヤ書3章1〜5節

「教会の唯一の礎」

 ガラテヤ書講解(18) 2013・03・24(説教13121476)  先週に引き続き、ガラテヤ書3章1節から5節の御言葉を通してキリストの福音を聴こう としています。これはたいへん厳しい言葉です。出だしからして尋常ではありません。「あ あ、物かりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの 目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」。そしてさらに3 節を見ますと、たたみかけるように「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。御霊 で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか」と問うているのです。  この「物わかりがわるい」とは英語の聖書では「フーリッシュ」です。つまりパウロはガ ラテヤの人々に対して「あなたがたは、馬鹿者だ(愚かだ)」と言っているのです。「十字架 につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出された」とは単なる比喩的 表現ではなく、まさに私たちの罪と滅びを一身に担って下さった贖い主・十字架のキリスト が私たちの目の前に描き出された。主が現臨しておいでになる。共にいて下さるのです。そ れにもかかわらず、なぜあなたがたは、キリストならぬ他のもの(主とはなりえぬもの)に 走り寄ってしまうのかと、パウロは厳しく問うているのです。それこそ「愚かなこと」では ないかと言うのです。  そこで、私たちにはこのように、はっきり言われなければわからないことがあるのではな いでしょうか。主イエスは、弟子たちにも人々にも、大切な譬話をなさるにさいして「よく、 よく、あなたがたに言っておく」と仰せになりました。この「よく、よく」とは、原文のギ リシヤ語では「アーメン、アーメン」という言葉です。ですから文語訳では「まことに、ま ことに、われ汝らに告ぐ」と訳されていました。この訳のほうが遥かに原文のニュアンスに 忠実です。それならパウロも、同じ思いでガラテヤの人々に語っているのです。「まことに、 まことに、われ汝らに告ぐ」と語っているのです。神の真実、イエス・キリストの測り知れ ぬ恵みにおいて語られているのです。それが1節の「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ」 であり、3節の「あなたがたは、そんなにも物かりがわるいのか」という言葉なのです。  そこで、今朝の3節の続きにパウロは「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるとい うのか」と問うています。ここにガラテヤの人々が陥った「罪の問題」がありました。それ は教会形成に関わる大切な問題であり、それゆえ信徒一人びとりの生活に直結する問題でも ありました。これをパウロは看過できなかった。伝道とは真のキリストの身体なる教会を建 てることです。つまり、キリストのみが唯一の「かしら」であられる教会を形成することで す。そのことなくして私たちの生きた生活は成り立ちません。教会の土台は第一コリント書 3章10節にあるように、十字架の主なるキリストのみであり、そのキリストという唯一の土 台の上に、相応しい材料を用いて教会を建てることが求められているのです。その相応しい 材料とは「イエスは主なり」という信仰告白です。ニカイア信条に告白された、正しい溌剌 とした信仰です。それ以外のものは教会形成の材料とはなりえないのです。  第二コリント書11章24節以下に、パウロが伝道者として受けた有名な「苦難のリスト」 が記されています。「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人 にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一 昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦 人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠ら れぬ夜を過ごし、飢えかわき、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった」。 パウロはこのように語ったそのあとで「なおいろいろの事があった外に、日々わたしに迫っ て来る諸教会の心配ごとがある。だれかが弱っているのに、わたしも弱らないで折れようか。 だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか」と語っています。  もし苦難が、自分が本物の使徒であることを証明するのなら、自分は他の誰よりも多くの 苦難を受けたと言い切ることができる。しかしそのようなことはどうでも良いことだとパウ ロは言います。大切なことはただ一つ「日々わたしに迫って来る諸教会の心配ごと」がある。 そして「誰かが弱っているのに、わたしも弱らないでおれようか。誰かが罪を犯しているの に、わたしの心が燃えないでおれようか」。この一点においてこそ、教会はまことの教会で あり、伝道者はまことの伝道者であるのです。そしてガラテヤ教会の場合、その「心配ごと」 とは「御霊」(聖霊)によって始められた教会形成の御業が「肉」(人間の知恵と力とわざ) によって仕上げられようとしていることでした。  それこそ、キリストという唯一の土台に相応しくない材料が(つまり肉が)組み合わされ ようとしていたのです。この場合「肉」という言葉を、パウロは「罪」と同じ意味で用いて います。言い換えるならガラテヤの人々は、神によって始められた教会形成の御業を「罪」 によって仕上げようとしていた。だからパウロは先ほどの第一コリント書3章12節にこう 語っています。「この土台(キリストという唯一の土台)の上に、だれかが金、銀、宝石、 木、草、または、わらを用いて建てるならば、それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。 すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事が どんなものであるかを、ためすであろう」。  教会形成は(伝道のわざは)私たちの目先の判断でしてはならないのです。私たちはこの 新しい礼拝堂を献堂したときに、百年持つ建物を建てて欲しいと設計者や施工業者の人たち に願いました。私たちはこの建築のために心を一つにし、そして主は思いにまさる建物を与 えて下さいました。感謝に耐えざることです。それゆえに私たちはいま思いを新たにしたい のです。使徒パウロがここに「かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、 それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう」と語っていることです。それは 私たちの「信仰」です。私たちが十字架のキリストという唯一の土台の上に、本当の「信仰」 をもって主の教会を建てているかどうか、それが「かの日」すなわち、主の再び来たりたも う日に明らかになるのです。教会形成の目的は5年や10年や20年の問題ではない。百年、 二百年、三百年先に、私たちのこの葉山教会が、ただキリストの御業のみを現わし、全ての 人々に救いの喜びを告げる主の教会として御業を現しているか否かの問題なのです。そのた めにいま私たち一人びとりが主から恵みを賜わっているのです。  少し具体的に申しますなら、ガラテヤの教会で起こった問題は「キリスト告白」という「唯 一の土台」の上に、人間の功績(つまり律法)という材料が積み重ねられそうになったこと でした。よく不調和を現わす諺として「木に竹を接ぐ」と申しますが、ここに究極の不調和 があります。聖霊(神の恵み)によって始められた教会形成の御業は、聖霊によって完成さ せられねばならないのです。そのことを明確にするためにパウロは4節に「あれほどの大き な経験をしたことは、むだであったのか」と問うています。これはガラテヤの人々が多くの 迫害や困難の中で、キリストを信ずる信仰に堅く立ち、教会を形成し、礼拝者としての生活 を確立したことです。その時のことを思い起こしなさいとパウロは説き勧めているのです。 それは「むだであったのか」と問うのです。  そして「まさか、むだではあるまい」とすぐに語っているのは、パウロはこのようなガラ テヤ教会の混乱の中にも、キリストの御支配だけが堅く立つことを確信していたからです。 「にせ教師」たちがいかに巧妙に人々に取り入り「異なる教え」を焚き付けようとも、聖霊 によって始められた主の御業を止めることは誰にもできない。だからこそパウロは最後の5 節で改めて問うています。「すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの 間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか」。実に単純明快 かつ率直な問いです。主なる神が、あなたがたも記憶するあのような幾多の困難の中で、こ のガラテヤに主の教会を建てて下さったのは何によるのかと問うのです。それは「律法を行 ったからか、それとも、聞いて信じたからか」。  答えは明らかでありましょう。私たちが救われるのは、神の民とならせて戴いたのは、自 分の力や知恵や功績によるのではありません。そのようなものは何の救いにもなりえない。 そうではなく、私たちは御言葉を戴きました。それを聴いて、私たちのために十字架にかか られた主イエス・キリストを信じた。まさにその「信仰」により私たちは義とされた(救わ れた)のです。それこそが私たちの信仰生活の原点であり、失うべからざる中心であり、絶 えず立ち帰るべき基本なのです。  大勢の人の生命を預かる仕事、たとえば飛行機のパイロットになるためには厳しい訓練を 受け、様々な過程をクリアしてゆかねばなりません。当然のことです。ならばそれ以上に、 霊の生命までもあずかる牧師を志す者は、厳しい神学の学びと教会での訓練を積まねばなり ません。ある意味でこれこそエクササイズです。身体に覚えこませ染みこませるのです。繰 返し基本を身につけます。身体に叩き込むように覚えるのです。そのようにして身についた 基本が大切です。ガラテヤ教会、否、私たちの教会も同じです。繰返し主が叩き込むように お教え下さる、その御教えに忠実な私たちでありたいのです。さもなければ私たちもまた「あ あ、物わかりのわるい葉山びとよ」と言われるでしょう。そう言われてでも、十字架のキリ ストという基本に立ち帰ることができるなら、それはどんなに幸いなことでしょうか。  たぶん、このガラテヤ書講解説教の中で、幾度となく引用するであろう聖句を今日も心に 留めたく思います。ローマ書10章17節です。「したがって、信仰は聞くことによるのであ り、聞くことはキリストの言葉から来るのである」。この「信仰は聞くことによる」とは、 私たちの救いの根拠は私たちやこの世界の中にあるのではなく、私たちと天地万有の創造主 なる神にのみあるのだということです。その神が、御子イエス・キリストを私たちにお与え 下さったのです。その御子イエス・キリストが「神の御言葉の受肉者」であられる。神の御 言葉そのものなのです。  その御子キリストによって、私たちは信仰による「神の義」(永遠の救いと生命)にあずか り、ここにキリストのお建てになった、聖霊なる神の御業である教会に連なる者とせられ、 キリストの復活の生命に堅く結ばれて、心を高く上げて、日々の信仰の生活へと遣わされて ゆくのです。まことの礼拝者とならせて戴き、キリストがなして下さった全ての救いの御業 を、全世界に対する真の平和と義と幸いと喜びとして宣べ伝えつつ、ここに私たちは、主が 教会を完成して下さることによって、世界の救いを完成したもうその日「かの日」に、主の 御前に讃美と感謝とを献げ続ける、まことの教会として、立ち続けてゆくのです。