説    教    詩篇33篇1〜4節  ガラテヤ書2章17〜19節

「主の義によりて」

 ガラテヤ書講解(15) 2013・03・03(説教13091473)  信仰生活とは、この世から離れて人と違った生活をすることではなく、むしろこの世にあ って人々との交わりをも大切にし、あらゆる出来事において、そこに神の導きと摂理とを見 出し感謝しつつ、まことの生命に生かされることです。  そこで、信仰に生きている人とそうでない人との生活は、表面だけを見れば、そこに大き な違いはないかもしれません。しかしその人が、何に自分の生涯(存在)を委ねて生きてい るのか、神の愛に自分を委ねて生きているのか、それとも自分の知恵や能力を拠り所にして 生きているのか、そのことによって、実は眼に見えないところで、キリストを信ずる者の生 活とそうでない者の生活は、天と地ほどの相違があると申さねばなりません。  それならば、使徒パウロがこのガラテヤ書において問題にしている事柄、すなわち、私た ちは律法によって義とされるのか、それともキリストによってのみ義とされるのか、このこ とはまさに私たちの日常生活の根幹に関わるもっとも大切な問題なのです。そこでパウロは、 今朝の御言葉ガラテヤ書2章19節に「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に 死んだ」と語っています。この「神に生きる」とは、ただ神の御教えに従い、御旨に適う生 活をする、というだけのことではなく、文字どおり、神の生命に生かされた生活をするとい うことです。言い換えるなら、キリストを信ずる信仰の生活をするということです。  旧約の創世記2章7節を見ますと、神が土の塵で人をお造りになったとき「命の息をその 鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあります。そして主イエスは「人は パンに拠りて生くるものにあらず。神の御口よりいずる一つ一つの言葉によるなり」とお教 えになりました。いかにしても避けることのできない「死」という現実に向かう儚い生命し か生きえぬ私たちは、神の生命(霊の生命)に生かされてこそはじめて滅びることのない真 の生命を豊かに生きる者とされるのです。信仰生活とは、神に叛いた罪のゆえにこの生命の 喜びと輝きを失い、絶望と滅びの道を生きるほかなかった私たちに、神が御子イエス・キリ ストにおいて与えて下さった「まことの生命」を生きることにほかなりません。  そこで、使徒パウロが「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ」と申 しておりますように、私たちは律法(罪)に死ななければ、神に生きることはできません。 私たちは二人の主人に兼ね仕えることはできません。律法に生きるか、神に生きるか、二者 択一しかないのです。人間にとってもっとも大切なこの問題へと、今朝の御言葉は私たちを 導きます。そして私たちが生きるべき(選ぶべき)ただひとつの道を鮮やかに指し示してい るのが、今朝ガラテヤ書2章17節以下なのです。  さてパウロが言う「律法に死ぬ」とは、言い換えるなら、私たちが律法に示されている神 の厳しい要求の前に立ちえない者であることを認め、自分の中には神に義とされうる何物も ないことを認めて、人間の努力や功績によって神に受け入れられんとする思い上がり(虚し き望み)を放棄することです。  ところがパウロは、ユダヤ人として最初、このことがわかりませんでした。ユダヤ人サウ ロであった時のパウロにとっては、律法に生きることこそ神に生きる道であり、律法を守る ことに人間の唯一の道があると信じていました。しかし主イエス・キリストに出会い、キリ ストを信ずる者とされたとき、パウロははじめて「律法」において示されるものが自分の「罪」 であることを知りました。すなわち「律法」(人間の努力功績)を拠り所とするかぎり、私 たちは神を愛しているのではなく、実は自分自身を愛しているにすぎない。神に栄光を帰し ているのではなく、自分に栄光を帰しているにすぎないのです。それは神の愛と招きに叛き、 ほんらい神に帰するべきもの(栄光と讃美と感謝)を自分に帰するという恐ろしい「罪」(不 義)を冒すことだとパウロは知ったのでした。  パウロがキリストを信じ、キリストの福音を宣べ伝える使徒とされたのは、熱心のあまり 教会の迫害者とさえなったパウロに、復活のキリストが出会って下さり、彼の恐るべき罪が すでにキリストの十字架によって贖われていることを知らされたからです。キリストは「罪」 に支配されていたサウロに神の生命を与えて下さり、彼を「律法に死に、神に生きる」者と して下さいました。彼を神の使徒パウロとして世界伝道へと遣わして下さったのです。  しかしながら、人間は「律法」に死んで「神」に生きることによってのみ「義とされる」 (救われる)というパウロの言葉は、律法に凝り固まったユダヤの人々の激しい反感と憎し みを買いました。そしていまアンテオケ、そしてガラテヤの教会の中にさえ、教会の中に「律 法」を持ちこもうとする人々がいたのです。「キリストの義」だけでは不十分だと叫ぶ人々 がいたのです。そこでパウロはガラテヤ書2章16節に「律法の行いによっては、だれひと り義とされることがない」ということを些かの曖昧さもなく明らかにしたのち、今朝の17 節において「しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち 自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか」と、予想され るべき彼ら(律法主義者たち)の反論を取り上げたあとで「断じてそうではない」と厳しい 語調でこれを退けているのです。  このあたり、ガラテヤ書の本論とも言うべき「キリストによる救い」の問題であり、パウ ロの言葉には一点の曇りもなく見事なほどに明晰です。その明晰さはパウロ自身がキリスト によってのみ義とされた(救われた)生きた経験から来ています。机上の空論ではないので す。しかし神を見ずして自分の義に寄り縋り、机上の空論を振りかざす「偽教師」たちは、 教会を崩そうと躍起になりました。彼らが振りかざしたのはこういう理屈でした。「もし律 法は人を救う力を持たず、ただキリストのみが人を救うかたであるとするなら、選民である ユダヤ人もまた異邦人と同じように“罪人”であるということになる。するとキリストによ って我々は罪人とされるわけであるから、キリストはすなわち『罪造り』である、というこ とになるではないか」。  まことに呆れた論理だと言わねばなりません。しかしそもそも、神の前に自分を義とする 私たちの「罪」そのものが最も呆れた論理なのではないでしょうか。ガラテヤの諸教会に律 法主義を持ちこんだユダヤ人キリスト者たちも、自分たちがキリストによって救われたこと は自覚していたのです。しかしそのことによって、自分たちが異邦人(ユダヤ人以外の他の 民族)と同格にされることには我慢ができなかったのです。従来、自分たちが保持していた 先祖伝来の「選民」としての特権や誇りに対する未練があったのです。  これは、この時代の律法主義者たちだけの問題ではありますまい。今日の私たちもまた同 じ罪を犯すのではないでしょうか。私たちは自分がキリストの十字架によってのみ義とされ た(救われた)者であることを信じつつ、なおその恵みの豊かさに満足することはできず、 自分は多少なりとも世に認められるべき人間であり、人々から賞賛を受けるに値する者だと いう「虚しい誇り」に未練がましくしがみついていることはないでしょうか。あるいは、自 分は他の人たちよりも知性や教養また行ないにおいて一段と優れた人間であると自惚れて いることはないでしょうか。あるいはその逆に、自分は他の人に較べて、駄目な、劣った、 無力な、無意味な存在であると、自分を卑しめる思いに取り付かれていることはないでしょ うか。  そのいずれも、私たちがキリストの贖いの恵みを、あるがままに素直に受けていないとこ ろから来る歪みです。私たちは他人の罪はよく目につくのですが、自分こそそれ以上に罪深 い存在であるとはなかなか認めたくないのです。あるいはその逆に、自分は何をしても駄目 な、無価値な、無価値な人間だと、自分で決め付けるようなことを平気でするのです。自分 の中で自分が分裂しているのです。何処にも本当の自分がないのです。それで「自分探し」 などという言葉が流行るのです。何処に行けば本当の自分が見つかるだろうかと空想するの です。しかし真の造り主なる神を離れて、どこに本当の自分があるでしょうか。真の神との 関係を蔑ろにしたままで、どうして本当の自分を生きうるでしょうか。神の前に「罪」が解 決されないままでいて、どうして真の生命に生きうるでしょうか。このことこそ私たちの根 本的な問題なのです。  その意味でこそ、ガラテヤ教会の律法主義者の問題は、今日の私たちの問題でもあるので す。今日の私たちにとってこそ「律法に死ぬ」ということは本当に難しいのではないでしょ うか。私たちは、自分の弱さ、惨めさ、破れを、ある程度は認めえても、なお自分の中には、 神の恵みを戴いて当然の部分があると、そう想いたいのではないでしょうか。そして自分と 他者とを比較するのです。ある意味で現代社会の価値観の全てはこれです。主イエスは「だ れでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従 ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者 は、それを見いだすであろう」(マタイ16:24,25)と言われました。この御言葉の意味はこ ういうことです。私たちの存在は、私たちの生命よりも大切なのです。これは矛盾するよう ですが、そうではありません。生命至上主義は人間の真の自由と幸福をもたらさないのです。 健康に次ぐ健康、繁栄に次ぐ繁栄、幸福に次ぐ幸福だけが、私たちの人生の目的ではないは ずです。たとえ病気になっても、不治の病に冒されても、寝たきりの身体になっても、また 失敗しても、挫折しても、どのような困難労苦の中にありましょうとも、私たちのために神 の御子が御自分の生命を献げて私たちを罪から贖って下さった、この福音の事実にまさる喜 びと幸いがどこにあるでしょうか。私たちはいまあるがままに、キリストに堅く結ばれてい るのです。キリストが測り知れない愛をもって、私たちの存在をかき抱くようにして贖い、 最善へと導いて下さるのです。私たちをそのあるがままに御国の民としていて下さるのです。  主イエスが言われた「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」との御言葉は、 すでに主イエスみずから、私たちのために測り知れぬ重い十字架を背負ってゴルゴタの丘に 釘付けとなって死んで下さった、その恵みに基づく招きの言葉なのです。いまあなたが、こ の世の旅路においてどのような重い十字架を背負っていようとも、そのあるがままで、あな たは私の世界一大切なわが子であると、主は私たちにはっきりと語っていて下さるのです。 その十字架を捨てて従うのではなく、まさにその十字架のあるがままに主に従う。否、すで に主がそれを私たちに代わって担っていて下さるその恵みの真実において、主ははっきりと 私たちに教えて下さいます。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自 分の命を失う者は、それを見いだすであろう」と。  それゆえに、この十字架のキリストの贖いの恵みの確かさによってこそ、使徒パウロは19 節に「わたしは…神に生きるために、キリストと共に十字架につけられた」とさえ語ってい るのです。それが私たち一人びとりに与えられている、まことの生命の恵みなのです。いま 私たちはここに、キリストが私たちのために、そしてこの全世界の救いのためになして下さ った全ての御業をそのままに受け入れ、信ずる者とされているのです。主の建てたまいし教 会に結ばれ、神の生命に、キリストの義に、永遠に堅く結ばれて生きる者とならせて戴いて いるのです。そこでこそ、私たちは律法に死に、神に生きる者とされているのです。キリス トの義に覆われて、新しい一週間の歩みへと出で立つのです。主にのみ栄光と讃美がありま すように。