説    教   詩篇89篇20〜28節  第二コリント書8章9節

「キリストの降誕」

 クリスマス礼拝 2012・12・23(説教12521462)  本日2012年の「クリスマス礼拝」にあたり、私たちは第二コリント書8章9節の御言葉を 与えられました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。す なわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがた が、彼の貧しさによって富む者になるためである」。ここに私たち一人びとりにはっきりと「あ なたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている」と告げられています。ま ぎれもなく私たちが「わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている」のだと告げられ ているのです。それはなぜなのでしょうか。  答えはとても単純です。私たちは今日ここにクリスマス礼拝を献げています。クリスマスの 出来事、それは神が独子なるキリストを、私たちの、そして全世界の救いのためにお与え下さ った出来事です。そのクリスマスの出来事を祝い、ともに礼拝をささげる私たちは、いまはっ きりと「わたしたちの主イエス・キリストの恵み」を「知る」者とされているのです。この「知 る」とは“御降誕の主を礼拝する者とされている”という意味です。「神を知る」ことは「神 を礼拝すること」だからです。  主なるキリストは、私たち全ての者のためにベツレへムの馬小屋に、この世界でもっとも暗 く低く貧しいところに、お生まれ下さいました。永遠の神、天地万物の創造主なるかたが、最 も小さなお姿で、私たちのただ中に、私たちの罪と虚無の現実の最底辺に降って来て下さった、 それがクリスマスの出来事です。だからキェルケゴールという哲学者は「神が人となられた…。 もし私たちがこのクリスマスの出来事に驚かないなら、この世界に驚くべきことは何ひとつな いであろう」と語っています。  偉大なものを讃え、人知を超えた力を「神」と呼ぶことは、神を失ったと言われる現代にお いてもなされています。否、いっけん非宗教的に見える現代人こそ、実は古代の人間以上に熱 心に、強力な権力者を「神」として祭り上げ、依存したいという要求を抱いています。人間の 歴史における権力争奪の歴史がそれを物語っています。しかしそのようなものをいくら「神」 と呼んでも虚しいのです。私たち人間にとって、そこにはなんの救いも、慰めも、喜びもあり ません。たとえ私たちの眼にどんなに力強く絶対的に見える存在も、歴史の中では“無に等し いもの”でしかないのです。自分を強く見せようとする者ほど、実は内側に弱さや脆さを隠し ており、絶対的な権力をふるう者ほど、実は内心戦々恐々と怯えているものなのです。  聖書が私たち全てに語り告げている、クリスマスの主なるイエス・キリストは、そのような 「神ならぬ神」とは全く違います。聖書が宣べ伝え、天使たちが讃美し、ベツレヘムの羊飼い たちが礼拝し、東方の博士たちが献げものをした、まことの神の御子なるキリストは、いと高 き神の御子・天地万物の創造主であられるにもかかわらず、私たちを限りなく愛し、私たちを 慈しみ、私たちを救うために、いっさいを捨てて人となられ、歴史の深み(最底辺)へとお降 り下さった神なのです。聖書が崇めるまことの神は「低きへと昇りたもうた神」です。それこ そクリスマスの出来事において現わされた、まことの神のお姿なのです。  そればかりではありません、私たちは今朝の御言葉の中にさらに驚くべき音信(おとすれ) を聴くのです。それは「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それ は、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである」と告げられていることです。  この「主は富んでおられたのに」とは、キリストが永遠の神のまことの独子として、神と等 しきかたであることを現わしています。ですからこれは、私たちが普通に考える「富」とは全 く桁が違います。そこには2つの意味があります。第一に、この宇宙を考えてみても、宇宙は 私たちの想像より遥かに広大なものです。宇宙全体に存在する星の数は10の70乗だそうです。 これは地球を構成している原子の数よりも多いのです。主なる神はこの宇宙の創造主であり、 宇宙より大いなるかたです。しかもこの「富」とはそれだけに留まりません。第二の意味がよ り大切です。それは何かと申しますと、神は永遠の昔から、父・御子・聖霊なる三位一体の完 全なる愛の交わりを持ちたまい、その交わりの現われとして、この世界を創造されたという事 実です。  そこでこそ私たちの「貧しさ」の意味が明らかになります。私たちはみな例外なく、罪によ って神から離れた者です。パスカルの言う「宇宙の孤児」こそが私たちの姿です。私たちはこ の、神の創造された世界にありながら、この世界の本質である、父・御子・聖霊なる神との永 遠の愛の交わりを失った者となった。これが聖書の語る私たちの「貧しさ」です。その結果、 私たちは自分本位の存在になり、権力闘争に明け暮れ、互いに互いを審き、自分だけを愛する 者になってしまった。この「貧しさ」とは、まことの神を失った私たちの測り知れない「愛の 貧しさ」です。  ルカ伝19章1節以下に「ザアカイ」という人が出てきます。ザアカイは全ての人間の代表 です。エリコの町の「取税人のかしら」であったザアカイには溢れるほどの「富」があり豪壮 な邸宅を構え、なに不自由ない生活をし、大勢の人たちが彼の家に出入りしていました。しか し本当の「友」は一人もいなかった。みんな金目当てのうわべだけの友でした。太宰治の「走 れメロス」のような、自分のために生命を捨ててくれる、そういう真の「友」は一人もいませ んでした。だからザアカイにはその生活の「富」とは裏腹に、底知れぬ悲しみと寂しさがあっ たのです。富めば富むほど虚しさばかりが募ったのです。そのようなザアカイに、主イエスが 愛のまなざしをとめて下さった。主イエスはザアカイのためにエリコの町に来られ、限りない 慈しみをもって「ザアカイよ、急いで降りて来なさい。きょう、あなたの家に泊まることにし ているから」と彼の名を呼ばれて御声をかけて下さいました。この瞬間から、一人の「友」も いなかったザアカイの虚しい生活は根底から変えられてゆきました。主イエスをわが家にお迎 えし、神の永遠の愛によって新しくされたザアカイは、そこに本当の「富」を見いだしたので す。主イエスは言われました。「今日、救いがこの家に来た。この人もアブラハムの子なのだ から。人の子が来たのは、失われていた者を訪ねだして、救うためである」。  この「失われていた者を訪ねだして、救うため」とは、キリストが私たちのために担って下 さった十字架の出来事を現わしています。キリストはザアカイ、否、私たち全ての者のために 生命を献げて下さり、私たちを罪と死の虚しい支配から贖い「アブラハムの子」(神の国の民) として下さったのです。このキリストの贖いの恵みを知り「自分には真の友がいる」と知った とき、ザアカイの人生は変わりました。彼は「自分さえよければそれで良い」という従来の人 生から生まれ変わり、他人の痛みや悲しみを心から思いやり、人を愛する生活へと変えられて いったのです。たとえ他の全ての人が自分のことを否定したとしても、主イエスは自分のこと を知っていて下さる。そう気がついたとき、ザアカイは他の人の本当の「友」となることがで きたのです。以前の彼は「貧しい者」(罪と死と虚無に支配された古き人)でしたが、キリス トの「貧しさ」十字架によって「富む者」(神の愛の内を、神と共に歩む、新しき人)となっ たのです。  ヨハネ伝15章13節。「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛は ない」。これこそクリスマスの出来事を現わしています。永遠の聖なる神が私たちを永遠の愛 により新しくして下さるために、私たちを罪と死と虚無から贖い、父・御子・聖霊なる神の永 遠の愛の交わりの内を、慰めと希望と勇気と平安を持って生る私たちとして下さるために、キ リストはこの世界のもっとも低く暗く貧しい所に、私たちのただ中にお生まれ下さったのです。 まさにこの「キリストの降誕」の出来事(クリスマス)にこそ、私たち全ての者の、そして全 世界の、本当の喜びと感謝、慰めと希望、勇気と平安、永遠に変わらぬ救いがあるのです。ク リスマスおめでとうございます。まことに主は、あなたのために、お生まれになりました。