説    教     イザヤ書7章14節  ルカ福音書2章1〜7節

「クリスマス」

 聖夜礼拝 2012・12・24(説教1252b1463)  私たち人間の心は非常に複雑な、不思議なものです。「心」という言葉は「ころころ」が 語源だそうです。転がるように変わる私たちの心の動きを、私たち自身でさえ持て余すこと があります。つい昨日まで幸福の絶頂にあった人の心が、次の日には悲しみに閉ざされてい ることもあるのです。私たち人間は、人に見える、また人に見せる、表だけの部分で生きて いるのではありません。むしろ人には見えない、否、人には見せたくない裏の部分にこそ、 私たちの本心があるのではないでしょうか。  森有正という哲学者が「土の器」という本の中で、こういうことを語っています。「人間 は、どうしても人に知らせる事のできない心の暗闇を持っている。醜い考え、秘密の想い、 ひそかな欲望、恥がある。どうしても他人に知らせることのできない心の暗闇がある……し かし私たちは、実はそこでしか神にお目にかかれないのである。私たちは、誰はばからず語 りうる観念や道徳において神に出会うのではない。人にも親にも先生にも言えず、自分だけ で悩み恥じている、“心の暗闇”でしか神に会うことはできないのである」。  私たちは、逆に思うかもしれません。神は(たとえそれがどんな神であれ)私たちの隠れ た醜い“心の暗闇”などはお嫌いになるはずだ。無意識にせよそう思う私たちは、余所ゆき の表だけの自分で「神」に向き合おうとします。そして偽善に陥るのです。どんなに善い人 間であろうと努力しても、ころころと変わる自分の「心」を、森有正の言う“心の暗闇”を、 どうすることもできない私たちがあるのです。  今日はクリスマスです。説教の題をそのものずばり「クリスマス」としました。この日、 この夜、2012年前に、神の御子イエス・キリストは、私たち全ての者のためにベツレヘム の馬小屋でお生まれになりました。クリスマスには2つのクリスマスがあるのです。ひとつ は「キリストが生まれたまわないクリスマス」。そしてもうひとつは「キリストが私たちの 内に生れたもうクリスマス」です。  では「キリストが私たちの内に生れたもうクリスマス」とは、どんなクリスマスでしょう か。答えは先ほどのルカ福音書2章7節に示されています。そこに、主イエス・キリストが 馬小屋の中に生まれた理由として「客間には彼らのいる余地がなかったからである」と書か れています。驚くべきことです。普通どんな赤ちゃんも「余地あるところ」に生れてきます。 多くの人々に祝福され、喜ばれ、いちばん良い場所を備えられて生まれてきます。「余地な きところ」ではなく「余地あるところ」に、愛と、喜びと、感謝の中に、新しい生命は生ま れてくるのです。しかしキリストは違いました。この世界が神の永遠の御子をお迎えしたと き、この世界はキリストをお迎えするいかなる「余地」をも持たなかった。むしろどこにも 「余地」などないところ、拒絶と無視と憎しみの渦巻くところに、主イエスはお生まれにな ったのです。  「客間」とは人に見せるための部屋、人を案内する部屋です。綺麗に掃除がしてあります。 汚れていれば客が来る前に慌てて掃除します。人に見せて恥ずかしくないように美しく整え ておく場所です。私たちの表の部分です。私たちは必至で「心の暗闇」を隠して、少しでも 見栄え良くしようとします。人に誇れる、自慢できる「客間」を持とうとします。しかし、 キリストがお生まれ下さったのは、そのような「客間」ではありませんでした。  私たち人間は弱い「土の器」にすぎません。私たちはいつも自分だけを「主」としてしま う罪ある存在です。すぐに挫折し、人を恨み、自分に絶望し、他の人を顧みず、自己中心に なる脆い私たちです。小石が当っても壊れてしまう「土の器」に過ぎないのです。しかし、 そのような私たちのあるがまま、私たちの「心の暗闇」の中にこそ、クリスマスの主は来て 下さった。主はまさに私たちの「余地なきところ」に来て下さったのです。「余地なきとこ ろ」にこそ、キリストはお生まれ下さったのです。掃除された「客間」にではなく、ベツレ ヘムの「馬小屋」に、私たちが持て余す“心の暗闇”の中に、主は来て下さいました。それ がクリスマスの出来事なのです。  「クリスマスおめでとう」を英語で「メリー・クリスマス」と言います。「メリー」とは 「メリーネス」(最も大きな喜び)のことです。どうしてクリスマスが「最も大きな喜び」 なのか。それは、キリストが私たちの綺麗な「客間」の中などにではなく、私たちの「馬小 屋」(余地なきところ)にお生まれ下さったかただからです。あるがままの私たち、この世 界のあらゆる矛盾と混乱と対立のただ中に、主は生まれて下さったのです。そして十字架へ の道を歩んで下さったのです。  だからこそ私たちは、心からの喜びと感謝をもって「メリー・クリスマス」とクリスマス の喜びの挨拶を交わすのです。「クリスマスおめでとう、主はあなたのために、そして全世 界の救いのために、お生まれになりました」と語り合うのです。そこに私たちの本当の喜び のクリスマスがあります。「余地なきところ」に来て下さったキリストの愛と祝福の内に、 私たちはいま、キリストと共に歩む者とされているのです。