説    教   エゼキエル書42章10〜12節  ガラテヤ書2章6〜10節

「エルサレム使徒会議」

 ガラテヤ書講解 (12) 2013・02・10(説教13061470)  通称「エルサレム使徒会議」と呼ばれる重要な会議が、西暦50年にエルサレムで行われま した。初代教会の歴史において最も重要な意味を持つ会議です。その議題となった問題は、ユ ダヤ人ではないキリスト者(異邦人キリスト者)に「割礼」が必要かどうかという問題でした。 パウロは異邦人への「割礼」は不必要であると主張しましたが、エルサレムのユダヤ人指導者 たちは「それは必要だ」と主張したのです。さらに使徒ペテロが“割礼賛成”の立場に傾いた ことが問題を複雑化しました。  さて、この問題はただ単に、教会の制度組織に対する見解の相違ではないことをパウロは見 抜いていました。むしろそれは福音の本質に関わる重要な問題なのです。なぜなら、もし洗礼 の前に「割礼」が不可欠だと言うならば“キリストによってのみ救われる”という福音の本質 は根底から崩れ、救いはユダヤ人だけのものとなり、異邦人(ユダヤ人以外の全ての民族)は 救われないことになるからです。だからパウロは割礼を「不可欠だ」とする立場をガラテヤ書 の中で繰返し「異なる福音」として非難しています。もしこの「異なる福音」が教会を支配す れば、福音はもはや「全ての人を救う神の福音」ではなくなり、キリスト教はユダヤ教の一派 にすぎなくなるでしょう。  そこで、今朝お読みしましたガラテヤ書2章6節以下において、使徒パウロはこの「エルサ レム使徒会議」の結果を簡潔にガラテヤ教会に報告しています。しかもただ会議の経過や印象 を語るのではなく、なによりも福音の正しい筋道(正しい教理)を明らかにし、今後のガラテ ヤ教会がどう歩むべきかをはっきりと示しています。キリストの十字架による罪の贖いは完全 な救いです。問題は私たちがそれを本当に信じて受けるか否かです。人間はただキリストの「十 字架によってのみ」救われるのであり、「十字架と割礼によって」救われるのではありません。 パウロはこのガラテヤ書で明白に「救いは十字架のキリストのみにあり」と宣言しているので す。  ハルナックという神学者は「異端は正統な信仰の一部分だけが誇張されるとき、あるいは正 しい関連が見失われるときに起こる」と申しました。特にパウロの時代エルサレム教会には、 キリスト者になることはすなわち本物のユダヤ人になることという理解がありました。旧約聖 書とキリストとの関連を律法的に解釈したのです。そうしますとやはり「割礼」が絶対に必要 だという結論になるのです。そもそも旧約聖書には「救いはユダヤ人だけのものだ」と書いて あるではないか。そうしますとガラテヤの信徒たちはもう何も言えなくなる。いっけん正しそ うに見えてしまうところに、エルサレム使徒会議が扱った「割礼」の問題の難しさがあり、「異 なる福音」の本当の怖さがあったのです。  そこでパウロは、今朝の御言葉においてこの「エルサレム使徒会議」の結果を4つの事柄に 纏めてガラテヤ教会の人々に報告しています。まず第一に、6節においてパウロは「事実、か の『重だった人たち』は、わたしに何も加えることをしなかった」と語っています。この「重 だった人たち」とは9節に出てくる「ヤコブ、ペテロ、ヨハネ」といった使徒たちのことです。 エルサレム教会の指導者たちです。この人たちからパウロは、パウロがガラテヤで宣べ伝えた 福音は真実なものである(つまり「何も加える」必要がないものだ)と認められたのです。で すからこの「何も加えられなかった」ということは「洗礼を受ける前にまず割礼が不可欠だ」 という主張が「退けられた」ことを意味します。これこそ「エルサレム使徒会議」の最も重要 な結論でした。まさにこの教会会議によって「人間の救いは十字架のキリストのみにある」と いう福音の本質と筋道が明らかにされたのです。当時のエルサレム教会は、まだ祈るために神 殿に行っていたり、ユダヤ教の会堂で礼拝を献げたり、安息日を土曜日とし、異邦人と共に食 事をしないなど、ユダヤ教の「律法」に拘束された面が多々ありました。そこからの完全な自 由をまずエルサレム教会が宣言し、自分たちの立つべき正しい福音をパウロと共に再確認した のが「エルサレム使徒会議」でした。  だからこそパウロが6節の冒頭に「彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには 全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから…」と述べていることはとても大切 です。つまりパウロは、福音の真実は人間の権威によって決められるものではないと語ってい るのです。既にこの手紙の冒頭においてパウロは「人々からでもなく、人によってでもなく、 イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウ ロ」と自己紹介をしています。また1章12節にはパウロは、自分がガラテヤに宣べ伝えた福 音は「人間から受けたのでも教えられたのでもなく、ただイエス・キリストの啓示によった」 ことを明らかにしています。  そこでこそ第二の報告が続きます。パウロが今朝の御言葉の7節に「それどころか、彼らは、 ペテロが割礼の者への福音をゆだねられているように、わたしには無割礼の者への福音がゆだ ねられていることを認め…」と語っていることです。当然ながら福音に「ユダヤ人用の福音と 異邦人用の福音の2種類がある」わけではありません。そうではなく「割礼」という習慣を大 切にするユダヤ人も、異なる習慣や文化を持つ世界中のあらゆる民族も、救われるのはただ「キ リストの福音」のみによるのです。まさに「神は人を隔てたまわず」なのです。よく「郷に入 りては郷に従え」と申しますが、牧師はどこのいかなる任地に赴くにせよ、その土地の文化や 習慣を(それが正しい限りにおいて)尊重し、その土地と人々を愛して福音を宣べ伝え、教会 形成の御業に仕えることが求められます。それは私たち一人びとりも同様です。教会は文化の 真空地帯に浮かぶ根無し草ではありません。私たちは葉山・湘南という土壌に根を降ろした群 れとして、一人びとりがこの地に住む人々を心から愛し、分け隔てることなくキリストの福音 のみを証しし、かくして文化と歴史そのものの救いを宣べ伝える、そのような群れとしてここ に遣わされ建てられているのです。  そこで第三番目に報告されていることは、今朝の9節にもあるように、この「エルサレム使 徒会議」の結果、エルサレムのユダヤ人教会の指導者たちが率先して「異邦人」(ユダヤ人以 外の人々)キリスト者たちに「交わりの手を差し伸べた」ことです。この「交わり」とは伝統 や文化や習慣や民族の隔てを超えて、共にキリストの限りない救いの恵みの豊かさにあずかり、 御言葉によって成長し、共に祈りと志を同じくして主の御業に仕えてゆく「交わり」です。こ うした主にある「交わり」を私たちも豊かに与えられているのではないでしょうか。  最後に、第四番目の事柄として、パウロは10節に「ただ一つ、わたしたちが貧しい人々を かえりみるようにとのことであったが、わたしはもとより、この事のためにも大いに努めてき たのである」と語っています。この「貧しい人々」とは、ただ経済的に貧しい人々という意味 ではなく、エルサレムをはじめユダヤの地に住む全てのキリスト者たちのことです。当時「貧 しい人々」という言葉は“主を待ち望む人々”という意味で用いられたからです。そこで私た ちがすぐに思い浮かべるのは、主イエスが語られたマタイ伝5章3節の御言葉です。「こころ の貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである」と主ははっきりお告げになっ た。この「心の貧しさ」とは「神の御前に自分を明け渡す」ことです。私たちは今ここに御言 葉と聖霊によって臨在したもう主に向かって自分を明け渡す者、この葉山のため日本の全ての 人々の救いのために、救い主(キリスト)の御業が現われることを心から待ち望みつつ、福音 による真の自由と幸いを証してゆく群れとならせて戴いているのです。  さて「エルサレム使徒会議」の結果、決定的なことが起こった。それはエルサレムの教会も、 ガラテヤの教会も、今まで以上の熱心さで伝道に励む群になったことです。私たちは「伝道」 と聴くと、それは牧師・伝道者の務めであり、自分たちには関係のないこと、信徒はなるべく 表舞台に出ないほうが良いと考えてはいないでしょうか。しかし今朝のガラテヤ書2章6節以 下に告げられた福音の恵みは、実は私たち一人びとりが伝道の「かけがえのない器」とされて いるのだという福音です。パウロもその喜びに生かされたのです。ペテロやヨハネといった“キ リストの直弟子”であった使徒に較べれば、キリストを直接には知らず、むしろ「教会の迫害 者」にすぎなかったパウロです。しかしパウロは今朝の御言葉において「神は人を分け隔てな さらず」と明確に語っています。それは自分もまた復活のキリストに捕らわれて真の使徒とし て召され、伝道の使命を、特に異邦人の使徒たる務めを委ねられたということです。この点に おいて他の使徒たちと少しも変わらぬキリストの恵みに生かされていたということです。  それなら、私たちもパウロと同じなのです。私たちが「伝道」と聴いて尻込みをするのは、 私たちは自分の無力さを知っているからです。しかし主は私たちが弱さの中でこそ御業に仕え る道を、この主の身体である教会において、教会に結ばれて生きる人生に与えて下さいました。 私たち一人びとりの力は弱いです。しかし教会が主体となって、そこに私たちが結ばれて生き るとき、私たちも本当の伝道ができるのです。否、本当の伝道はそこからしか生まれてこない のです。考えてみてください。とても単純なことかもしれない。あなたの隣に始めて教会に来 た人が座ったとする。聖書の開きかたも讃美歌の歌いかたも祈りの仕方もわかりません。その とき、隣にいるあなたが、私たち一人びとりが、そうっと手助けをしてあげる。それだけでも 立派な伝道のわざなのではないでしょうか。礼拝のあとで新来会者に、さりげなく声をかける ことも立派な伝道のわざです。自分に良くしてくれた人だけに声をかけたからとて、私たちは なんの優れたことをしているでしょうか。  神学者カール・バルトが「神の子らの証し」という文章の中で福音が伝わる方法を3つに分 けて語っています。バルトはこう言うのです。教会に連なる人々が神への愛と讃美に生きる姿 こそ、何よりも確かに福音を伝える「最大の伝道である」と…。バルトによればその証しには 「3つの形態」がある。第一に「言葉による証し」です。「よき知らせ、つまり福音」を言葉 で伝えることです。言葉でキリストの恵みを伝え、言葉を通して福音の喜びを人々に伝えるこ とです。第二に、行いによる証しです。信仰者として奉仕をすること、教会のための奉仕、礼 拝のための備えをすること、新来会者に優しく丁寧に声をかけること、教会の掃除をすること、 愛の働きをすること、その小さな「行い」によって福音の喜びが人に伝わるのです。第三に「態 度による証し」があるとバルトは語ります。信仰者の生きる態度そのものが、キリストの恵み の豊かさを隣人に物語るのです。キリストの贖いによって“神の子・御国の民”とされた私た ちが、そのことを心から喜び、感謝していることが、その人の態度となって現れるとき、たと え寝たきりになっても、祈ることによって伝道ができる。神に自分を委ねている態度、それが 救いの喜びを証しするのです。  だから伝道は、教会に連なる私たちの様々な働きが主に用いられて成り立つものです。言葉 を用いられる人は言葉で、行いをなせる人は行いによって、態度で現わせる人は態度をもって、 健やかでも、病気になっても、富めるにも貧しきにも、順境にも逆境にも、主の御業にお仕え できるのです。自分の無力さを嘆く必要は少しもありません。私たち皆が教会のそれぞれの部 分(肢体)を担う者として自分を位置づければ良いからです。教会はキリストの身体です。私 たちはその枝(肢体)です。私たちそれぞれが自分にできることを、主の御招きに従い感謝を もって行なえば良いのです。何よりもこの礼拝そのものが、私たち全員が献げている「キリス トを証しするわざ」にほかならないのです。教会にとって“無用の人”は一人もいません。私 たち全てが主によって御業のために用いられるのです。私たちが教会に結ばれて主の僕として 生きるとき、そこにはかならず真の伝道のわざが現れるのです。私たち一人びとりが、その御 業を担う者とされているのです。その喜びと幸いを「エルサレム使徒会議」は現しているので す。