説    教    創世記32章26〜28節   ガラテヤ書2章1〜5節

「エルサレム伝道」

 ガラテヤ書講解(11) 2013・02・03(説教13051469)  ガラテヤ人への手紙には「戦いの手紙」という別名があります。それは聖書が語る正しい 福音を明らかにし証しするための戦いです。使徒が遣わされたその地において、真のキリス トの身体なる教会を建てるための戦いです。その戦いは今日の私たちにも受け継がれている のではないでしょうか。今朝の御言葉・ガラテヤ書2章1節以下においても使徒パウロは、「に せ兄弟」(福音的律法主義者)に対する果敢な戦いを挑んでいます。「にせ兄弟」が持ちこん だ“偽りの福音”によって扇動され福音の真理から逸れてゆこうとするガラテヤの教会に対 して、パウロは激しい言葉で「それはいけない」と語っています。ガラテヤの諸教会に対す るパウロの祈りの熱さを感ぜしめられるところです。  まず今朝の2章の冒頭において、パウロは「その後十四年たってから」と書き出していま す。これは1章18節に「その後三年たってから」さらに「十四年」を経たという意味で、つ まりパウロはここに17年間にも及ぶ自らの使徒たる新しい歩みを証しているのです。その出 発点は申すまでもなく、ダマスコ途上において復活の主に出会ったことでした。ステパノの 処刑に賛成し、主の教会を迫害していたパウロは、復活の主の御手に捕らえられ、その魂の 奥深く、父・御子・聖霊なる真の神を啓示されて、パリサイ人サウロからキリストの使徒パ ウロらに生まれ変わったのです。  この劇的な回心ののち、パウロは単身「アラビヤ」に赴き、そこで3年間を祈りと礼拝と 御言葉の研鑽に過ごし、使徒たる備えの日々を与えられました。古きおのれに死に、キリス トの復活の生命に甦らされ、福音のみを宣べ伝え祝福を告げる使徒として、ダマスコ、エル サレム、そしてシリヤ、キリキヤの地方へと伝道の旅に遣わされてゆきました。しかし1章 22節にあるように、ユダヤ人のキリスト者たち、つまりエルサレムの教会の人々にはまだ「顔 を知られて」いなかったのです。使徒パウロの喜びは、このエルサレム教会の人々が「かつ て自分たちを迫害した者が、以前には撲滅しようとしていたその信仰を、今は宣べ伝えてい る」と聞いて、パウロのことで「神をほめたたえ」ている事実にありました。  そこで場面は、今朝の御言葉へと入ってゆきます。ここに「その後十四年たってから、わた しはバルナバと一緒に、テトスをも連れて、再びエルサレムに上った」とあることです。こ れは、パウロがキリストの使徒となって2度目のエルサレム訪問でした。伝道のための訪問 です。パウロは何処の如何なる人のもとに遣わされてもキリストの福音のみを証しました。 そして2節にあるように「そこ(エルサレム)に上ったのは、啓示によってである」と語っ ているように、パウロがエルサレム伝道に遣わされたのは聖霊なる神の導きによってなので す。そこで、この時のパウロには「バルナバ」と「テトス」という2人の随行者(同労者) がおりました。  まず「バルナバ」はヘブライ語で「慰めの子」という意味名のとおり、ユダヤ人のエルサレ ム教会においても、またギリシヤ人の異邦人教会においても、パウロの伝道の忠実な同労者 として良き働きをした人でした。使徒行伝9章26節以下によれば、パウロの最初のエルサレ ム訪問のさい、エルサレム教会の人々はパウロを警戒して近づこうとはしなかった。そのと きバルナバがギリシヤ語でパウロをエルサレムの信徒たちに紹介したことによって、パウロ ははじめてエルサレム教会に受け入れられ、「使徒」として認められたのでした。その結果、 使徒行伝9章31節には「こうして教会は、ユダヤ、ガリラヤ、サマリヤ全地方にわたって平 安を保ち、基礎がかたまり、主をおそれ、聖霊にはげまされて歩み、次第に信徒の数を増し て行った」と記されています。バルナバという人の働きの大きさを知ることができるのです。 次に「テトス」については、彼もまたパウロの忠実な同労者であり、異邦人出身のギリシヤ 人キリスト者として、ギリシヤ語を話す人々への伝道のわざに豊かに用いられた祝福された 「使徒」でした。パウロの手紙の中にテトスの名は13回も出てきます。何よりもパウロはテ トスに宛てて「テトスへの手紙」を書き残しています。このようにテトスもバルナバと同様、 パウロの伝道の重要な助け手とされた人でした。  ところが、今日のガラテヤ書2章1節以下を見ますと、エルサレムの教会においてこの2 人の同労者(バルナバとテトス)を巡り、思いがけず難しい問題が生じたことが明らかにさ れています。この「十四年」の間にエルサレムの教会はかなりの成長を遂げていました。そ れは歓迎すべきことです。しかし問題は教会が宣べ伝える福音の内容です。教会の規模がい くら大きくなっても、語られる福音が正しくなければ本当の伝道にはなりません。教会も本 物にはならないからです。そしてその問題とは、パウロがガラテヤの諸教会を去ったのちに、 いわゆる「にせ兄弟」たちが持ちこんで教会を混乱させたのと全く同じ問題でした。    ここに、パウロがエルサレムでの経験を語っている理由があります。ユダヤ人のエルサレム 教会と異邦人のガラテヤ教会という、ある意味で対照的な2つの教会に福音理解における対 立が生じた。これを放置すれば教会が分裂してしまう、信仰の根本が崩れてしまう、それほ ど大きな問題でした。それはユダヤ教の伝統(律法の伝統)に固執するユダヤ人キリスト者 たちが、新しく洗礼を受けようとする異邦人キリスト者たちに対して「あなたがたは、洗礼 を受ける前にまず割礼を受けてユダヤ人にならねばならない、そうでなければその洗礼は無 効である」と主張したことでした。どういうことかと申しますと、旧約聖書の伝統を律法的 に解釈すれば、神からの救いは選民であるユダヤ人だけが受けられる。だから異邦人、つま りユダヤ人でない人が救われるためには、まず割礼を受けてユダヤ人にならねばならない。 割礼なしに(異邦人のままに)洗礼を受けてもその洗礼は無効である。そういう解釈でした。 つまり「洗礼の前にまず割礼が必要だ」という二段構えの洗礼論を主張したのです。このこ とは、キリストによってのみ救われるという福音の本質を覆すことです。キリストによる無 条件の救いを「割礼」という条件つきの救いに変えてしまうことです。もしパウロがこれを 見過ごすなら、教会はもはやキリストの教会ではなく、人間の義に基づく虚しい群れになり、 信仰生活は人間の正しさを追及する律法主義に変質してしまいます。  そこでパウロは、ガラテヤ教会の人々に、かつて2度目のエルサレム伝道のさいにも、ギリ シヤ人であったテトスでさえ割礼を強要されることはなかったという事実を訴えました。今 朝の3節に「しかし、わたしが連れていたテトスでさえ、ギリシヤ人であったのに、割礼を しいられなかった」と記されているとおりです。ところが、いまガラテヤ教会に入りこんで きた「にせ兄弟」(福音的律法主義者)たちは、バルナバはギリシヤ人であるから「割礼」を 受けるようにと強要したのでした。そして2章13節を見ますと、バルナバ自身その彼らの主 張に同調して「割礼」を受けようとしていた様子が見て取れるのです。つまり「ほかのユダ ヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずりこきれた」 と記されていることです。パウロはここに、福音の本質を捻じ曲げる誤った教えを「偽善」 であると厳しく非難しています。この「偽善」とは「人を誤りに導くもの」という意味です。 私たちを救い真の自由と喜びと幸いを与えるのがキリストの福音です。しかし「福音的律法 主義者」の二段構えの洗礼論は人を誤りに導く「偽善」にすぎません。ここの部分はギリシ ヤ語の文章も切々に乱れ、パウロの祈りがそのまま伝わってくるようです。  もしも「救いはユダヤ人だけのものであり、異邦人が救われるには割礼が必要である」と したら、私たち日本人も救われないことになります。また「割礼」が洗礼の有効性を決める のだとすれば、もはやキリストの十字架による福音は「条件つきの救い」(つまり律法)に過 ぎなくなります。「キリストのみ」による救いは「キリストと律法」による救いへと変質して しまいます。そのようなものはもはや福音ではありません。まさに「偽善」(福音の名に値し ないもの)です。だからパウロは今朝の4節5節においてこう語ります「それは、忍び込ん できたにせ兄弟(福音的律法主義者)らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリス ト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするため であった。わたしたちは、福音の真理があなたがたのもとに常にとどまっているように、瞬 時も彼らの強要に屈服しなかった」と。  ここにパウロは「福音的律法主義者」たちの誤った教えのことを「自由をねらって」「忍び 込んできた」強盗に譬えています。キリストに結ばれた者たちは罪の贖いによる本当の自由 に生かされた者です。しかしその自由を盗まんとして「にせ兄弟」たちが「忍び込んできた」 のです。キリストでは救われないという「偽善」が人間の自尊心を巧みに捕らえ、キリスト から引き離そうとしたのです。言い換えるなら、私たち人間はどこかで自分を頼みにしてい たいのです。自分もまんざら捨てたものではないと虚しい誇りを抱きたい存在なのです。そ の虚栄心に「にせ兄弟」という律法主義が付け込んできた(忍び込んできた)。これは決して 二千年前の問題ではありません。今日においてこそ私たちがより心せねばならないことです。  パウロはこのガラテヤ書2章において、先輩の使徒であるケパ(ペテロ)に対しても、愛 する同労者バルナバに対しても、その「偽善」に陥ったことで厳しく非難し、そこから立ち 帰るように祈りを献げています。そして愛するガラテヤ教会の人々に対しては、最初に聴い たキリストの福音に堅くとどまり、動かされることがないように勧め、具体的な教会形成の 道とキリストにある真の自由を宣べ伝えているのです。ここでもしテトスまでも「割礼」を 強いられたなら、その結果はガラテヤ教会の崩壊に繋がるでしょう。パウロはユダヤ人の習 慣としての「割礼」それ自体を否定してはいません。問題は「割礼」が洗礼の条件になるこ とです。洗礼は完全な救いの聖礼典でありキリストによる絶対無条件の救いの徴です。だか らパウロは「瞬時も彼らの強要に屈服しなかった」と語っています。ここにパウロの、否、 福音のゆえの教会の戦いの厳しさがあったのです。  宗教改革者たちはこのガラテヤ書から大きな力を与えられ、主の身体なる教会形成の険し い道を歩みました。特にルターはガラテヤ書の講解説教を4回も行っています。真の礼拝を 確立し聖書のみに基づく純粋な福音を宣べ伝えんとする宗教改革の戦いにおいて、このガラ テヤ書は常に改革者たちの支えでした。とりわけ免罪符によって人間の功績がキリストの十 字架の贖いの恵みに摩り替えられた危機に際し、このガラテヤ書を基にしてキリストの十字 架以外に救いはないことを明らかにしました。またカルヴァンは「福音の真理について」と いう文章の中で、ガラテヤ書の「福音的律法主義者」の問題は、彼らが「福音を装った律法」 を教会の柱に据えようとしたことにあると語っています。同時にカルヴァンは、聖書が語る 教理を教会は純粋に保たねばならない。教理の中のあるものを捨てたり蔑にすることは、教 会を根底から破壊し人間から真の自由と一致を奪うことだと語っています。私たちの救いと 自由と一致は永遠に変わることなくただ十字架のキリストのみにあるのです。「キリストの み」による救いを曖昧にするいかなる教えも真の教会を建てることはありえません。その意 味で宗教改革の戦いは「ソラ・クリストゥス」(ただキリストのみによる救い)を明らかにす るものでした。  私たちの周囲にも、明らかに異端(セクト)だとわかる人たちが、熱心かつ執拗に家々を 訪問し、間違った福音まがいの教えを、人々に植えつけようとすることがあります。しかし、 それはまだ眼に見えて明白に「キリストのみ」に反することですから、気をつけていれば済 むことです。本当の問題は、むしろ私たちの日常の中にこそ、キリストの十字架以外のもの を頼みとする誘惑が現われることではないでしょうか。ガラテヤ書の「にせ兄弟」たちが律 法や割礼を頼みとし“キリストだけでは不十分だ”と語ったのと同じように、私たちもまた キリストの御力を侮ることがあるのではないでしょうか。自分の力を頼みとし、自分を誇り として、ときに私たちは真に大切なもの、人を救う唯一の福音の喜びを、自由と慰めと平和 を見失ってしまうことがあります。だからこそ私たちは幾度でも、今朝のガラテヤ書の御言 葉に立ち帰らなくてはなりません。主が生命をかけてお建て下さった教会に堅く結ばれて生 きる私たちであらねばなりません。キリスト以外のものを「救い主」とする「偽善」に対し て「瞬時も屈服しない」私たちであり続けるために、正しい福音に、キリスト御自身に、い つも養われ続けてゆく私たちでありたいと思うのです。そして主は、瞬時も離れたもうこと なく私たちと共にいて下さるのです。永遠に変わらぬ贖い主として…。