説    教    詩篇38篇1〜4節   ガラテヤ書2章20〜21節

「キリストの恵み」

 ガラテヤ書講解(16) 2013・03・10(説教13101474)  19世紀スイスにカール・ヒルティという優れたキリスト教の思想家がいました。「幸福論」ま たは「眠られぬ夜のために」という著作を読んだかたも多いと思います。ヒルティは牧師ではな く、スイス改革派教会の信徒として、法律家として、聖書の言葉を信仰と生活の生きた規範とし、 キリストの福音に生きる生活の素晴らしさを広く世に証した人です。このヒルティが遺した言葉 に「キリスト教信仰とは健全な神秘主義である」というものがあります。少しわかりにくいかも しれませんが、ここで言う「健全な」とは元々のドイツ語で「人を生かす」という言葉です。つ まりヒルティは「神秘主義」には人を生かすものとそうでないものの2つがあると言っているの です。  そこで、ヒルティの語る「健全な神秘主義」とは「十字架の主イエス・キリストの救いの出来 事に基づく新しい生活」のことです。「十字架の福音に根ざす新しい生命」のことです。そこで こそヒルティが取り上げるのが今朝のガラテヤ書2章20節です。「生きているのは、もはや、 わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま 肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信 じる信仰によって、生きているのである」。ここで中心におられるのは徹頭徹尾「十字架の主イ エス・キリスト」です。だからこの20節では後半部分がより大切なのです。つまり私たちもま た「肉にある生活」をしています。この歴史の中を、社会人として、人々と共に生活しています。 それが大切なかけがえのない意味を持つのです。  まさにその日常の生活の場でこそ、どこまでも十字架の主が「中心」でいて下さる。日常の行 住坐臥においてこそ、私たちはキリストの恵みによって生かされた者たちである。なによりも私 たちは、実際にキリストの身体なる教会に連なり、主なる神との確かな交わりの内にいま招き入 れられ、歴史の中を永遠の御国に向けて生かされている者たちなのです。だからこそ、そこで私 たちはいつも「健全な神秘主義」(キリストの恵みによる新しい生活)をたしかな信仰の内容と して持っているか否かが問われているのです。  そこで改めて、今朝のガラテヤ書2章20節を見てみましょう。ここに使徒パウロは「生きて いるのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」と 告げています。文語訳ではさらに鋭く明晰な日本語で「最早われ生くるにあらず、キリスト我が 内に在りて生くるなり」と格調高い文章になっています。内村鑑三や西田幾多郎が幾度も好んで 引用した聖句です。これは申すまでもなく、パウロの新しい人生がキリストの恵みにより、いつ もキリストの恵みの内に堅く支えられ生かされていた状況を現わしています。なによりもパウロ はここに、生きているのはもはや自分ではなく、キリストが私の内に生きておられるのだと語っ ている。パウロは言うのです、自分は神の前に「罪」によって死んでいた者であった。神の前に 立ちえざる者であった。その私のいっさいの「罪」をキリストが十字架によって贖いたまい、神 との喜びの交わりの内に私の存在全体を回復して下さった。だから生きているのはもはやパウロ という「古き人」ではない。そうではなく、主イエス・キリストによる神の溢れる恵みの生命(新 しい永遠の生命)が私を生かしめているのである。さらにこのことをパウロは、たとえば第二コ リント5章17節に「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古い ものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」と語っています。またローマ書6 章6節には「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪の からだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである」と告げています。 まだたくさんありますが、これらパウロの言葉全てに共通していることは、いつもキリストが「主 語」であり「中心」であるということです。自分の心の状態や自意識が中心なのではない。十字 架のキリストこそが変わらぬ福音(この私の救い)の「中心」におられるという事実です。  そこでこの、十字架のキリストがいつも「中心」であることが大切です。この中心が揺らぐな ら、たとえ同じ「神秘主義」でもキリスト抜きの人間中心の神秘主義(人を生かさない誤った神 秘主義)に陥ってしまいます。たとえば心理学者のフロイトがいます。フロイトはマルクスと並 んで「宗教はアヘンなり」と唱え、キリスト教に引導を渡そうとした人です。彼によれば宗教と いうものは全て倒錯した性的な意識(リビドー)から説明できる。人間の中に残る原始的な部分 が宗教であり、それは社会の近代化・歴史の発展と共に消滅すべきものだと説いたわけです。つ まりキリスト教は倒錯した意識の幻想の上に成り立つフィクションにすぎないと語ったのです。 興味ぶかいことに、フロイトや彼の弟子たちはみな今日のガラテヤ書2章20節をさかんに引用 しているのです。パウロでさえこう語っているのだから、自分たちの学説は正しいのだと主張し ているわけです。  それは正しい引用の仕方、正しい聖書の理解なのでしょうか?。もちろん違います。フロイト は意図的に20節の前半だけしか引用していません。西田幾多郎も「善の研究」の中で20節を 引用していますがやはり前半部分の引用だけです。「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内 に在りて生くるなり」に留まっています。さすがに内村鑑三は福音信仰に生きた人ですから、我 田引水の弊に陥らずにきちんと20節の後半まで引用しています。20節は全体として読まれなけ ればなりません。「…しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたし のためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。ここで 何より私たちが心に深く留めるべきは、キリストが私たちのために「ご自身をささげられた」と あることです。この「ささげられた」とはむしろ端的に「ご自身を棄てたもうた」と訳せる言葉 です。「罪」によって「神の外」に出てしまった私たちのために、神の御子みずから「神の外」 に出て下さった、それが十字架の出来事です。キリストは私たちの罪のためにご自身のいっさい を「棄てたもう」て神の外に出て下さったかたなのです。ここに福音の「中心」があります。言 い換えるなら、パウロはガラテヤ書2章20節の前半を、主なる神が御子イエス・キリストにお いて、私たちのため、この世界の「救い」のためになして下さった十字架による罪の贖いの出来 事、この唯一絶対の救いの出来事の上に立ってのみ語っているのです。  「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるの である」。この恵みの事実を全ての人々への「救い」の音信としてはっきりと語るのは、それは パウロが20節の後半部分の、キリストの十字架の出来事に圧倒されていたからです。「しかし、 わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自分をささげられた 神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」。つまりパウロはこう語っているのです。 自分がいま肉体における生活をも神から賜わっているのは、それは「十字架の主」が「古き人」 なる罪の支配を滅ぼして下さり、永遠の唯一の「主」となられたからであると。だからパウロは ローマ書14章8節に「わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。 だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」と語り、またピリピ 書1章21節には「わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である」と 語るのです。  十字架のキリストが私たちの罪と死の永遠の贖い主であることを知るゆえにです。生にも死に もキリストが「主」であられる恵みの事実は決して変わることがない。この恵みの事実がパウロ の全存在・全生活を、そして愛するガラテヤ諸教会の人々を、キリストとの永遠の交わりの内に 生かしめていることを知るゆえに、パウロは心からの感謝と讃美を主に献げています。この「救 い」は確かなキリストによる救いです。それをヒルティは「健全な神秘主義」と呼んだのです。 私たちもまたその福音に生かされているのです。  それゆえにこそ、パウロは続く21節にさらにこう語っています。「わたしは、神の恵みを無 にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことにな る」。愛するガラテヤの教会に律法主義を持ちこんだ「偽教師たち」は「福音」によって立てら れたキリストの教会を「律法」によって建て替えようとしました。そのことをパウロは「キリス トの死にたまへるを虚しくする」わざとして厳しく非難しています。あなたのために十字架にか かられたキリストを見ずして(信ぜずして)あなたはいったい何を見、何を信じているのかと問 うのです。第一コリント書3章11節にパウロは「神からたまわった恵みによって、わたしは熟 練した建築師のように、土台をすえた。…しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけ るがよい。なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。 そして、この土台はイエス・キリストである」と語っています。なぜキリストのみが「唯一の土 台」なのでしょうか?。それはキリストのみが十字架の出来事による私たちの「罪」の唯一永遠 の贖主(救主)だからです。そもそも「神秘主義」とは神との完全な交わりの生活を目指すもの です。交わりは互いに調和と親和性がなければ成り立ちません。たとえば水と油は親和性がない ので交わりません。では私たちとキリストはどうなのか?。「罪」とは神との関係に恐ろしい断 絶が生じているという事実です。だから、私たちとキリストの間に調和や親和性などあるはずは ないのです。そこには「断絶」しかありえないはずです。私たちは「罪人のかしら」であるとは そういう意味です。  それならば、まさにその「罪人のかしら」でしかない私たちのために、矛盾そのものであり「不 調和」そのものである私ちのために、その「罪」という絶対かつ究極の「断絶」のどん底にまで もキリストは降りて来て下さった。そして私たちの「罪」のどん底において、私たちの落ちてゆ くほかない存在の重みを、そのあるがままに受け止めて下さり、十字架に死んで下さったのです。 ご自身を「棄てて」下さったのです。そのキリストの十字架により、私たちは神と「和解」させ て戴いた。罪の赦しと永遠の生命を戴いて生きる者とされているのです。教会はそのキリストの 贖いによる神の生命に共にあずかる者の群れです。だから「キリストの死にたまへる」十字架の 出来事こそ福音の中心なのです。  キリストは私たちのためにご自身を「棄てて下さった。この福音の告知にフロイト流の浅はか な宗教理解の入りこむ余地など全くありません。私たちがキリストと一体であると証明するもの は私たちの自意識などではなく、私たちのためにご自身を十字架に犠牲となしたもうたキリスト の恵み(福音の真実)です。律法の義は(人間は)人間を救いえないのです。むしろ私たちがキ リストの恵みに捕えられて、そこに救いと自由と幸いを見出すものとなる。主なる神の愛と祝福 と導きのもと歩む者とされてゆく。そこに私たちの存在全体の自由と幸い、生命と希望があるの です。私たちは神の前に罪の贖いなくして虚しいからです。本当の自由と幸い、感謝と喜びと平 和は、罪と死に勝利したまいしキリストの内にあるのです。  いま私たちはこの信仰、キリストとの永遠の交わりの内に入れられ、あるがままに神の義によ って生かされた多くの主の証人たちに、雲のように囲まれているのではないでしょうか。つい先 日、三橋姉妹が天に召されました。姉妹の生涯は、主の教会に結ばれて復活の生命に豊かにあず かり、キリストの生命に朽つべき身体を覆われた歩みでした。また、多くの苦しみや悩みの中で、 しかし心ひとすじに教会に仕え、多くの人々をキリストに案内した人もいます。健康には恵まれ なかったけれど、祈りによってキリストの僕たる生涯を歩み抜いた人もいます。その一人びとり にみな共通して言えることは、彼らがみな「生きているのは、もはや、わたしではない。キリス トが、わたしのうちに生きておられるのである」この恵みの事実に生かされていたことです。私 たち一人びとりもいま、主の教会に連なる者として、同じキリストの恵みにあずかる者とされて います。そして主は全ての人々を、この祝福へと、救いへと、招いておられるのです。