説    教     ハバクク書2章4節  ガラテヤ書2章15〜16節
                 

「福音の核心」

 ガラテヤ書講解(14) 2013・02・24(説教13081472)  ガラテヤ人への手紙には「これこそ福音の核心」と思われる大切な御言葉が随所に見られ ます。今朝の2章15,16節などはまさにそのひとつです。ここに示されているのは、私たち の信仰にとって最も大切な「福音の核心」となる事柄です。2章16節がそれです。「人の義 とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によること を認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるの ではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いに よっては、だれひとり義とされることがないからである」。  さて、私たち日本人にとって、聖書が語る「義」あるいは「義とされる」という言葉ほど 「わかりづらい」ものはないと言われます。たしかに日常会話の中に「義」という言葉はほ とんど出ません。しかし本当に私たちにとって、聖書が語る「義」はわかりづらいのでしょ うか。そうではないと思います。私たちは「義」あるいは「義とされる」という言葉を、「救 い」または「救われる」という言葉に、置き換えてみれば良いのです。そうすれば、これは むしろとても「よくわかる」言葉だということに気がつくのではないでしょうか。  今朝の御言葉において、使徒パウロが明らかにしていることは、私たちは誰一人として「律 法」すなわち“自分の行い”によっては自分を救いえず、ただ神の御子イエス・キリストを 信じる信仰によってのみ、つまり教会のかしらなる主によってのみ救われるのだということ です。そしてこの「救い」とは、私たちが全ての罪を贖われて「神の民とされる」という出 来事です。これをヨハネ伝では「永遠の生命」と言い、マタイ伝やマルコ伝では「天の国」 と呼び、そしてルカ伝では「神の国」と呼んでいるのです。この場合の「神の国」とは「神 の永遠の恵みの御支配」という意味です。つまり、私たちの思いと現実を超えて(私たちの 死と絶望をさえ超えて)神が絶えず私たちと共にいて下さる。そのことが私たちの「義」そ のものなのです。  だから、これは「わかりづらい」どころではない、これほど「わかりやすい」聖書の言葉 はないのです。ひとつ聖書から具体的な譬話を挙げましょう。ルカ伝15章11節以下に「放 蕩息子の譬」と呼ばれる有名な譬があります。あるところに兄と弟、二人の息子がいました。 かねがね父親を疎ましく思っていた弟息子は、父親から自分の財産の取分の生前分与を願い、 それを現金に変えて遠い異国に旅立つのです。最初の数年間は放蕩道楽に浸りきり夢のよう な毎日でした。しかし金が乏しくなるに従い、金めあてで寄付いていた偽友達は一人去り二 人去って、気がつけば異国の地に乞食同然の孤独の身になっていました。さらに悪いことに はその地方に飢饉が起こり、飢死にの瀬戸際まで追い詰められたのです。すると弱り目に祟 り目、彼がユダヤ人であると知ってわざとユダヤ人の嫌う豚飼いの仕事をさせた人がいた。 背に腹は変えられませんから、彼はその死ぬほど辛い仕事にも従事した。そして豚が食べて いるイナゴマメで飢えを凌ぎたいと願うほど落魄した身になって、はじめて彼は故郷の父親 に対しておかした自分の罪を悟ったのでした。彼の心に切なる願いが起こりました。それは 是が非でも故郷に帰ってお父さんに心から罪を詫びたい。そうしなければ自分は死んでも死 に切れない。一意専心ボロを纏った身で帰郷した彼を、一日千秋の想いで待っていた父親は、 遠くからその姿を認めるや否や、駆け寄って慈しみの胸に彼を抱きしめ、その全ての罪を赦 し、再び息子として喜び迎えたのでした。「このむすこが死んでいたのに生き返り、いなく なっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然だ」と言って、そこに喜びの祝宴が 開かれたのでした。  そこで、主イエスが語られたこの譬の中で、弟息子のおかした「罪」とはいったい何でし ょうか?。放蕩に身をやつし全財産を浪費したことでしょうか?。聖書はそれよりも遥かに 重い「罪」を示しています。それは父親を自分の利益のための手段と看做し父親の愛に叛い たことです。言い換えるなら、弟息子は自分の中で父を亡き者にしていた。それこそが彼が おかした最大の「罪」でした。神から離れ神との関係なくして生きようとする私たちの存在 のありかたそのものが最大の「罪」であることをこの譬は示しています。私たちは神との関 係を持たない生活のほうが気楽で自由だと思い違いをしているのです。神など信じなくても 立派な生活ができると自惚れているのです。しかしそれは、他人に迷惑をかけない生活、警 察沙汰や新聞ダネになる犯罪を犯さない生活をしているというだけに過ぎません。いわば人 間関係だけを大事にしているというに過ぎないのです。  人間関係の中で私たちは、お世話になった人への義理を忘れまいと心がけます。それは日 本人の美徳です。しかし、私たちをお造りになり、私たちを限りなく愛したまい、私たちの 「救い」のために御子キリストをさえ与えたもうた真の神に対する義理を私たちが忘れてい るとすれば、それこそ人間として本末転倒であると言わねばなりません。もし私たちに命の 恩人がいるとして、その命の恩人に対する義理を欠いたなら「あの人は恩知らずだ」と非難 されるでしょう。それなのに私たちは、神の御子キリストに罪の身代わりになって戴いてい ながら、神に対する恩義を忘れて気にも留めようとしないのです。疾走する新幹線の車内を 幾ら走り回っても行き先は変えられないのと同じように、人間関係だけを大事にして真の神 との関係を蔑ろにする生活は、虚しさと絶望へと疾走する人生の軌道を変えることはできま せん。たとえどう足掻いても結果は同じなのです。そういう愚かなことをまさに私たちがし ているのではないでしょうか。自分の利益のために神との関係を絶ち、神の愛に叛く罪を私 たちがおかし続けているのではないでしょうか。  使徒パウロは、今朝の御言葉であるガラテヤ書2章15節にこう語ります。「わたしたちは 生まれながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが…」と。自分はユタや人とし て当然のごとく「律法によって義とされる」(救われる)身であると考えていた。しかしそ のような「律法による義」(救い)は本当の救いでも何でもないことがはっきりと示された 今、私はこのことを全世界に宣べ伝えずにはやまない。それは16節の音信である、そのよ うにパウロは語っているのです。「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただ キリスト・イエスを信じる信仰による」ということです。私たちは自分の行いによってでは なく、キリストによってのみ「義とされる」(救われる)ことです。「なぜなら」とパウロは 申します。「なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからであ る」。  ここでもうひとつ譬を申しましょう。泥沼に足を取られた人は自分の重みによってどんど ん底へと沈んでゆきます。自分で自分の頭を掴んで引き上げようとしてもそれは虚しいだけ です。それが「律法」です。もがけばもがくほど足が深みに捕らえられるだけです。そこに 「救い」はありません。しかし、そこに私たちを限りなく愛するかたがおられ、私たちのた めに泥沼の底に潜り、私たちの足を下から持ち上げてくれたとしたら、私たちはそのかたの おかげで救われるでしょう。その人が私たちの身代わりとなって泥沼の底に沈んでくれたこ とにより、私たちの命は救われたのです。譬えるならそれが十字架による「救い」なのです。 罪と死という泥沼に足を取られて身動きできず、沈むばかりの私たちを、神の御子キリスト は、その罪のどん底から支え、持ち上げて下さって、ご自分を犠牲にして救って下さったの です。それこそが「キリストによる義」なのです。  だからこそ、パウロはここに「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキ リスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じた のである」と語るのです。限りない喜びと感謝をもって全世界に告げられている救いの出来 事(キリストの十字架によるまことの救い)を宣べ伝えてやまないのです。これこそが「福 音の核心」であると宣べ伝えるのです。この「キリストによる義」の前に「律法の義」は虚 しいと語るのです。私たちがどんなに人間として正しく生きようとも、それが私たちを救う のではないからです。むしろ私たちは主なる神の前に「われはふつつかな僕なり、なすべき ことをなしたるのみ」と言うしかない者なのです。  「キリスト・イエスを信じる信仰」とある今朝の御言葉は、直訳するなら「キリスト・イ エスの信仰」です。不思議な言葉です。どこにも「私たちの信仰」とは書いてないのです。 私たちの信仰はどんな場合にも、自分の中に救いの根拠を見出さないのです。自分の中に拠 り所を持たないのです。私たちはとかく信仰生活に張り合いを感じるときは、自分には信仰 があるように思い、逆に信仰生活に張り合いがないときには、自分の信仰はダメだと決め付 けやすい。いわば私たちは、自分の心の状態のことを「信仰」だと思い違いしやすい。しか し信仰とは、自分の体温を測って一喜一憂することではありません。そうではなく、ただひ たすらにキリストのみを、私たちのために十字架におかかり下さったキリスト・イエスを見 上げて生きることが信仰です。だからパウロは「キリスト・イエスの信仰」と言いました。 極端に言いますと、もはや私たちの信仰などではない。私たちのために自らの全てを献げ尽 くして下さったキリストの信仰が私たちを救うのです。神の前に「義」として下さるのです。 だからヘブル書12章2節には、キリストこそ「信仰の導き手であり、その完成者である」 と語られています。私たちはそのかた「イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」と告げら れているのです。  今朝あわせて拝読した旧約・ハバクク書2章4節は、使徒パウロがローマ書1章17節に も引用しているところです。実はこのガラテヤ書3章11節にも「信仰による義人は生きる」 という文章で引用されています。パウロはここに旧約と新約を結ぶ壮大な神の救いのご計画 (御業)を見ています。イスラエルの歴史・旧約の歴史の全体は、私たちにキリスト・イエ スによる真の「救い」を得させるためにあるのだということです。逆に言うなら、信仰によ らない義人は生きえない。キリストに贖われてこそ私たちははじめて本当の自分に生き始め るのです。人間は神の愛を知り神の御前に生きるとき、はじめて自分が「かけがえのない人 格」であることを知るからです。どこにも替えがない、スペアがない存在であることを知る のです。主なる神は御子イエス・キリストと私たちの一人を天秤にかけて「あなたのほうが 重い」と言われるかたなのです。ここに「福音の核心」があります。福音が福音であること の真の輝きがあります。その輝きの中で私たち一人びとりが、どんなに重い存在とならせて 戴いているか。そしていまここに、新しい聖霊による生命を戴いて、神の祝福の内を歩む私 たちとされているのです。  そればかりではない。私たちはこの教会において、十字架と復活の主キリストに堅く結ば れた者とされています。主の御身体である教会に結ばれ、真の礼拝者とされて、キリストの 復活の生命にあずかりつつ、キリストと共に歩む私たちとならせて戴いているのです。そこ に私たちの尽きぬ幸いがあり、喜びがあり、感謝と希望と生命と自由があり、永遠の救いが あるのです。その救いに、神の「義」に、主は全ての人々を分け隔てなく、招いていて下さ るのです。