説    教   エレミヤ書1章4〜8節  ガラテヤ書1章13〜17節

「召命を受けたるパウロ」

 ガラテヤ書講(8) 2013・01・13(説教13021466)  パウロはユダヤ人ではない人たち(異邦人)にキリストの福音を宣べ伝えるために、主ご 自身の選びを受け、召命された使徒です。「使徒」ためる務めはパウロが自分で決めたのでも 人に勧められてなったのでもなく、全く神の御心によるものでした。これは非常に大切なこ とですから、パウロは手紙の中で幾度もそのことを強調しています。このガラテヤ書の冒頭 でもそうでしたし、ロマ書やコリント前後書、エペソ書やピリピ書にも見られる共通点です。  そこでパウロは「使徒」たるべき召命を受けた直後、先輩の使徒たちに相談することさえ なく、神がお示しになったと信ずるままを大胆に行動に移します。そのような大胆な方向転 換は神の召命と信じてこそできることです。その具体的な行動の足跡はこのガラテヤ書1章 13節以下2章14節までに詳細に記されています。まずパウロは、自分が誰よりも律法に熱 心な「ユダヤ教徒」でありパリサイ人であった頃の話から始めます。すなわち13節以下です。 「ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いてい る。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。そして同国人の 中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、 だれよりもはるかに熱心であった」。ここにパウロは最上級の言葉によって、罪を犯していた 自身の過去を語っているのです。  熱心なパリサイ人であり、律法学者であり「先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはる かに熱心であった」パウロにとって、神が私たちを救うために人となられ、しかも十字架に かかられたというキリスト教の福音は、許しがたき神聖冒涜(神の唯一絶対性を棄損するも の)でした。この「先祖たちの言伝え」とは律法のことをさしています。つまり「人間が救 われるのは自分の行いによる」のだという教えです。人間の救いを保証するものは自分の努 力精進であるという教えです。そしてこの「律法」への努力精進において、パウロは誰より も熱心かつ完全な者であったと言うのです。  実際にそのことは、パウロ自身がピリピ書3章4節以下に回顧している事柄と一致します。 そこではパウロは、かつての自分の熱心さについて「律法の義について落度のない者であっ た」と語っています。この「律法の義について落度がない」というのはそれ自体が名誉ある 称号でした。この称号をパウロは獲得していた。比叡山延暦寺に千日回峰行という過酷な修 行があります。あれを終えた者だけが許される阿闍梨という称号があります。譬えるならパ ウロはその上の大阿闍梨の称号を若くして得ていた。これは大変なことです。数十万もの律 法の項目を完全無欠に守っていたと言うのです。いわば「完全な人間」であったという宣言 です。救われる者の第一位であったということです。  しかしパウロは、ついに律法、すなわち人間の努力精進の中に真の救いを見出すことはで きませんでした。律法は人間としてのパウロに「何々すべからず」という規則を与えるのみ です。それをいかに忠実に守ろうとも、それが決して「救い」にはならないことにパウロは 気がつきました。律法は人間に、利益を愛し罰を恐れる心を与えます。しかしルターは「利 益を愛し罰を恐れることは罪であり、偶像崇拝と同じである」と語りました。私たちは自分 のために利益を愛し罰を恐れるに過ぎない。それは神を崇め神を愛しているのではなく自分 を愛することの裏返しに過ぎないのです。まして神の愛の内を歩むことではないのです。こ こに律法の決定的な限界が(罪が)ありました。  しかし、道に迷った人間が、焦れば焦るほどますます迷路に嵌りこむように、パウロは今 朝の御言葉の13節が語るように「激しく神の教会を迫害し、また荒らしまわっていた」ので した。律法によっては満たされない魂の飢え渇きを、キリストの教会を迫害することで満た そうとしたのです。そのようなある日、パウロはダマスコの教会への逮捕状を携え「殺害の 息を弾ませながら」歩いていたとき、復活の主イエス・キリストに出会います。それは神が パウロにお与えになった「救いの時」(カイロス)でした。そして盲目になったパウロは主が 命じたもうままにダマスコに行き、そこでキリストの使徒アナニヤに出会い、彼から洗礼を 受けてキリストを信ずる者、キリスト者とせられたのです。  この経験をパウロは、今朝のガラテヤ書1章15節にこう語っています「ところが、母の胎 内にある時からわたしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが、異邦人の 間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった」。ここは何度読んでも心 を打たれる御言葉です。道徳的な完全無欠とは裏腹に魂の飢渇きを満たしえず八方塞がりの 絶望の内にあったパウロを、神は御子イエス・キリストとの出会いによって恵みの御手にし っかりと受け止めて下さったのです。ここにパウロの魂の放浪は終わりを告げ、真の平安と 喜びをもってキリストに従う「使徒」たる新しい歩みが始まったのです。  それは、私たちにとっても同じではないでしょうか。私は自分が洗礼に導かれたときの経 験を思い返しても、それはここでパウロが語るように神が恵みをもって「御子をわたしの内 に啓示して下さった」経験であったと感謝をもって覚えます。皆さんも同じではないでしょ うか。つまりこの「啓示」というのは、神が私たちを御言葉と聖霊によって生けるキリスト に出会わせ、十字架の主なるキリストを「わが主・救い主」と信じ告白して主の御身体なる 教会に連なる礼拝者とならせて下さったという意味です。その意味で「啓示」とは非常に具 体的なことです。なにか神秘的な経験をするということではない。「罪」によって神から離れ 神に叛いていた私たちが、キリストとの出会いによって真の神に立ち帰る者とされることで す。主の教会に連なり、主の復活の生命に共に与る者(コイノニア)とならせて戴くことで す。  顧みて預言者エレミヤは、今朝あわせて拝読したエレミヤ書1章5節にこのような神の召 命の御言葉を聴きました「わたしはあなたを、まだ母の胎につくらないさきに、あなたを知 り、あなたがまだ生まれないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。 この主の御言葉(恵みの選びの宣言)にエレミヤは畏れ慄く自分自身を委ねるのです。夏目 漱石の「門」という小説に、主人公が人生の深い苦悩を背負って鎌倉の円覚寺に参禅する様 子が描かれています。そこで老師は主人公の青年(漱石自身)に「父母未生以前の自己や如 何」という公案(禅問答の問い)を与えます。お前の存在はどこに由来するのかという哲学 的な問いです。彼はこの公案を座禅しつつ一所懸命に考えますが、ついに答えを得ることが できぬまま虚しく寺を去るのです。  しかし、私たちには真の神、私たちを限りなく愛し私たちのために最愛の独子をさえ与え たもうた神が共におられるのです。そこに何よりも確かな存在への答えが与えられているの です。それこそ「わたしはあなたを、まだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あな たがまだ生まれないさきに、あなたを聖別した」と宣言しておられる真の神が私たちの救い 主であるという事実です。今朝のガラテヤ書の御言葉で申すなら「母の胎内にある時からわ たしを聖別し、み恵みをもってわたしをお召しになったかたが…御子をわたしの内に啓示し て下さった」ということです。私たちの存在は、ご自身の御子をさえ与えて下さった神の限 りない愛の内にあるのです。  私たちは「召命」と聴くと、それは牧師・聖職者だけのことだと思います。しかしそうで はありません。「召命」とは「命を召す」と書きます。この「命」とはかけがえのない私たち の存在そのもののことです。言い換えるなら、主なる神は私たちをかけがえのない唯一絶対 の存在として、限りない愛をもってお招きになり、尊い使命を与えておられるのです。だか らそれは牧師・聖職者だけのことではない。ここに連なる私たち一人びとりがみな神から「召 命」を戴いています。だからドイツ語では「召命」(Beruf)を「職業」と訳します。「務め」 と言い換えたほうが良いでしょう。私たちは主なる神からそれぞれに、人生の場において尊 い「務め」を与えられている存在なのです。  この「召命」を知るとき私たちは、神の恵みの選びの限りない尊さを知る者とされます。 自分が神の選びにふさわしいか否かは自分で決めることではなく、まして人の評価が決める ことでもありません。そうではなく「母の胎内にある時から」私たちをかけがえのない唯一 絶対の人格として知りたまい、聖別して下さり、招いて下さったかた、主なる神が、選びの 恵みの全ての根拠なのです。だからこれは“無償の恵み”です。私たちはただ感謝と喜びを もって主なる神の「召命」を戴くのみです。そのとき、私たちの毎日が、自分の栄光を求め るのではなく、神の栄光を現わすものへと変えられてゆくのです。健康や富という私たちの 強さにではなく、乏しさや病気という私たちの弱さの中にこそ、神の恵みはより完全に現れ るのです。  使徒パウロが去った後のガラテヤの教会に入りこみ、教会を混乱させた「異なる福音」は、 人間の弱さを否定し、人間の「救い」はその人の努力精進によるものだと教えました。それ に対してパウロは明白に、そういうものは「救い」でも何でもない、私たちが救われて神の 民となるのは、ただ十字架の主イエス・キリストによるのである。この福音の本質を明らか にしたのがこのガラテヤ書です。だから召命に生きるパウロには本当の自由がありました。 人によってではない、人の知恵や力によってでもない。ただキリストの恵みにより私たちは 救われる。パウロはいまこの福音の事実を宣べ伝え、そこに全世界の救いがあることを語り、 真の教会形成のわざに仕えてる志を新たにしつつ、ガラテヤの人々と共に主の御名を讃美し ているのです。