説    教    詩篇51篇14〜17節   ガラテヤ書1章10節

「主の僕たる道」

 ガラテヤ書講解(6) 2012・12・30(説教12531464)  「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているの か。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとし ているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」。これが今朝、私たちに与えられて いるガラテヤ書1章10節の御言葉です。ガラテヤ書の中でも特に印象の深い、大切な御言 葉です。  私たち人間には、いつもどうにかして「人の歓心を買いたい」という欲望があります。ほ とんど本能と言っても良い願望です。人に良く評価されたいという願いそのものは、決して 悪いことではないかもしれません。しかし人間の評価だけが“人生の意味を決定する基準” となるなら、私たちの人生は人の評価に左右されるだけの虚しい根無し草になってしまうの ではないでしょうか。  事実、私たちはどこで何をしても、他の人が自分をどう評価するかが気になって仕方がな いのです。「人の歓心」にばかり心が向いてしまうのです。それは逆に言うなら、他人が見 ているから「歓心を買おう」とするのであって、人が見ていなければ「どんな悪いことをし ても構わない」という価値観に繋がるのです。その結果、私たちは人生の目的を見失った「歓 心を買う」だけの存在となり、虚しい「虚栄心」に支配されてしまいます。虚栄心とは読ん で字のごとく「虚しき栄えを望む心」です。その結果は、絶望か自惚れか、そのいずれかで しかありません。「人の歓心を買おう」として虚栄と絶望の悪循環が起こるのです。  使徒パウロも、かつてはそのような「人の歓心を買う」ことに明け暮れた生活をしていま した。彼は家柄も学歴も律法を守る厳格さも、他の誰の追従も許さぬエリート中のエリート でした。生粋のパリサイ人であり、律法の義において「落ち度のない者」であったパウロは、 民衆からは絶えず尊敬を受け、同僚たちからは羨望のまなざしを向けられ、将来の大祭司の 職務を約束されていた「選ばれた人」でした。パウロがキリスト者と教会を迫害するように なったのも、律法に対する熱心さからでした。パリサイ人の立場から見れば、神がベツレヘ ムの馬小屋に人となられたというクリスマスの出来事は神聖冒涜以外の何物でもなく、キリ ストを信ずる者たちは律法に叛く極悪人であったのです。だからパウロはピリピ書3章6節 にかつての自分を回顧して「熱心の点では教会の迫害者(であった)」と語っています。こ の「熱心」とは「神に対する熱心」という意味です。それは正義そのものだと思われていた のです。  しかし、今朝の御言葉であるこのガラテヤ書1章10節において、パウロは「もし、今も なお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」と語って います。つまりパウロはここに、正義そのものであると確信していたかつての自分の生活が、 実は「人の歓心を買おうとしていた」虚しいものにすぎなかったと告白しているのです。信 仰の熱心ゆえの行動だと、自他ともに認めていたかつての自分の行いが、実は「人の歓心を 買おう」とするものに過ぎなかったということです。逆に言うなら、私たち人間は「信仰」 の名に隠れて「人の歓心を買おう」とすることもあるのだということをパウロは明らかにし ているのです。  そこで、私たちの信仰の歩みにおいても、同じような欺瞞と摩り替えが起りうることに私 たちは注意せねばなりません。私たちも「キリストの僕」であると言いつつ、実は自分の都 合の良いように「信仰」を利用しているだけのことがありうるのです。あるいは信仰の「熱 心」という装いの陰で、神の栄光ではなく自分の栄光を求めることも私たちには起りうる。 否、そもそも私たちにはそうした「熱心さ」さえも無いのだとすれば、なおのこと私たちは 人生の歩みの中で、ただ「人の歓心を買おう」とするだけの存在ではないでしょうか?。信 仰にも不信仰にも、同じように罪をおかす私たちではないでしょうか。  パウロは、そのような「人の歓心を買おうとして」汲々としていたかつての自分の「古き 生活」から、ある時を契機にきっぱりと決別しました。「古きはもはや過ぎ去り、全てが新 しくなりたり」という経験をパウロはした。それはキリスト者を「男女の区別なく」捕縛す るために大祭司の添書を携えてダマスコに向かう途上のことでした。パウロはそこで復活の キリストに出会い、古き罪のおのれを根底から打ち砕かれたのです。この出来事は使徒行伝 の9章に詳しく語られています。十字架においてご自身を犠牲とされた主イエスに出会い、 その十字架の死が自分の罪のためであったと知り、パウロは変えられました。今まで見えな かったことが見えるようになりました。それまで信仰の「熱心」ゆえの正義と信じていたこ との全てが、実はただ自分の栄光の「虚栄」にすぎないこと、つまり「人の歓心を買おうと していた」ことが明らかにされたのです。  それは、人に取り入ることなど微塵もなく、だたご自分を全き神の僕として私たち全ての 者の「罪」の贖いとして献げて下さった、主イエス・キリストの恵みを知ることにおいて明 らかにされたのです。その十字架と復活のキリストとの出会いによって、パウロははじめて 自分の本当の姿を知らされました。それまで自分にとって「誇り」であり「頼み」であった いっさいを、キリストを知る絶大な知識(信仰)の喜びのゆえに「塵芥のごとく」看做すよ うになりました。十字架の主に出会って、パウロの従来の虚栄の価値観(自己中心の生きか た)は全く打ち砕かれたのです。ピリピ書3章8節には「それは、わたしがキリストを得る ためであり、律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信 仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである」 と語られています。  それこそ、まことに幸いな自由と喜びの生活でありましょう。自分を装い繕っていた「虚 栄」から解放されて真の神に立ち帰り、測り知れないキリストの愛の御手に自分のいっさい を委ねまつることこそ、私たちの本当の幸いであり変わらぬ喜びと平安なのです。人に取り 入ることはいつでも、自己保身の審きの心と結びついています。人のためではなく自分を喜 ばせるために「人の歓心を買おう」とするのです。そのようなパウロが、いまやキリストに 出会いキリストを信じて、第一コリント書10章33節にあるように「わたしもまた、何事に もすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの 益を求めている」と言う者に変えられたのです。  ここに、救いの奇跡があるのではないでしょうか。キリストに従う私たちは、もはや自己 保身に生きる必要がないほど、主によって本当の自由と喜びを与えられた者たちなのです。 自己保身の入りこむ隙間が無いほどにキリストの愛と恵みが私たちの存在と人生の全体を、 死を超えてまでも満たして下さるからです。だから今朝の御言葉は倫理道徳ではなく、満ち 溢れるキリストの恵みのみが、私たちを「人の歓心を買おう」とする古き生きかたから解放 し「神に喜ばれる」本当の自由の生活へと導くのです。「もし、今もなお人の歓心を買おう としているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい」とさえ言わしめるのです。これ こそキリストに結ばれて生きる私たちの日々の喜びと感謝の告白です。  だからパウロは第一テサロニケ書2章4節ではこう申しています。「わたしたちは神の親 任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける 神に喜ばれるように、福音を語るのである」。この「人間に喜ばれる」の「喜び」と「神に 喜ばれる」の「喜び」は違うのです。今朝のガラテヤ書でも同じです。前者は「人に取り入 ること」ですが後者は「キリストの僕になること」です。そして「キリストの僕になること」 とは、キリストが私たちのためになして下さった全ての御業を信仰をもって受け、キリスト を主と仰ぐことです。主の御身体なる教会に連なり礼拝者として生きることです。  併せて拝読した詩篇51篇16節以下にこうありました。「あなたはいけにえを好まれませ ん。たといわたしが燔祭をささげても、あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけ にえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を、かろしめられません」。神は、私 たちの悔いし砕けし魂をこそ全てにまさる「いけにえ」として喜び受けて下さるのです。そ れは、主が私たちのためになして下さった全ての御業を信ずることです。主の御業が全てに 先立つのです。私たち自身の力でそうなるのではないのです。私たちのすることは、ただ自 らの不従順を恥じ、罪を悔いることだけです。しかしそれが、神の恵みの道筋の開かれると ころなのです。そこを通って恵みが入りこみ、私たちを、福音を証しする者として立ち続け させるのです。  「人の歓心を買う」生きかたから、ただキリストの僕たる道を歩む幸いは、この恵みによ って始まるのです。すでにその道をキリストご自身が開いていて下さっているのです。あな たのために十字架にかかったかたが、いま溢れる恵みをもって、私たちを「神の僕たる道」 に生かしめて下さるのです。「砕けた悔いた心」とはそこに生きる幸いです。この2012年の 最後の2日間も、そして新しい年も、私たちは「神の僕たる道」を完うして参りたいと思い ます。主が導いて下さり、完成させて下さるのです。