説    教    申命記11章26〜28節   ガラテヤ書1章8〜9節

「天使にまさる権威」

 ガラテヤ書講解(5) 2012・12・16(説教12511461)  ガラテヤの諸教会を「異なる福音」によって混乱に陥れ、人々をキリストの恵みの御手か ら引き離そうとしていた勢力は侮るべからざる勢力を持っていました。だから使徒パウロの その勢力に対する戦いもまた、厳しいものにならざるをえなかったのです。今朝のガラテヤ 書1章8節と9節において、私たちはその戦いの激しさの一端を垣間見ることができます。 それは「異なる福音」に対する使徒パウロの、キリストの伝道者としての毅然とした姿勢で す。すなわち8節にこうあります。「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使 であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、そ の人はのろわるべきである」。ここにパウロが語っていることは実に単純明快です。たとえ パウロたちであろうとまた「天からの御使」すなわち天使であろうと「わたしたちが宣べ伝 えた福音」すなわちパウロがガラテヤの地に最初に蒔いた福音の種子以外の「異なる福音」 の種子を蒔こうとする者がいるなら、その者は「のろわるべきである」と言うのです。  この「のろわるべきである」という元々のギリシヤ語の言葉は“アナテマ”と申しまして、 信仰告白文の中にもよく出て来る言葉です。つまり、ただ単に意に沿わぬ者を「排斥する」 ということではなく、正しい福音に反する「異なる福音」への“主の戦いの宣戦布告”が“ア ナテマ”です。言い換えるなら「お前の内には生命がないのだ」と宣言しているのです。生 命がないにもかかわらず、いかにも人に生命を与える教えであるかのごとく振舞うのは、そ れは神と人に対する欺瞞以外のなにものでもないのです。その恐るべき欺瞞に対してパウロ は“アナテマ”(主の戦いの宣戦布告)を告げるのです。それが今朝の8節の御言葉です。  ですから、それは続けて9節にこのように繰り返されます。「わたしたちが前に言ってお いたように、今わたしは重ねて言う、もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反する ことを宣べ伝えているなら、その人はのろわるべきである」。古代世界においては、戦場に おいて、戦いを挑む相手に宣戦布告をするさい、相手が聞き漏らさないように2度通告をす るのが儀礼でした。パウロはいまやその儀礼に従い“主の戦いの宣戦布告”をここに2度繰 り返しています。たとえ相手が自分たちの仲間であろうと「御使」(天使)であろうと決し て容赦はしないと言うのです。  そこで、ここに私たちが注目すべき2つの言葉があります。ひとつは8節の「御使」(天 使)という言葉、次に9節の「あなたがたの受けいれた福音」という言葉です。この2つの 言葉を心に留めることによって、私たちはそこに満ち溢れるキリストの恵みの豊かさを知る 者とされるのです。それではひとつ目の「御使」(天使)とはどういうことでありましょう か。  「御使」(天使)と聴きますと、私たちプロテスタント教会に連なる者にとってはあまり 関心がないように思われるのですが、決してそうではありません。なによりも聖書が「御使」 (天使)について多くの箇所で語っています。その幾つかを顧みて参りましよう。特に今朝 の御言葉に関連して私たちが心に留めるべきは第一コリント書6章3節です。ここにはコリ ントの教会の中にあった深刻な問題、教会の分裂の危機に際して使徒パウロが説き勧めた言 葉が記されています。まずパウロは「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起 した場合」と、具体的な人間どうしの対立の場面を挙げ、その対立する問題を「(なぜ)聖 徒に(すなわち使徒たちに)訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか」 と問うています。この「正しくない者」とはパウロ自身の言葉ではなく、コリント教会を分 裂の危機に陥れていた、自らを「正しい者」と呼んでいたグループが、教会の外にいる人々 に対して用いていた言葉です。つまり、パウロが問うているのはこういうことです。コリン トの教会の中に人間どうしの揉め事がある。その場合、あなたがたはそれを教会の中で解決 することさえできず、普段は「正しくない者」と言って侮っているこの世の裁判人に調停を 依頼するのはなぜなのか?…と問うているのです。もしそうならば、あなたがたが「正しく ない者」と呼んで蔑むこの世の裁判官のほうが教会よりも賢いことをあなたがたは認めてい ることになるではないかと言うのです。この矛盾に気がついていないところにコリントの教 会、否、ガラテヤの教会の問題点があったのです。  ですから、同じ第一コリント書6章2節以下に、パウロはこのように語っています。「そ れとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があ なたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないの か」。「聖徒」すなわちキリストの贖いの恵みに生きる者たちこそ「世をさばくもの」である べきなのです。この「さばく」とは御言葉に従って正しい判断をするという意味です。この 世(この現実の世界)は御言葉によって生きてはいませんから、人間同士の揉め事において も正しい判断を下す力はありません。しかし教会は御言葉に従って生きるキリストの御身体 なのですから、どのような事件に対しても正しい判断を下し、間違いのない道(神の御旨に 適う道)を歩むことができる唯一の共同体なのです。そのような恵みを与えられていながら、 どうしてあなたがたはその恵みを受けていない者のように、この世の「正しくない者」の手 に「さばき」を委ねるのかとパウロは問うているわけです。そして3節以下にはこう語りま す。驚くべき言葉です。「あなたがたは知らないのか。わたしたちは御使をさえさばく者で ある。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。それだのに、この世の事件 が起ると、教会で軽んじられている人たちを、裁判の席につかせるのか。わたしがこう言う のは、あなたがたをはずかしめるためである。いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の 争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を 訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すで にあなたがたの敗北なのだ」。  ここにパウロは「わたしたちは御使(天使)をさえさばく者である」とはっきりと告げて います。パリサイ派の律法学者などはいつも「自分たちは天使によって導かれている」と自 称していました。その結果が神の御子イエス・キリストを偽りとし死刑の判決をなし十字架 に追いやったのです。では私たちはどなたによって神を正しく知るのでしょうか?…天使に よってなのか?。それともこの世の知恵によってなのか?…私たちが神を正しく知り、信ず る者となるのは、ただ神の独子イエス・キリストによるのです。それならば、このキリスト の十字架によって全ての罪を贖われ、キリストの御身体なる教会に連なり、キリストの復活 の生命にあずかる私たちは、「御使」(天使)をも審く者とされているのではないでしょうか。  このことをペテロは、ペテロ第一の手紙1章12節にこう語ります。8節からお読みしまし ょう(366頁です)「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。 現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれてい る。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。この救については、あな たがたに対する恵みのことを預言した預言者たちも、たずね求め、かつ、つぶさに調べた。 彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、 あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。 そして、それらについて調べたのは、自分たちのためではなくて、あなたがたのための奉仕 であることを示された。それらの事は、天からつかわされた聖霊に感じて福音をあなたがた に宣べ伝えた人々によって、今や、あなたがたに告げ知らされたのであるが、これは、御使 たちも、うかがい見たいと願っていることである」。  天使たちでさえ何とかして「伺い見たい」と願っていること、それほど素晴らしい救いの 喜びを私たちはキリストによって与えられているのです。それが私たちの教会に満ちている 喜びなのです。私たち人間にとってなにが幸いと言って、神の前に恐るべき罪が全て赦され 贖われて、私たちがあるがままに御国の民とされること、死を超えてまで主の御手の内にあ り続けること、この福音にまさる幸いがどこにあるでしょうか。だからこそペテロは使徒パ ウロと共に、それこそ天使にも勝る、天使をも凌ぐ救いの権威であることを宣言しています。 私たちに与えられているキリストによる救いは、天使の権威をも遥かに勝るのだと言うので す。私たちの救いの確かさはキリストの十字架の確かさなのです。今朝の御言葉は、その確 かさの上に立つ私たちの日々の喜びと感謝の生活へと私たちを導くものなのです。  だからこそ、使徒パウロは“アナテマ”(主の戦いの勝利宣言)を告げてたじろぎません。 この戦いはキリストがすでに勝利して下さった“勝ち戦”であることを言い表すのです。私 たちの日々の現実がどんなに私たちを脅かそうとも、また私たちの毎日の生活がどんなに予 期せぬ悩みや悲しみ、試練や困難によって揺り動かされようとも、私たちは決して変わるこ となく、キリストの勝利の御手の内に堅く支えられ、守られ、すでに主にありて勝利した「御 国の民」の喜びに与らせて戴いているのです。「あめより漏るる勝ち歌に、地なるわれらも 声を合わせん」と讃美歌154番にありますが、まさにそのように、私たちの日々の生活はい ま既にキリストの勝利の御手の内に終わりまで堅く守られ・支えられているのです。それな らば、そのキリストの御手の支配を見えなくする「異なる福音」キリストの救いは不完全で あって、私たちの救いは私たちの努力次第で決まるのだという誤った神人協力説は、絶対に 退けられねばなりません。パウロが「のろわるべきである」とアナテマを宣言するのはその ためです。その「異なる福音」には生命はないからです。宗教改革の戦いも同じでした。こ のガラテヤ書は宗教改革者たちによって厳密に読まれ、正しく解釈されてきた歴史を持ちま す。ルター、カルヴァン、ジョン・ノックス、アンドリュー・メルヴィルといった改革者た ちは、当時のローマ・カトリック教会の主張する「贖宥の教理」いわゆる免罪符を生み出し た「異なる福音」に対して、毅然として戦いを挑んだのです。人間が救われるためには、キ リストの贖いだけでは不十分なのだとする、誤った教えに対して宣戦布告をしたのです。  しかも、それは単なる宣戦布告ではない。まさに今朝の御言葉に告げられているように、 その戦いはすでにキリストが絶大な勝利をおさめておいでになる戦いなのです。だから改革 者たちは微動だにしませんでした。ルターは1519年ヴォルムスの国会に召喚され、そこで 異端審問にかけられ自説の撤回を求められたとき、毅然として申しました。「私は、人の知 恵や言葉によってではなく、聖なる福音の真理である聖書の御言葉によって、すなわち生け る神の御言葉に基づいて、自分の語ったことが間違いであると証明されない限り、私が説教 してきたこと、語ってきたこと、大学で教えたこと、書いたこと、論じたことの一言一句た りとも、撤回することはできません。主よ、われここに立つ、われを助けたまえ」。  御使(天使)は、キリストに仕えるものです。主は荒野において40日40夜の断食ののち 悪魔の試みに遭われました。三つの大きな試みに御言葉をもって勝利された主イエスのもと に天使たちが「みもとに来て仕えた」とマタイ伝4章11節に記されています。それは何よ りも教会の祝福をさしています。私たちの教会は十字架と復活の勝利の主に連なる群れであ る、そういう意味で「天使的使命」を担う群れなのです。ここに連なる私たち一人びとりが 「天使的職務」を担う僕とされているのです。それは私たちの全生涯、否、死を超えてまで も、キリストに贖われた者として生き続けることです。私たちは、自分に与えられたキリス トの御業の素晴らしさ、福音の喜びを物語る僕にされているのです。天使の語源である“ア ンゲロス”とは「告知する者」という意味です、私たち一人びとりが天使のごとく、キリス トの救いの素晴らしさを告知する者とされている。私たちの教会がすでにそのような群れと してここに立たしめられているのです。まさに天使をも凌ぐキリストの贖いの恵みに生かさ れた群れとして、心をひとつにして御業に励む私たちでありたいと思います。